大東亜戦争末期の1945年3月、日本軍はラオスに侵攻した。フランス軍を駆逐し、シー・サヴァン・ウォン国王は全ラオスの独立を宣言、ペサラート政権が発足した。日本はラオスで、ビルマと同じやり方でラオ人に独立を与えたのである。これに対してフランスは、国王を懐柔することによってラオス復帰を目指し、南部から再征服を始めた。これに対しラオス臨時政府が、外務大臣兼軍事総司令官であったスパヌヴォン自ら先頭に立ち、ラーオ・イッサラ軍(自由ラオス)を率いて抗戦する。しかし敗れ、臨時政府はバンコクに移り亡命政府となる。この亡命政府をよそに、フランスはシー・サヴァン・ウォン国王による王国政府を樹立させた。バンコク急進派のスパヌヴォンらは、ラオス北部のラーオ・イッサラ武装勢力のもとに赴き1950年「ネオ・ラーオ・イッサラ」(ラオス自由戦線)を結成し臨時抗戦政府を樹立した。フランスは、反仏運動によりラオスの維持が困難となった1953年、ついにラオスの植民地支配を断念、独立を与える。そして、1954年ディエンビエンフーでの敗北によりヴェトナムに対する支配も放棄し、旧仏領インドシナに新たな時代が訪れた。
ネオ・ラーオ・イッサラ(ラオス自由戦線)は、ネオ・ラーオ・ハクサート(ラオス愛国戦線)と発展的改編され、これがラオス革命による社会主義化を目指すパテト・ラオの中心となっていったのである。ジュネーヴ協定が結ばれ、ラオスの中立・独立・統一を保証した。ラオスの国土は、山岳部のパテト・ラオ支配地区(「解放区」)と、ルアンプラバン・ビエンチャンなど王党派の支配する領域の2つに、事実上分裂した。この直接の原因は、国内各派の確執や抗争であるが、背後で結びつく外国勢力の支援と干渉が主な原因があった。特にアメリカはフランスに代わって、多額の援助によって王国政府を懐柔してきた。一方パテト・ラオは、北ヴェトナムやソ連に支援されながら解放区の建設を着々と進め、「外国に従属しないラオ人のためのラオ人国家建設」を強く説いいて、王党派勢力が後ろ向きの懐古に浸っている状況の中で、ラオスが自給的な農村経済から資本主義を超えて一足飛びに「歴史の前線」に立ちうるマルクス・レーニン主義を全面的に打ち出していった。1975年にサイゴンが陥落したのを受けてパテト・ラオは一気に勢いづき、政権奪取へと進み、その年の12月、「全国人民代表者会議」で、臨時連合政府及ぴ政治顧問委員会の解体宣言がなされた。ワッタナ王は退位を強いられ、旧王党派の官僚はメコン川を越えて対岸のタイに大挙亡命した。こうして、パテト・ラオを中心とするラオ人民革命党の一党支配による社会主義国、ラオ人民民主共和国が樹立された。
ラオス人の友達がサウナを始めた、ラオストラディショナルサウナ、ハーブミストサウナの様なもので結構女性にも人気らしい、ちょっと気になるのは混浴と言うところくらいかな
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