第31師団(烈)宮崎支隊 左突進隊
19年 4月 6日
左突進隊長の宮崎繁三郎少将から佐藤師団長はコヒマ占領の報告を受け、第15軍司令部に報告した。
19年 4月 7日
コヒマ東方のチャカバマの渓谷の烈)師団司令部の佐藤師団長に左突進隊長(宮崎繁三郎少将)の連絡将校がきて、「コヒマ三叉路高地上に敵陣あり直ぐに処置します」の報告。
東条参謀総長・南方軍・ビルマ方面軍・第15軍から祝電が届いたが別に牟田口司令官から「直ちにディマプールに突入すべし」の命令が来たが、コヒマの戦闘が激しい状態であった。
19年 4月 8日
河辺方面軍司令官は牟田口軍司令官から烈)師団に「ただちにディマプールに突入せよ」と命令をだした報告をうけ、師団のディマプールに突入命令を撤回させた。
師団長に牟田口軍司令官から
「1・天長節までにインパールを攻略せんとす。
2・宮崎繁三郎少将の指揮する山砲大隊と歩兵3個大隊をインパール正面に転進せしむ。
3・兵力の移動は捕獲した自動車によるべし」
の命令だがコヒマ三叉路高地にて激戦している最中であった。
佐藤師団長は「兵力の転用は不可能なり」と拒否した。
この時宮崎支隊はコヒマのガリソン高地の争奪に日に2万発と言う砲弾を英印軍から浴びせられていた。
右突進隊(山本支隊) 第33師団
19年 4月 8日
山本支隊 、テングノパールで第20インド師団と衝突
テングノパールの陣地を第213連隊第3大隊800名で攻撃を開始した
英印軍の砲撃や飛行機の爆撃が激しく連日の激戦で80人の生き残りだけとなった。
左突進隊(笹原連隊) 歩兵第215連隊
19年 4月 6日
第1大隊はインパール南道38マイル標識の地点に出た。
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