『ブカレストの東、12時8分』
あれから25年
1989年の東欧民主化革命では、壁崩壊前の8月に東ドイツ市民が大量に亡命するという「ヨーロッパピクニック事件」が発生し、東ドイツ市民が大量にハンガリーオーストリア国境に集まってきたのである。10月にはハンガリーで共産党みずからが党を解体した。そうした動きのなかで、11月9日に東西冷戦の象徴だった「ベルリンの壁」が消
滅し、12月までに、東ドイツ、ブルガリア、チェコスロヴァキアにおいて共産党政権が相次いで崩壊した。残る旧共産圏のなかでルーマニアは、鎖国のアルバニアとともに民主化運動とは無縁の体制のように思われたが、1989年12月21日から2日間、首都ブカレスト(Bucharest)で政権打倒を求めるデモ行進を行っていた市民に向けて、ルーマニア軍や秘密警察セクリタテア(Securitate)の部隊が発砲。市民48人が射殺され、数千人が負傷した。身柄を拘束され拷問を加えられた市民もいる。市民による抗議運動は、この数日前に西部ティミショアラ(Timisoara)で始まった。このため、ティミショアラはルーマニア革命を象徴する都市となった。同市でも市民に弾圧が加えられ、約100人が死亡し、数百人が負傷している。
ルーマニア革命から3年後私は始めてルーマニアを訪れた。ワルシャワからブタペスト行きの飛行機に乗り、ブタペストから「トラバント」と言う紙でできた車でティミショアラまで100ドルくらいだったと思う、優に300キロは超える距離なのだが、ドルの威力は凄かった。当時陸路で移動するときはユーゴスラビアを除いてすべての東欧諸国はビザが必要で国境で取れるとこもあるし取れない国もあったなので事前に用意する必要があっためちゃくちゃ不便な国であった。帰りはティミショアラ発のブダペスト経由ワルシャワ行きの列車に乗り、当時ポーランド人でさえルーマニアと聞いただけでしかめっ面をしていた、列車の中は本当に臭かった人が臭いのである物乞いの様な奴等しか乗っていなかった、ポーランド人の友人が世界で一番貧困なところは北朝鮮とルーマニアだと嘯いていた、先の大戦では日本と同様に枢軸国側として参戦し、その後ソ連の影響下ニコラエ・チャウシェスクの圧政の下どうしようもない位に疲弊しきっていた、一歩外に出ればセキュウリタテの監視社会、革命を経て25年たった、おそらくトランシルバニアの田舎は何も変わっていないだろうと思うが、いまでも馬車が走っているのではないかと思う。
『ブカレストの東、12時8分』
この映画は革命後16年たった年に作られたTV局のオーナー、ユデレスクは何人かの人々にTV出演を依頼する。しかし当日の朝までにこれはと思う人からは出演受諾の返事が貰えず、結局出演すると返事をしてくれたのは、あまり期待をしていなかった飲んだくれて借金だらけの高校の歴史教師マネスクと退職して今はクリスマスにサンタの格好をするボランティアをやる程度しかやることのないピスコチの二人しかいなかった。結局もはや人々は16年前の革命にあまり関心を持っていないのだ。
番組の当日、キャスターを兼ねたユデレスクから、ルーマニア革命のその日あなたは何をしていたのかと問われて、マネスクは10:30か11頃仲間4人(その仲間の何人かは今は亡くなり、残りは国外に出国)と市役所前の広場に集まり抗議行動を行ったと述べると、さっそく視聴者から、お前は嘘つきだ、前の日から飲んだくれていただろう、と早速抗議電話が。映画でデモに参加した人、実は参加したと言っているデモに行ってもいない人が果たして革命はあったのか無かったのか、あれ程皆が歓喜した革命ももはや全く関心のない市民と、デモがあったことを嘘でも言いたい市民1989年の「ルーマニア革命」とは何だったのか?と問いかけている。
2006年ンヌ映画祭の新人監督賞であるカメラドールを獲得した作品です。
機会があったらルーマニア映画をたまにはいいですよ!!
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