2016年2月22日月曜日

宮崎八郎


宮崎八郎は肥後国玉名郡荒尾村(現熊本県荒尾市)に生まれる。孫文を支援した宮崎滔天の兄である。
1870年(明治3年)上京。1874年(明治7年)『征韓之議』を提出する。
ルソーの『社会契約論』の部分訳である中江兆民の『民約論』に影響を受ける。1875年(明治8年)426日、熊本県植木町に植木学校(校長は平川惟一、八郎は学務委員)を設立。
明治10年2月20日熊本城下が慌しくなっていた。植木学校を拠点とした民権党の面々は熊本は保田窪神社に集まり熊本協同隊を結成、選挙により隊長を平川惟一、参謀に宮崎八郎を選び隊は始めは40人ほどでしたが、後に500余人になりました。
221日に川尻で薩摩軍に合流、桐野利秋のもと共に政府軍を相手に戦う。46日、熊本県八代市萩原堤で西郷隆盛を支援し、26歳にして志半ばで戦死した。
隊長          平川惟一
参謀長       宮崎八郎
本営詰       関愼蔵 広田尚 中根正胤 堀善三郎
半隊長       有馬源内
分隊長       麻生直温 野満長太郎
教導長       原田清 高田露 広岡利雄 築地貞俊
輜重長       安東維

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