アップが遅れました
4月13日國の子演説会
登壇順
2013年4月22日月曜日
2013年4月4日木曜日
宮崎四兄弟
西欧列強によるアジアの植民地支配の時代に、全アジアの独立解放と自由平等の実現を夢見て、全財産を投げうつなど、身を削って孫文(1866~1925 中国革命の指導者)らを支援し続けた兄弟たちがいました。荒尾の宮崎八郎・民蔵・彌蔵・寅蔵(みやざきはちろう・たみぞう・やぞう・とらぞう)の4兄弟です。
1997年には「明治青春伝」としてドラマも制作されました。
監督 高橋伴明
出演者 杉本哲太/豊川悦司/洞口依子/永島敏行/仲村トオル
今では宮崎滔天の名も知らない人がほとんどでしょうからここに紹介いたします。
宮崎八郎
(真郷)1851~1877
自由民権に散った天性の革命児
宮崎八郎(はちろう)は、嘉永4(1851)年、政賢の二男として、荒尾村、現在の荒尾市で生まれました。文治元(1864)年、元服して父・政賢と共に長州征伐に出陣しました。熊本の時習館(じしゅうかん)に学び、明治新政府の専制政治への怒りと独立国日本の将来への危機を感じ、自由民権をかかげて活動を開始しました。そのころ、中江兆民の『民約論』に感銘し、明治8(1875)年、自由民権思想をかかげた植木学校を設立しましたが、教育内容の過激さゆえ、県によって僅か半年で閉校させられました。
その後、民権党の同志たちと熊本協同隊を結成し、西郷軍に加わることにしましたが、実際には西郷と思想が一致していた訳ではなく、一端は西郷に天下を取らせ、その後西郷と戦うつもりだと述べたと言われています。八郎は明治10(1877)年4月6日八代萩原堤(はぎわらづつみ)にて27歳で戦死しましたが、彼の自由と平等を愛する精神は兄弟たちに引き継がれました。
宮崎民蔵
土地復権を生涯の使命とした哲人
宮崎民蔵(たみぞう)は、慶応元(1865)年、政賢の六男として、荒尾村、現在の荒尾市で生まれました。明治18(1885)年、上京して中江兆民のフランス思想を学びました。その後、農村で貧しさにあえぐ農民をみて、土地制度に疑問を抱き、土地の所有は人類の基本的人権の一つではないかと気づきました。
その後、土地を平均に分配することをわが使命とし、明治30(1897)年、欧米諸国への遊説の途につき、識者と論じ4年後に帰国しました。明治35(1902)年に土地復権同志会を組織しましたが、明治43(1910)年、大逆事件で民蔵自身にも疑いがかけられ、この生家も家宅捜査を受け、国内での運動は中断しました。明治45(1912)年、「平均地権」の思想を同じくする孫文によって建国されたアジア初の共和国である中華民国に土地復権の実現を託しました。孫文の最期を看取った後も、復権運動の資金獲得のため活動しましたが成功せず、昭和3(1928)年、63歳で亡くなりました。
宮崎彌蔵(管仲甫)1867~1896
理想の国を中国革命にみた思想家
宮崎彌蔵
(やぞう)は、慶応3(1867)年、政賢の七男として、荒尾村、現在の荒尾市で生まれました。明治18(1885)年、大阪・東京に遊学し、明治21(1888)年、熊本市藪の内に住み、病気療養の傍ら、民蔵、滔天(とうてん)、友人達と哲学、社会問題等を激しく論じ、その会合は「藪の内組」と呼ばれました。
彌蔵は、革命的アジア主義を唱え、革命によって中国に理想の国を築くことを願いました。そのため自ら中国人になりきり、横浜の中華商館で弁髪(べんぱつ)を結い、名も管仲甫(かん・ちゅうほ)と称し、中国の言語・習俗の研究に励みました。明治29年、孫文一派の陳少白(ちん・しょうはく)と出会い、宿願達成の第1歩として大変喜びました。しかし、同年、結核に倒れ、「大丈夫(ますらお)の真心(まごころ)コメシ梓弓(あずさゆみ)放タデ死スルコトノクヤシキ」の辞世の句を残して、わずか29歳で亡くなりました。この中国革命に対する情熱は弟滔天に引き継がれることになります。
宮崎滔天(寅蔵)
1871~1922
孫文を助け、革命に挺身した侠の人
宮崎滔天(とうてん)は、明治4(1871)年、政賢の八男として、荒尾村、現在の荒尾市で生まれました。大江義塾(おおえぎじゅく)から東京専門学校、現在の早稲田大学、そして長崎カブリ英和学校、現在の長崎ウエスレヤン大学と多感な青春時代を過ごしたのち、兄彌蔵の説く革命的アジア主義に共感し、明治25(1892)年、上海の土を踏みました。そして彌蔵の死のあと、理想を同じくする孫文との出会いに導かれた滔天は、明治30(1897)年秋に宮崎家へ孫文を招き、革命に向けての熱い思いと固い友情を育みました。
明治33(1900)年恵州(けいしゅう)蜂起(ほうき)などの様々な失敗で挫折を経験し、浪曲師(ろうきょくし)に転身しました。桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)に弟子入りし、桃中軒牛右衛門(とうちゅうけんうしえもん)として孫文の革命運動を歌にして全国をまわりました。丁度その時期の明治35(1902)年に自らの半生を著わした『三十三年之夢(さんじゅうさんねんのゆめ)』で当時無名だった孫文を紹介し、日本に留学していた中国人に感銘を与えました。この本の中国語版が出版されると、たちまち孫文の名が中国人達の間で知られるところとなり、明治38(1905)年7月に孫文と黄興(こうこう)の手を握らせました。それを皮切りに、それまで主義主張の異なっていた中国の革命家たちの手を握らせることに成功し、留学生を中心とした中国同盟会(ちゅうごくどうめいかい)の結成に大きく貢献しました。
明治44(1911)年10月辛亥革命の勃発の知らせを受け、滔天は革命同志を助けるため中国へ渡り、香港に欧米から帰国した孫文をデンバー号の船上で迎えました。辛亥革命成功ののち、大正2(1913)年に、国賓として日本の近代化産業を視察に訪れた孫文を長崎で出迎え、日本各地への訪問に随行し、荒尾の宮崎家にも同行しました。その後も孫文との交友関係は続きましたが、大正11(1922)年、病のため51歳で亡くなりました。
孫文には騙され続けられましたが、支那民衆のために生涯を捧げた兄弟たちの功績を忘れることはできません。彼等の行動は現代の我々に、真の国際理解や国際協力とは何かを示唆しているように思えます。
宮崎滔天誰かに似てるな、そう思いませんか副長
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