2009年11月30日月曜日

千葉のトンデモナイ情報

殺人犯千葉景子


法務大臣の千葉景子氏についての情報である。

彼女が苦学して中央大学の法学部に入学し、学生運動に参加した。
それは赤軍派系の共産主義者同盟に属し成田闘争のおり火炎瓶攻撃で数名の警察官を死傷させていたと言う過去があると書かれていた。

また、その際彼女の投げた火炎瓶が機動隊警察官の楯と楯の交差する僅かの隙間を通り機動隊員を直撃し、その機動隊員が全身火傷で病院に運ばれ、後のニュースで死亡が確定されたとの報道が為された事で学生側の目撃者(現政治評論家)から判明していると言う。
この評論家も当時事情聴取されてその調書が現公安調査庁の資料部に「極秘」の印を押され残っていると言う。


当時、その主犯千葉景子はブント仲間から英雄と称えられていたと言う証言もあり、目撃者や当時の闘争参加者の証言もあり彼女の犯行は確実であると記されている。
また、公安調査庁の調査ファイルに「最重要危険人物」の項目があり、そこには「千葉景子」の氏名がハッキリ記されていると言うのだ。



鳩山政権が誕生して閣僚が発表された時点で驚天動地の混乱を来たしたのが公安調査庁だったそうだ。
その時点で調査庁のファイルに「重要人物」、「最重要危険人物」の二人の氏名が閣僚名簿にあったからだそうで、この混乱は数日続いたと言う。
それに加え更に準閣僚と言うべき副大臣に再度「重要人物」の指定を受けている氏名が上ってしまい、調査部内は再び大混乱状態になってしまったと言う。


この三人の氏名は
「最重要危険人物:千葉景子」、
「重要人物:福島瑞穂、辻元清美」


この本来洩れる筈のない情報が洩れてしまった理由と言うのも調査部の部員が10日間も帰宅を許されず、泊り込みで裏付け調査及び掘り起こし作業に追われ、やっと2日の休暇を得て自宅へ戻った部員の妻への愚痴が、妻からその妹へ、妹からその夫へと言う経路で表に洩れて出て来たらしい。


その情報を得たフリーの記者(妹の亭主の弟)が調査部へ取材したところ、初めは否定していた課員から、本来フリーの記者などの対応に出て来る筈もない部長までもがもみ消し対応に出て来たと言うから恐らくこの情報はガセではないのだと書いてあった。

で、驚くのはそんな元か現かは別にして過激派の殺人まで犯したとされる人物を閣僚、よりによって法務大臣に据えた民主党の人事とはどうなっているのかと思うのは私だけではないだろう。

また、この報道が全くなされていない現在のマスコミはどうなっているのだろう。
これは明らかに犯罪者を隠蔽する行為ではないのか?
これこそ犯罪に与している事にならないのか?

「台湾総合ブログ」台湾真景累ヶ淵と大和心/風雲、虹となれより転載
http://blogs.yahoo.co.jp/nipponia_nippon3/60861374.html

この話は有名なんですか? とんでもない奴ですね
何か狂ってるんじゃないの


人殺しが法務大臣、なんかピンと来ないね。


本人は人を殺しておいてなんとも思わないのかね?

政治家はこう言うレベルでしょうな。

2009年11月28日土曜日

六.少年戦車兵


これは少年戦車兵の日記でも手記でもない。作戦に忙しいこの若武者達にはそんなものを書いてゐる余裕はまったくなかつた。戦車隊はマレー作戦では殆ど先陣を切ってばかりゐたし、その陣頭には十五名の少年戦車兵がゐたけれど、いずれも七十余日の征旅を寸刻の余裕もなく働きつずけた。彼らはスリムの激戦のさなかにお正月を迎へて一つずつ年を取つた。けれど十八歳から二十二歳の若さである。ここに揚げる一文は記者折に触れて書きとめておいた若武者たちの言葉を折つずり合わせたもので、語り手は 遠藤三郎(香川県大川郡石内村) 西村雅男(高知市田場町)藤本幸男(熊本県湯前町)一色峰男(愛媛県任生川町)藤井博(愛知県牛久保町)大前一郎兵衛(京都市左京区銀閣寺町)下和田巌(鹿児島県日置郡永吉村)の諸君

 僕らの部隊はいよいよ出征ときまつたらしいが、どうやら僕ら少年戦車兵だけは残される模様だ。そこでみんなが集まつて相談してみたところ、残されるくらゐなら死んだ方がましだといふことに意見が一致したので代表五名を選んで部隊長殿に嘆願してみた。

 部隊長殿は「軍隊は何事も命令だ。内地の原隊で訓練してゐることも立派な御奉公だから、なにぶんの命令があるまで待て」といはれた。それから僕らは毎晩戦争の話しをした。ところがO月O日夢に見ていた出征命令だ。ああ嬉しくて嬉しくてたまらない。上陸して初めて知つたのであるが、僕らの初陣の戦場は英米をやつつけるマレー戦線であつた。まつ黒のインド兵とまつ白な英豪兵と戦ふことが何かしら世界的舞壷のやうな気がしてたまらなく心が勇んでくる。

 最初の戦ひは英領マレー国境近くのジツトラであつたが僕ら十五名はお互いに手を握り合つて「しつかりやらうぜ」と励まし合つて、それらポケットに入れてあるお父さんやお母さんや姉さんの写真を調べてみた。

 僕ら十五名はみんな操縦手だつた。僕らが少しでも操縦にドジを踏めば戦争全体が滅茶苦茶になるのだと考えると今更ながら自分の重い責任を感じる。戦車に乗り込む前に目をつぶつて、もういちど原隊にをられる教官殿の訓練を思ひ出して見る。これでいくらか心が落着いた。やがて前進命令、しつかりと操縦桿を握つた。ああ何といふことだらう。僕らは何の考えもなしにただまつしぐらに進んでゐるのに、もう敵陣のまっただ中へはいりこんでゐるのだ。轟音のために敵の大砲も友軍の射撃も何も聞こえぬため状況がさっぱり分からないけど、僕らの戦車のすぐ傍らを黒人兵がフルスピードで通り過ぎていつたので、初めてここが敵陣の渦中と分かつたのだ。

 止まったり進んだり、ただ命令に従つて夢中になつてゐるうちに夜が来た。僕らはここで一旦停止することになつた。戦車から出ると今までは相當の激戦で敵は物凄い砲撃を戦車に加えて来たのだと言ふ。僕らはそんな激戦を知らずにゐたことを惜しいやうにも、また申譯ないやうにも思つた。しかし何しろ腹が空いた。そして無茶苦茶に眠い。マレー人がゴム林の中から手招きをするので行つてみると飯が炊いてあつた焼豚のご馳走もある。丁寧にお辞儀をしてからそれを鱈腹食べた。食べ終わると僕らは直にゴム林の中でそのままゴロリと眠つた。

 夜が明けたら隊長殿が「おい、みんなよく寝てゐたなあ、ゆうべは凄い敵の逆襲があつてこの浜はヒユンヒユンと砲弾が来たんだぜ。よつぽど起さうかと思つたけれど寝かしておいてやつたよ」といはれて僕らははずかしかつた。上陸の夜から眠つてゐないから疲れてゐたとはいへ申譯ないことだ。

 僕らはその後段々戦場へ鍬へられていつた。カンバルやスリムの戦争もすさまじかつたが僕らにいちばん思い出になるのはゲマスの戦争だ。僕らはシンガポール一番乗りをめざしてジュホール州攻撃の先陣を切つて凄いスピードで進んでいつた。

 一月十五日の夜、州境ゲマスの町の入り口にある長さ五十メートルの橋を戦車が渡つて、その後歩兵の一部の戦車部隊が渡りきつたとき電気仕掛けで橋は爆破されてしまつた。僕らはこの歩兵部隊とともに敵中に孤立しなければならなかつた。突然火の玉がバツと額に突き當るやうな感じがした。目がくらくらとなつて操縦幹が思わず手から離れようとした。例によつて履隊の喧しさの為に音こそしないけれど敵の砲撃は相當に激しく、火の玉はいくつもいくつもやって来た。戦友の森田章三君(鳥取県)が操縦してゐる第一車はそれでもどんどんと進んでいつたが、突然きりきりと方向を換へて隘路になつてゐる山肌にめり込んでしまつた。よく見ると各坐したまま第一車は盛に砲を射つてゐる。ところが続く第二車は第一車を乗り越へて更にぐんぐんと前へ出たが、これも各坐したらしく第一車、第二車が道路の上に寝てしまったので第三車が通りにくくなつた。

 すると第三車から垣川周八伍長(熊本県牛深町)が飛び出て悠々と誘導をやり始めた。戦車はこの道路両側にある敵の歩兵陣地へ向かつて体当りを食はせるために凄いスピードで前進することになつた。そのころ友軍の迂回部隊が敵の背後に廻つたので、さすがの砲撃も止んでしまつた。みんなで僕ら少年戦車兵最初の犠牲者森田章三君の墓を作ることになりゴムの木を削つた。どこを探しても墨がないので万年筆の中のインキを出して隊長殿から「陸軍軍曹森田章三の墓」と書いて貰つた、、、

 森田よ、僕らは二月九日戦車では困難といはれたシンガポール島の上陸に成功した。随分射たれたけれどシンガポール街道を驀進してブキテマ町魔の三叉路を真先に突破し、そして紀元節には誰よりも先にシンガポールの一角に突入した。森田よ僕らはシンガポールの攻略戦で決して少年戦車兵の名を辱しめるやうなことはしなかつたから安心してくれ。

激論ムック最新号

【激論ムック最新号】ついに一線を越えた高金素梅

激論ムック・最新号「迷走日本の行方」より転載(書店販売中)

「台湾の声」編集長 林建良(りんけんりょう)

 2009年8月11日、原住民枠で選出された台湾の国会議員高金素梅やその配下が、土足で靖国神社の本殿に登り、ハンドマイクで「先祖の霊を返せ」と騒いだ。この不埒な行動を阻止しようとする老齢の守衛がもみ合いの中で軽傷を負ったが、一行はこの犯罪行為を日本政府に追及されることもなく、抗日勝利宣言までした。その直後、高金素梅は北京に行き、胡錦濤に「台湾少数民族による外来侵略勢力への不撓不屈の闘争」と称えられた。

 日本人が中国の慰霊施設でこのような騒ぎを起こしたら、どうなるのか。中国からなんの咎めもなく意気揚々と日本に戻れるのか。日本政府になんの抗議もなく、外交問題にも発展しないですむのか。これは絶対あり得ない。中国だけでなく、どんな国でも慰霊施設で狼藉するうな行為は到底許されることではない。しかし、世界の常識ならあり得ないことが、日本では現実に発生したのだ。



●まず、高金素梅とは何物か。


 その名が日本で知られるようになったのは二〇〇二年だった。靖国神社に「先祖の霊を返せ」と抗議したことをNHKが大々的に報道したことをきっかけに注目された。その翌年、彼女は靖国神社とそこを参拝した日本の首相を相手に「苦痛を与えられた」として訴訟を起し、日本のマスコミが「反靖国台湾国会議員」を扇情的に取り上げたお陰で、彼女は一気に有名になった。

 今や反靖国のシンボルになった彼女は二〇〇二年まで、靖国神社の「や」の字も知らなかった。靖国問題という政治テーマを教えたのは日本人たちであった。靖国神社に無知だった彼女が、日本の左翼の誘いに飛びついて反靖国活動を開始したのだ。

 高金素梅の母親は台湾原住民のタイヤル族だが、父親は戦後台湾渡ってきた中国人の軍人である。中国人の軍人は台湾人を大量に虐殺した一九四七年の二二八事件の加害者としてのイメージが強いため、台湾人に嫌われている。彼らは中国人意識が強く、人生の大半を台湾で過ごしながら、台湾人ではなく中国人であると強く主張している。そのために台湾で生まれ育った彼らの子供たちも、高金素梅のように台湾人としての意識は薄く、中国人としての意識が強烈だ。

高金素梅は高校卒業後、すぐ芸能界に入り、タレントとして活躍した。しかし、芸能活動よりもスキャンダルが彼女を有名にした。数々の不倫騒動からスキャンダル・クイーンのあだ名をマスコミに付けられ、しばしばワイドショーや週刊誌のタネにされた。今回も政治家との不倫騒動の真っ最中での来日であった。

タレント時代の彼女は、「金素梅」の名前で芸能活動を行い、中国人だと自分のことを強調していたが、比較的に当選しやすい原住民枠で立候補するため、彼女はタイヤル族である母親の苗字「高」を加えて、高金素梅としたのである。

今回の騒ぎの企画立案者でもある高金素梅の側近の張俊傑は中国との繋がりが深く、台湾を中国に併合させることを目的とする組織「中国統一聯盟」の前幹事長でもある。張氏は以前から、原住民を中国に送り込んで中国の政治イベントに参加させたり、台湾原住民に「統一思想」と「中国人意識」を植え付けるなど、明らかなる中国の協力者である。こうして原住民の身分を利用して起こした一連の「抗日騒ぎ」は、タイヤル族のためではなく、ましてや台湾のためでもない。それは彼女を利用した親中反日左翼の新たな手口であるのだ。

●台湾を利用する中国の「抗日迂回戦略」

 胡錦涛政権は江沢民時代とは違って、微笑外交で日本に接近するよう方針転換をした。実際、胡錦涛に強い影響力を持つとされる時殷弘・中国人民大学国際関係学院教授は、「対日接近は最も必要であり、中国の安保、外交環境の改善に価値ある『迂回戦略だ』」(『戦略と管理』二〇〇三年二月号)と述べている。対日接近を「迂回戦略」と考えているのだ。高金素梅のような「反日台湾人」を利用して靖国と歴史のカードを切り続けるのもその一環だ。反日の基本路線に変更なしと言うことだ。

 中国は、周辺諸民族を支配下に置かなければ、満足する国ではない。その長年の悲願とは一度も支配下に置いたことのない「東夷日本」を完全に支配することだ。日本に仕掛けている中国の全面戦争の兵器は、核ミサイルや日本領海でうろちょろしている潜水艦だけでない。日本人が理解しなければならないのは、日本内部の親中左派勢力こそが日本の国力と財産を根こそぎ奪い取る中国の尖兵だということだ。一連の靖国問題を「台湾人」に関与させ、手引きしてきたのが日本人であることも、その象徴的事例なのだ。

●親中左派の跳梁と保守の無能


 日本の親中左派勢力は確実に戦果をあげつつある。民主党親中左派政権の誕生も、最たる戦果と言えよう。裏返してみれば、これは保守派のだらしなさの証明にもなろう。親中左派が中国と連携して教育、マスコミ、芸能界、労組に手を伸ばしていることを座視しているのではないか。更にひどいのは、自民党保守政権も中国に媚びていたことだ。安倍、福田、麻生政権が発足当初から靖国神社参拝しないと言明したのも、媚びの心理が働いていたと言える。そもそも国の為に犠牲になった英霊を慰めるかどうかを、外国の顔色をうかがって決める必要がどこにあるのか。自民党政権内部に蔓延るエセ保守は親中左派以上に中国に媚び、極秘情報まで売り渡すという無様な事態になっている。

 中国の対日内政干渉には、絶えず日本国内の左翼グループが援護射撃を行ってきた。その結果、中国の代理人となった親中左派が各界に盤踞し、内部から日本を崩壊させられるほどの力を持つようになった。台湾にも原住民を反日の尖兵にして靖国に代理戦争を仕掛けることは攻撃力を増強しながら、台湾と日本を離間させるという一石二鳥の戦術でもあるのだ。そのような内外から挟み撃ちのできる態勢はほぼ完成に近づいている。手を汚さず、日本を落城させる戦略の端倪は、この高金素梅による騒ぎでみることができる。

●思想のない親中左派思想


 左派思想とは、公よりも私を優先させる自由と人権を擁護する思想であるはずだが、戦後日本の左派は、元々自由人権と個人の権利が保障されている日本で人権思想や個人主義を吹聴する一方、中国の一党独裁や専制統治になんの異論も唱えていない。靖国に執拗に攻撃していることも然り。反戦と訴えながら、過去の軍国主義に攻撃しておきながら、現在進行中の中華覇権軍国主義に目をつぶっている。彼らの運動は本質的には中国に対する事大主義だけなのである。事大主義に走ること自体、すでに彼らが権力志向になっていることを意味しよう。つまり、日本の左派とは左派思想のない左派で、日本という国を崩壊させるだけを目的としているのだ。しかし、これほど空疎な思想に基づく勢力に連戦連敗の保守もどうかしている。

●酷似する日本の「反日」と台湾の「反台」


 実を言えば、国の裏切者や、それを放置する国民と、それを後押しするマスコミの存在など、日台両国の社会状況は極めて似ている。日本の「反日」と台湾の「反台」の両勢力は、思考、行動パターンがほぼ同じだ。どちらも、よく似た戦後思想状況の落とし子なのだ。戦後、日本では祖国否定の思想によって学界、教育界、マスコミが支配され、日本肯定思想は異端視され、罵倒されてきた。台湾では二十年間続いた李登輝・陳水扁台湾人政権でも蒋介石によって台湾に持ち込まれた台湾軽視の大中国思想を抹消することができなかった。

高金素梅をここまで大胆にさせたのは、もちろん背後にある中国の存在であろう。しかしもっと深く考えれば、中国に対する媚びが日本全体に蔓延しなければ、果たしてこれほど不埒な行為ができたのかとも思う。日台両国の愛国者が、喜んで中国のコマを演じる彼女を批判するのはもっともだが、自らの戦略的錯誤も反省すべきではなかろうか。


靖国へ行く前にこんな風に名前忘れましたが社民党党首と会談しております


その後8月22日中国詣でに行つてゐるのです

2009年11月27日金曜日

航空ショーにいこう!








築城基地航空祭
11月29日(日)
基地内には駐車場がありません。
 公共交通機関をご利用下さい。
 JR築城駅から徒歩約7分。
大森美香さんの来場が決定!
大ヒット映画「カイジ 人生逆転ゲーム」の脚本家としても有名な大森美香さんのトー
クショーやサイン会を予定してます。
サイン会参加者の募集が好評でしたので、追加募集が決定しました。


【海角七号】予告編

http://www.kaikaku7.jp/

『海角七号/君想う、国境の南』
12月26日よりシネスイッチ銀座ほか
全国順次公開




アメリカ、裏ルートでアフガニスタン・タリバンと交渉

イスラマバード:

アフガニスタンで、8年間以上、残酷な戦争を戦った後、アメリカ合州国は、その政策の見直しに着手した模様で、サウジアラビアとパキスタンの諜報機関を通したタリバンとの交渉を開始したと、高い地位の情報筋が、当地で月曜日ドーン紙に語った。

「我々は、アフガニスタン・タリバンとの‘交渉’を始めており、我々の努力は実を結ぶだろうと期待している」と秘密交渉に関与した情報筋が、本記者に語った。

彼は、4人の‘主要な中立した関係者’が、サウジアラビア指導部とサウジアラビア王国総合情報庁(GID)と、パキスタン指導部と、統合情報局(ISI)に代わって、アフガニスタン・タリバンと交渉した。

GIDとISIは、アメリカ政府と中央情報局(CIA)に代わって、この仕事をしてきた。情報筋はCIA長官レオン・パネッタが最近パキスタン訪問をした主目的の一つは、裏ルート交渉の進捗を評価することだったと語っている。

情報筋は、サウジアラビアとアフガニスタン・タリバンに代わって、4人のリーダーが仲介人の役を演じていたと語っている。

彼等の中には、オサマ・ビン・ラディンの指導者であったが、ペシャワルで、1989年に、二人の息子と共に殺害されたアブドゥラー・アッザムの、義理の息子アブドゥラー・アナスがいる。アナスはイギリスで暮らしているが、アフガニスタン・タリバンや、アル・カイダとさえ、緊密なつながりを維持している。

かつてはラブタ-イ-アラム-イ-イスラミの卓越した指導者であったサウジアラビア人のアブル・ハッサン・マドニも関与している。彼はメディナに住んでいる。

パキスタン人女性と結婚したイラク人、アブ・ジュド・メフムード・サムライも、接触している。彼は、アフガニスタン戦争における功績に対し、元大統領ズィアウル・ハクから、パキスタン国籍を与えられた。

パキスタン人過激派指導者のマウラナ・ファズルル・レーマン・ハリルも参加している。ハルカトゥル・アンサルを共同で設立したハリルは、現在ヒズブル・ムジャヒディンを率いている。

1998年に、オサマ・ビン・ラディンと、アイマン・アル・ザワヒリが発した、アメリカ人の殺害を呼びかける有名な布告に、彼は署名している。ハリルは、パキスタンとアフガニスタン、双方のタリバンから尊敬を勝ち得ており、パキスタン当局との、同国内での和平を目指す秘密の調停役を演じてきたと言われている。

信頼できる筋は、ドーン紙に、アフガニスタン・タリバンのトップ、ムラー・オマールが、アメリカ人との交渉に、彼の陰の外務大臣アグハ・モタサムを指名した、とも語っている。これまでおこなわれている交渉は、準備的な性格だったが、断食明けの祭りイードの後には、より本格的に再開される可能性があると彼等は語っている。

記事原文のurl:http://www.dawn.com/wps/wcm/connect/dawn-content-library/dawn/news/pakistan/11-us-involved-in-secret-talks-with-senior-taliban--il--06

マスコミに載らない海外記事
http://eigokiji.justblog.jp/blog/

2009年11月25日水曜日

海上機動


 敵を最も悩ましたわが迂回作戦はゴム林やジャングルばかりではない。戦局がベラ州に発展するころ突如として海上迂回の新手が加はつたのである。十二月三十一日わが市川、三柴の両部隊はペナン島で押収した小さな遊覧船三隻に分乗してベラ州ムルトの港からマラツカ海へ乗出して行つた。月美しく波静かなる夜である。手に手に自動車のチューブを持つた兵隊が自電車と自動車を捨てて船に乗込んで行く。マレー半島にいくらでも転がつてゐるゴム、これを浮袋に利用した頭のよさに感心しながら我々記者団もこの決死的海上機動に参加すべく甲板立つた。どこへゆくつもりかどの兵隊も知らない。陸で作っておいたいろんなご馳走が山と積まれてゐる中で朗かな笑ひが爆発して、これから大晦日の晩餐があちこちの隅で思ひ思ひに開かれようとしたとき、輸送指揮官の厳粛な注意が傅達される。
『只今から敵の領海に出るが、この海上には機雷と軍艦と蘭印機が待つているはずである。監視を絶対にゆるがせにしてはならない。』

 思へばここは危険な海である。豪華なる正月前夜の晩餐は惣ちにして「死の晩餐」に変わった。一瞬何人も黙し冷たい水盃があげられた。

 船は海岸にぴつたりくつきながら南へ南へフルスピードで走つたが、我々にはどうしても眠られない夜であつた。果たして夜が明けると三機の敵編隊が舞ひ上がつて来た。いぶかしげに偵察してゐたこの三機は何事もなさずに西へ飛び去つた。一時間ほどしてまたこの三機が偵察にやつて来た。今度はぐつと低空で下がつて来る。「なにやら解せぬふねじやわい」こんな表情が見えるやうな恰好で入り替り立ち替り舞ひ下がつて来る。そのときである、ダダダダダツ!たつたこれだけの機銃が発射されたかと思ふと一機はヒユ-ンと悲しさうな音を響かせてグルグルと海上へ落ちてしまつた後の二機は直に逃げ去る。「おめでたう、おめでたう」の声が沸き上がる。幸先のいいお正月である。

 遊覧船はベルナム河口から方向を変えて河を遡航してウタンメリンタン部落に上陸した後テラカンソンからビドルへ出てカンバルの頑敵の背後を衝くことに成功した。このとき市川部隊のみはさらにベルナム河の遡航を続けた。この河は中流にいたるや意外に両岸に密生した樹木がさながらトンネルのやうに蔽いかぶさり船の進撃を阻んでゐた。

 人間の姿をはじめて見た猿群の驚きは大変なものであったらしく一隻の遊覧船をめがけて数百匹の大群が襲撃してくる。「猿も一匹や二匹だと可愛いけれどかう大勢来れれるとちよつと”戦争“ですよ。」と兵隊はいふ。ところがさらに大敵があらはれた。それはマレー半島上陸以来どの兵隊も憧れて(?)ゐた鰐の来週である。船に向かって猛烈に突きかかつて来る奴に一発ずつ弾を使わなければならなつた。鰐と猿を相手の”戦争“は三晩続けられた。英国のお洒落女が命をかけても欲しがるといふ鰐のハンドバックは少なくとも数百個はベルナム河底に沈んで行ったわけである。部隊は転換してセランゴール州を陸路南下、クララルンプール側面に出て敵の意表を衝いた。

 舟艇機動はその後も頻頻と敢行されたが、我々はマラツカ港を出てムアル、パトバハの沖を通つてセンガラ地域に上陸した岡部隊の奮戦を記憶しなければならない。一月十五日の夜、岡春雄男爵部隊長の率ゐる一隊はマラツカを出港した。このころシンガポール港内にゐた敵砲艦はわが”海上攻勢“に狼狽し必死の哨戒陳をこの近海に布いてゐた。船が十六日朝パトバハ沖に差しかかると突如二隻の砲艦が眼前に現れた。と同時にシアル燈台から射たれ始めた。進むにも退くにも応置なき知つた男爵部隊は大膽にも砲艦の中央突破を命令した。船はあらん限りのスピードで今しも照準準備を終わらんとする二隻の砲艦の真中に突込んでゆく。敵の照準は意外なる日本軍の進路のために急角度の転換を余儀なくされてまごまごする。あつといふ間もなく船はするすると突き抜けていつた。敵が大砲を百八十度に転換し終わつたとき、この船は海岸の入江を深く進入、ジャングルを利用して遮蔽することが出来た。部隊は難なく上陸したが敵はこの一隻の舟艇部隊に度肝を抜かれてしまつた。それはあまりにもシンガポールに近いのである。敵は三千の敵をこの船のために動員した。男爵部隊は上陸して二日目、この大敵の包団の中に窒息するやうな苦しい呼吸を続けた。

 西岸本隊はまだその頃まだマラツカを出発したばかり、しかもムアル河畔の二萬の敵を撃破しなければ到達することが出来ない。男爵部隊長の焦慮は三日目だんだん深刻を加へて来た。兵隊は米や缶詰めと決別した。椰子の子の根が竹の子に似て美味しいことや青いバナナも煮れば芋の味がすることなど兵隊はだんだん新しい発見をしていつた。

 或る日一機の友軍機があらはれた。日の丸が取り出され察空信号が行われると、やがて飛行機から一つの包みが落とされた。「連日の御奮闘を感謝します。これは寄集めで失礼ですがタバコを少々私の志です。欲しい物を至急知らせて下さい。――二田原部隊」兵隊は泣いて喜んだ。

バンコクで20度、タイ東北・東部で低体温症死者も

22日、23日とタイ全土で気温が下がり、タイ国営通信社タイ・ニューズ・エージェンシー(TNA)によると、東北部と東部で43歳と80歳の男性が低体温症で死亡した。23日朝の最低気温はバンコクで20度、北部チェンマイ県にあるタイ最高峰ドイインタノン(標高2565メートル)の山頂で8度まで低下した。

 タイ気象局によると、バンコクの最低気温と最高気温は23日が20度、30度、24日が21度、31度で、25日から週末にかけては最低気温が22―24度、最高気温が32―33度になる見通し。

 一方、ナコンシータマラート、パタルン、ソンクラー、トラン、サトゥン、パタニー、ヤラー、ナラティワートの南部各県では大雨で洪水が発生し、23日には60校以上が休校した。

アストンマーティン大破、フェラーリも  バンコクのショールームに車突入

タイのテレビ報道によると、19日夜、バンコク都内ペッブリタットマイ通りの自動車ショールームに三菱自動車製の乗用車が突っ込み、運転していた男性(41)と同乗していた女性(40)がけがをした。この事故で、ショールームに展示されていたアストンマーティンの乗用車が大破、フェラーリのスポーツカーが破損した。

 ショールームの警備員によると、事故を起こした車はペッブリタットマイ通りを走行中に歩道に乗り上げ、ショールームのガラスを突き破って店内に突入、アストンマーティンなどにぶつかって停車した。被害額は明らかになっていない。警察は居眠りもしくは飲酒運転の可能性があるとみて男性に事情を聞く方針。

スズキ、タイの「エコカー」工場着工
http://www.newsclip.be
/news/20091124_025872.html


ホンダ、タイでインドネシア製「フリード」発売
http://www.newsclip.be/news/20091119_025849.html
因みにこんな車

タクシン元首相の家族が衛星テレビ立ち上げ
http://www.bangkokshuho.com/news.aspx?articleid=8997

こっそり部屋に入ろうとして落下死
http:
//www.bangkokshuho.com/news.aspx?articleid=8980

こんな感じ

有名キャンペーン嬢がビルから墜死、自殺・事故両面で捜査
http://thaina.seesaa.net/article/133677131.html
* 報道映像
http://www.thaipbs.or.th/clip/index.asp?content_id=225456&content_category_id=688

 転落した女性

http://pics.manager.co.th/Images/552000015320202.JPEG

「忍者部隊」がジョホールバルに登場、路上犯罪防止に向け

ジョホールバル(JB)警察はこのほど、引ったくりなどの路上犯罪の抑止に向け「忍者部隊」を結成した。カワサキ製オフロードバイク「KLX250」9台に乗って、市内の犯罪多発地域をパトロールするのが任務だが、フルフェイスのヘルメットで顔を隠していることから、市民たちが忍者をイメージしてこう呼び始めたという。
「忍者部隊」はメンバーは南署に所属する16人によって3カ月前に結成され、パワフルなバイクを乗りこなすため週に1回はジャングルの奥地でトレーニングを積んできた。蛍光ベストを着ている以外は、ジーンズにブーツといったカジュアルな格好だが、激しく動きまわれるようにとの配慮からだという。
「忍者部隊」設立によって一定の効果が上がっており、ジョホール州では他の地区でも同様なオートバイによるパトロール隊の設立を検討しているという。

KLX250自衛隊でも採用されているバイクです、マレーシアでは白バイもホンダVF-800Pと言う日本で採用されているものと一緒のものが採用されています。
自衛隊のKLX250

マレーでもこんな感じになるのかな



3特-情第3特科隊 情報中隊 陸上自衛隊姫路 オートバイ(偵察用)
しかしこれも第代はりでホンダに代わるらしいですね。



反政府組織マラヤ共産党の元幹部、初めておおやけに謝罪
かつて反政府組織、マラヤ共産党(CPM)を率いてマレーシア政府に対して不武力闘争を挑み、現在はタイに亡命しているチン・ペン(85、本名・オン・ブーンフア)元書記長が先ごろタイのバンコクでインタビューに応じ、犠牲者やその遺族に対して初めて謝罪した。
12月2日に和平合意締結から20周年迎えるチン・ペン氏は、あくまで党として罪の無い人を殺害することを許してはいなかったと強調した上で、そういったケースが実際に起きた可能性があることを認め、意図的にそうした殺害が行われたのであれば犠牲者とその家族に謝罪したいと言明。その一方で、同志の行動について自分に責任があるが、戦争中のことであり罪のある人と無い人の区別することはできないと強調、「これは戦争であり、我々が人を殺したというのであれば、我々共産主義者も治安当局に大勢殺害された」と自己弁護を繰り広げた。また自分が人々に許してもらおうとは思っていないが、人々が主義の違いを捨て去ることを望むと述べた。
チン・ペン氏の処遇については国内で意見が分かれており、人民運動党(ゲラカン)や民主行動党(DAP)といった華人系政党や、人権団体などが帰国を認めるよう政策の転換を政府に呼びかけているが、政府は遺族感情に配慮して慎重な姿勢を続けている。ただ今回のインタビューでは謝罪を口にしたものの、相変わらず責任転嫁をして真摯な反省の色がみられないと否定的な見方もされている。汎マレーシア・イスラム党(PAS)のように、チン・ペン氏の帰国には国民の同意が不可欠だとして国民投票を実施すべきとの意見もある。
CPMは中国共産党の傀儡として1927年に南洋共産党として結成され、1930年にマラヤ共産党に改称。戦後は共産革命を目指して武装蜂起し、1989年に和平合意が結ばれるまでマレーシア—タイ国境付近でマレーシア政府を相手にゲリラ活動を続けてきた。チン・ペン氏は和平締結後はタイに住んでいたが、再三にわたってマレーシア側に帰国の許可を要請、昨年はチン・ペン氏の帰国申請を裁判所が却下していた.


「くわけう」とはこう言うものです散々日本軍の嘘情報を流しておきながら、シンガポールで虐殺があったなどという嘘情報には一言も触れていない。
これがくわけうです日本人とは全く違うのですからこんな者を信用してはいけません。

2009年11月24日火曜日

モスクワはこんならしいぜ

今後の世界情勢を考察する上で重要な(何処が重要なんだろうか?)
ルーマニア大統領選挙 決選へ

東ヨーロッパのルーマニアで、5年に1度の大統領選挙の投票が行われましたが、いずれの候補も当選に必要な票を獲得できず、2期目を目指す中道右派のバセスク大統領と中道左派の候補の2人が、来月6日の決選投票で争うことになりました。

ルーマニアの大統領選挙は22日、全国で投票が行われ、地元メディアの開票速報によりますと、12人の候補者のうち中道右派の民主自由党のバセスク大統領が得票率33%でトップに立ち、中道左派の社会民主党のジョアナ党首が得票率31%でこれに続いています。しかし、当選に必要な過半数の票を獲得した候補はいなかったことから、来月6日に2人による決選投票が行われることになりました。ルーマニアは20年前に旧共産党のチャウシェスク独裁政権が崩壊したあと、市場経済体制へと移行し、おととしにはEU=ヨーロッパ連合への加盟も果たしましたが、一方で貧富の差が広がるなど社会の混乱も続いています。選挙では、産業を育成し投資を優遇することで市場経済の活性化を目指すバセスク大統領と、逆に社会保障を充実させ公平な税制を導入して格差の解消を目指すジョアナ党首とが真っ向から対立しており、世論を二分する激しい選挙戦が繰り広げられています。

因みにバセスク大統領の娘はこんな感じです




バンコクも酷いが、モスクワはこんならしいぜ

2010年までにモスクワは過度の渋滞で交通が麻痺するという予想が出た。ロシアの数学者が自動車マーケット成長の予想をベースに、モスクワの交通モデルを導き出した。

しかしロシア政府は、モスクワ渋滞の解決策を講じる予定である。2010~2015年、モスクワ交通システム改善にかける予算は総額4.9兆ルーブル(約23兆円)モスクワ外周環状道路の建設や、モスクワ中央から郊外に向かう道路の拡張工事を予定している。

だが、数学者によると、これらの対策ではモスクワを渋滞から救えない。「問題は道路のレーン数ではなく、建設プラン」との見解を示している。

モスクワでは、中央にある古い5階建てアパートを解体し、同じ場所に今度は17階建てのマンションを数棟建てる、というようなケースが少なくない。つまり、1区画当りの人口が増え、同時に自動車数も増加する計算になる。

また、オフィスが中央エリアに集中し、毎朝、いっせいに中央に向かう自動車のせいで大渋滞が予想される。2009年に完成する予定のモスクワ・シティ(モスクワ中心部の大規模複合体高層ビル)がその代表であろう。

既に渋滞に悩んでいるモスクワでは、地下鉄通勤に変えようと思っている人が多いが、
現在、モスクワの地下鉄を使える人数も限界になっている。

果たして、モスクワは交通渋滞を回避できる道を探せるのだろうか―。

いや、以前はタクシーも走ってなかったのに車はヴォルガしかないと思ってたよ

おまけ

スーザン・ボイルデビューアルバム発売、相当売れるんだろうなこの人のアルバム 


因みにこの人誰ですか

アフガニスタン援助の実態:巨額はどこへ消えるのか

画像は米国国防総省


Joanna Nathan氏は、『Foreign Policy』紙(電子版)の記事で、米国が現地の開発事業をアウトソースするやり方は、非常にネガティブな結果になりうると指摘している。

「現地に建てられた豪華な新築の邸宅を、米国の土木業者や国連機関、大使館、それに法治プロジェクトを請け負う団体などが1ヵ月あたり数千ドルで借りているとしたら、説明責任を果たすという欧米の公約はいったいどうなるのだろうか」とNathan氏は批判する。「アフガニスタンの人々が腐敗について話すとき、それは完全に合法的な援助のことを意味している可能性がある。民間の請負業者らによってアフガニスタンで使われている数十億ドルのお金の大半は、何段階もの下請け業者を経由する中でほとんど失われ、現場には実質的効果をほとんどもたらさないケースが大半だ、という話だけがアフガニスタンの人たちの耳に入っている。このような状況では、どのような契約が交わされていようが、それは腐敗と見なされる」。さらに、援助によって政府高官の縁者が富む状態も、アフガニスタンの人々を怒らせているという。

続くhttp://wiredvision.jp/news/200911/2009112021.html

日本政府は、ほんとうに5000億もの支援を行おうというのか、それともまたしても国民を騙し、一郎の利権にするつもりなのか??
一郎いい加減しょぱいぜ



米国の諜報機関は、人々のブログ記事を見たり、『Twitter』への投稿をチェックしたり、『Amazon.com』でのレビューさえも調べたいと考えているようだ。
米中央情報局(CIA)が[諜報活動に必要なシステムを開発するために]出資・設立している独立非営利ベンチャーキャピタル・グループ『In-Q-Tel』(日本語版記事)は、ソーシャルメディアの監視を専門とするソフトウェア企業の米Visible Technologies社に資金を投じている。
http://wiredvision.jp/news/200910/2009102123.html

米軍基地乱射事件:「自爆テロ称賛」を掲示板に書き込みか
AP通信の記事によると、Scribd.comに「NidalHasan」という名前の人物が、[2009年5月20日に]「ひとつの自爆テロが100人の敵兵を殺せるなら、それは戦略的な勝利だと考えられる」と、書き込んでいた。

「彼らの意図は絶望から死ぬことではない。同じことが日本の神風にも言える。彼らは故国を守るために敵を攻撃したのだ。狂気と呼ぶことはできるかもしれないが、それらは、イスラムにおいて軽蔑される自殺ではない」
http://wiredvision.jp/news/200911/2009110618.html


私も自爆テロが悪いとは思わない、ただ女、子供に背よわせるような問題ではない。戦術的に如何かと言えば、彼が言うている通り何百何千と言う敵兵を潰せるのであればこれほどよいものはない、英軍や豪州軍オランダ軍などはマレー戦で、ガス爆弾などを使っていたではないか、米軍にしても自分達で大量破壊兵器の実験場としてイラクやアフガニスタン、ベトナムでも使っていたではないか、防ぎようがないものは禁止して、自分たちは使用している、またこのものがムスリムと言うことで、話題になっているようだが、勿論イスラムの中にも犯罪者はいますよ。私からすれば貴方たち白人のほうがよっぽど信用ならないし、気が抜けない。

2009年11月23日月曜日

西部戦線

 「俺は何も知らぬ男だ。しかし俺は死ぬことだけは知つてゐる」-暮れかかるムアル湖畔に立つた部隊長の言葉である。OO名の決死隊員を前に此部隊長は夜襲に封する訓辞をしてゐた。やがてこの一団は一隻の舟艇を操ってムアル河を渡り、ジャングルの中へ消えて行つた。八キロの戦線を一瞬にして火の海とし二萬の敵を一兵も残さなかつたといはれるムアル湖畔殲滅戦の序幕はかうして始まつた。

 クアラルンプール攻略後わが主力はネグリスミラン州を瞬く間に席巻しいよいよマレー半島における一大決戦たるジョホール州にその鋭鋒を向けることとなつたが、部隊はスレンバンから二つに分かれ一隊は中央道路を通つてゲマスへ、一隊はぐつと方向をかへてポートジクソンから海岸通を南下することとなった。マレー作戦で西部戦線といはれるのはこの部隊が進撃して行つた海岸通を指すもので、ここでは中央進撃部隊が経験したことのない“連續殲滅”の特異な戦法が行はれた。そしてジョホール州のムアル河に達するや俄然この特異な戦法が発揮され始めた。

 一月十六日の夕刻「死ぬことしか知らない」決戦隊は二隻の小さな刳舟に乗つてムアル河岸のジャングルに達するや銃剣をふりかざして進路を切り開いていつた。漆を沒する泥濘に悩みながら夜が明けるまでに六百米を進んだ。ここは敵の前線主力と後方予備隊の中間地区、オートバイで連絡する敵の伝令兵を片つ端から生け捕りにして敵状を調査した所、果たして敵はシンガポール島防衛最後の抵抗線として第48旅団を主力とするインド編成の新鋭増援部隊で陣地を構築している。まずムアルの町を第一線とし、バドバハの町を第二線とし、更に第三線はプライ高地の貯水池を中心に西岸一帯に広がっており、その兵力も前期の第四十八旅団のほか豪州第八師団などその数将に二萬と算せられてゐた。

 十七日午後わが主力部隊の正面攻撃の火蓋が切られるや先遣上陸部隊は極めて少ない兵力をもつて前面に敗走する敵を待ちうけ、背後には繰出す敵の増援部隊を迎へるといふ危ない運命に逄着しなければならなかつた。もしこれが日本軍隊でなければ挾撃されて脆くも踏み潰されてしまつたであろう。然るにわが軍はかうした少数の“全滅性決死隊”を大膽膽にも敵大軍の密集部分へいくつもいくつも差し込んだ。

 ムアル河畔バクリの部落を中心にかうした戦局が展開し出したころ、てきはムアル河の渡河点に果然空襲と砲艦射撃を集中してわが兵力分離を企画した。ある兵隊は悠々と空を仰いで“戦争じやもの、爆弾の雨も降るさ”といつて大笑する。ある兵隊は銃機を取り出して拶空射撃をはじめるといふ有様、呆れかへるばかりの静けさである。取り乱れざる地上の光景に恐れてか敵は記者団を驚かすだけの効果をお土産に倉皇として逃げていつた。その夜ムアルの町に宿営した我々は適砲艦二隻の近距離砲撃を受けたが着弾はいずれも渡河点を越えること五百米、ムアル河底に棲むといふ鯉の心臓を寒からしめるだけであつた。

 しかしこの頃バクリ部落を中心にわが分散決死隊の凄愴言語に絶する血闘は最高潮に達してゐた。敵陣はいまやこの”陸の潜水艦“の活躍に死に物狂ひの抵抗を開始した。この戦線での敵軍は突撃に当たつて軍歌を合唱する。長いコーラスが不気味にゴム林にこだますると迫撃砲の集中射撃を行ひ煙幕を張つて突っ込んでくる。或る決死隊は半日に三回の”合唱突撃“を斥け、また命脈次第に細まつた敵は毒ガス戦術に出たが被甲をつけた白襷隊の姿は近代戦の壮烈さを語るに十分であつた。

 加治春次中尉(川越市)の指揮する衛生隊は適装甲車三機に襲撃され患者を護つて激闘、手に手に竹やりをかざして突撃を行ひ遂に撃退した。大柿正一部隊長(宇都宮市)は敵襲に際して戦死した部下の銃を執つて自ら射撃しつつ指揮を取り、これを撃退せしめたが無念の一弾に壮烈護国の花と散つた。また坂野茂美部隊長(宇都宮市)は戦死の間際まで血染めの膽架で指揮を続け、伊藤寅士上等兵は故障を起こした重機を分解して腹に抱いて散ていつた。「歩兵は要りません。戦車だけやつつけませう。」といつてパクリの敵陣へ突込んだわが戦車は頑強な歩兵陣地へ壮烈な當の自爆を敢行してこれを沈黙せしめた。分散配置の決死部隊はかくして“点から線へ”連繋しはじめ連続殲滅の凱歌は二十日遂にムアル河畔に揚つたのである。残存敵軍はパリトスロンの町に終結反撃を試しみたが、わが背面部隊と正面部隊に挟撃され、更に自軍機の誤爆を受けて全滅した。

 西部戦線のわが殲滅戦法はそのパトバハ、センガラン、レンギト、ベヌツトを結ぶ海岸線でも繰返へされたがバトバハ、ゴルフリンクの丘に敵屍のために建てられた「英濠無名戦士の墓」こそ野末に匂ふ日本武士道の象徴として西部戦線史を彩るものであらう。この部隊は本道を進む主力部隊がジョホルバハルに感激の日章旗を翻したときプライ高地にシンガポール水道の水源地を仰へ、この高地から遥かにシンガポール島を俯瞰しつつ無量の感慨に打震へたのである。花あるが故に「シンガポールへの花道」と名ずけられた。この西部戦線は僅か二旬にして一輪の花をも失ひ、どす黒い死の道となつてしまつた。百里に瓦る戦線には累々たる敵屍と焼かれた自動車が山を作つて続いてゐる。敵殲滅の偉勲に輝くこの決死隊は岡、吉田、伊藤、山本、見島、大柿、の諸部隊である。

2009年11月22日日曜日

ペダルの進軍



 英領マレーへ進軍したわが主力部隊はまず國境に近いジツトラで激戦した。英軍はこのジツトララインで少なくとも三ヶ月は日本軍を支へるつもりであはよくばここで撃退する目算でもあつた。戦争は緒戦によつてその運命が決まるといはれるが、マレー戦線における緒戦はこのジツトラ戦であつた。敵の防備は将に堅固を極め道路両側のゴム林に張りめぐらされた鉄条網は、その深さにおいても長さにおいてもマレー戦線では最大のものであつた。これが攻略の先陣には鉄牛部隊が起つた。装甲自動車以外には戦車らしいものを持たない敵軍は巨大なる戦車の出現に度肝を抜かれたらしい。しかも巨大なる戦車群は鉄条網をメリメリと破壊していきなり的中奥深く進入していつた。

 黒人部隊の伝令兵がわが戦車の進む方向とは逆に走つて行つたくらゐである。即ち敵の本部を踏み越えて戦車は驀進して行つたのである.敵はこの戦車めがけて項強な手榴弾戦を試み阿修羅のごとき戦車群も手榴弾の猛雨の中に幾たびか危機に陥つた。十一日午後一時から開始されたジツトラ攻略戦は翌十二日の午後六時まで続けられたが三ヶ月の予定は僅か二十九時間で崩れていつた。敵はこのとき手も足も出ず日本軍の強さを認めなければならなかつた。

 苦しい戦いの渦中に入つた兵隊さんたちには申譯ない言葉であるけど、戦線はジツトラ以降は漸く南國的な明るさに満ち坦々と果てなく続くマレー街道をやさしいマレー民衆に迎へられながら椰子の水を飲みマンゴスチンをもぎつつペダルを踏んでゆくアスファルト進軍が続けられた。パンクをすればゴムの汁で直し、壊れればマレー人が新車を提供してくれる。新しい銀輪の大隊列が軽やかに進んでいく後を占獲自動車を加へて太りに太つた自動車隊の段列が百キロも二百キロも続いてゆくのであつた。

 太陽こそ 灼熱の攻勢 ではあるけれど道行けばゴムの樹蔭あり、清らかな水は流れ野には南國の花々が乱れ咲き十指にあまる野生の果物が熟していた。星も月も供に美しく、憧れの南十字星の如きも、兵隊さんの表現によれば“ふだんに見られ”特に蛍の光はたけり立つ心を慰めてくれた。

 一理毎に規則正しくたつてゐる道しるべを頼つてゆけばそこには美しい町が待つてゐた。ジツトラ戦を了へて累々と道路を生めた敵屍の山を越えると、そこに白亜の回教寺院が青い空に聳へてをり、それの周囲には目を奪ふやうな王宮があつた。美しいこの王宮を囲んで緑の芝に包まれカンナの花に飾られた別荘風の住宅がいくつもいくつも並んでゐた。アロースターの町である。印度人の床屋が器用な手つきで兵隊さんの頭を刈りフランス製の香水をふんだんに振りかけてくれる。

 ここから暫く行くとタイピンの町があつた。連邦首都のクアラルンプールに次いで美しい町である。郊外は小高い丘に囲まれ花々に満ちた住宅街があつた。この町には堂々たる兵営があるのだが、僅か六発の爆弾でくしくも敗れ去り、空っぽの兵営の近所には有名なタイピンの博物館があつた。その昔子供を轢かれた親の象が子の仇を討たんと列車に頭を打ちつけて格闘を挑み哀れにも死んでしまつたといふ物語があるが、その巨像の骨が入り口近くに飾つてあつた。金銀で出来た陳列品は采く英濠兵や暴民に掠奪されたが土器や石器はまだそのまま残つてゐた。連邦第一といはれるこの町の公園野猿の群れが走つてゐた。

 また自動車の征旅も楽しかつた。戦争とは決して射合ひばかりではない。めまぐるしく遷る環境の中に捏しい“生活”を維持してゆくことも大切なことである。兵隊さんはこの“生活”の維持に天才を発揮する。僅かな小休止の間でも薪を集め水を発見して飯を炊く。きつちりとつまつた生活時間表のなかから睡眠時間を割り出し暇があれば枕を発見しベッドさへ持つてくる。マレーでは敵の遺棄品がおびただしい。ミルク、バター、チーズ、牛乳、コーヒー、砂糖等が山と積まれていることがある。わが兵隊さんたちのトラツク時としてこんな戦利品で一杯になつてゐる。

 停止してゐるトラツクの段列を縫うてゆくと「記者さん、コーヒーはいかが」「ミルクはいかが」などと呼びとめられ、時には「焼鳥を食つて行つて下さい」などともいはれる。浅草か銀座を歩いてゐる風景であつた。音楽の好きなインド人が時々バイオリンを持つて戦陣慰問にやつて来る。クルアンの町では「皇軍歓迎の歌」を作詞作曲自演奏といふ印度人さへあらはれた。

 しかし楽しい征旅も永らくは続かなかつた、ジツトララインから一斉に敗走した敵は橋梁破壊と地雷施設でわが軍の進撃を遅らせながらイツポ、カンバル、タバー、スリム、タンジョンマリム一帯に幾重にも敵陣を構築し、英兵、豪州兵の精鋭をくりだし、ライオン中将を更迭してパーシヴァル中将に代わらせ一大反撃を企てした。一本の道路上に行われてゐた戦争は籔條の戦線に分れ舟艇機動やジャングル迂回が活発に行われ始めた。主力部隊が西海岸本道近くのジャングルを突破する一方、吉田部隊はベラ河をを南下、また三柴、市川両部隊はマラツカ海上を舟艇機動によつて敵の背後を深く突くなどベラ州全土に多彩な戦局が発展した。敵の使命はまさにこの殲滅戦によつて制せらるべき運命にあつたが元旦前後の猛攻を支へ切れずくしくも敗走した。わが軍はこれをスリムで包囲して最後の一撃を加へたがスリムのいたる或るゴム林の中には折り重なつた六百の敵屍が二キロ四方に屍臭を漂はせてゐた。

 一斉に敵を撃墜して半島随一の美しい都クアラルンプールに入城したとき、あんなに楽しみに指折り数えて待てゐたお正月がもう十日も前に終わつてゐることに気がついた。お正月を誰も想ひ出すことが出来ないくらゐ激しい戦ひの二週間であつた。かうしてシンガポールへあと二州を残すのみ、戦局は最後の決戦に近ずいてゐた。






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鳩山・オバマの記者会見後のカルザイの話かな

「イェス、ヨッシャ ラッキー」5000億これで薬物販売は一休みするかな、弟に連絡してをこう

由紀夫ちゃん なんゐよるん ほんと馬鹿ヤネ

実際我々を何処に連れて行くつもりなんですか、まさか宇宙の果てじゃないでしょうね

2009年11月21日土曜日

民族の唄


 マレーはアジアの場末であつた。そこには色々なアジア民族が英國の統制下にゴミ捨場の如くうごめいて生きてゐた。 英國はこの半島を三つの政治に分けてゐた。一つは海峡植民地(シンガポール、ピナン、ウエルズレー、マラツカ、ラブアン、クリスマス島、ココス島)-これは英國直轄領で住民は英國のの臣民とされてゐた。第二はマレー連邦(ベラ、スランゴール、ネグリースミラン、バハンの各州)-これは英の保護領で君主はゐても実権は英國の知事が握つていた。
第三はマレー非連邦(ジョホール、ケダ、バーリス、ケランタン、トレンガヌー、ブルネイ)で連邦を構成せず英人顧問が指導するといふ仕組みである。

 けれどもこれらはいずれも形式上の区別で事実我々はどの州へ行つても英国のやり方に差別を発見することは出来なかつた。 彼らはまず立派な道路と病院と水道と教会を作つた。ついで米を作る余地を興へない位にゴム園を開拓した。 米の自給自足をやらせると民族は生長して独立する可能性がある。 全土がゴム園になると、まずゴム園の真中に王宮の如き家を作つた。ピストルと猟銃を持つた英人のマネージャーが乗込んで王様の如き生活をして土民を驚かせた.彼らはマレー人学生の中毎年首席の者を英国へ留学させ、二番、三番を、各州の役人に採用した。 彼らは民族のダラ幹となつて抑けんの手先として働いた。こんなお膳立で英國一流の搾取を始めて行つた。

 アロースターの街での話である。所謂コーヒー店で私は老いたる印度人農夫に話しかけられた。
「旦那様、まあ聞いて下さい。あつしは三十年間イギリス人の農園に働いてゐるのですが月給はいくらと思ひます。十ドルですぜ。一ヶ月十ドルですよ。これじや食つて一年に三枚シャツを買うのがやつとですよ。働く甲斐がありませんや。ところで日本政府は俺らにはいくら位賃金をくれるでせうねー」

 こんな風に印度人にはまだ不平をいふだけの勇気があつた。マレー人に至つては「賃金は安くてもよいから書寝をする時間を下さい」と訴へるくらゐに去勢されていた。希望を失つて既に数百年間、彼らの魂は動物に近きにまで没落して行つたのである。 彼らは英人に剄迫されたばかりではない。 支那人さへ押しのけられてしまつた。街々は華僑(くわけう)の独占するところとなり、土着民衆は農園に追ひやられたタメ貧困のみが一年々々と深刻になつて行つた。 マレー人の間では自動車の運転手になることが出世頭であつた。 

 ある日彼らの頭上にスコールの如く無数のビラが降つて来た。美しい印刷のビラには鎌の鎖を切り破つて英人を足の下に踏んまへてゐるマレー青年の姿が描かれてあつた。 ビラの文句には「英米悪魔の桎梏に泣いてゐるアジア民族に自由と解放の日は来た。 救世主日本軍は諸君の解放のためにすぐ眼前にあらはれるであらう。」とある。 彼らには信じられない夢であつた。しかるに夢は数日にして現実となつた。 約束通り幾百の飛行機が頭上に乱舞したし数知れぬ自動車の隊列と、今まで見たこともない戦車の大群が嵐の如くやつて来た。 日の丸を揚げたこの 「救世主」 たちは土着民衆にいつもニコやかに笑つてゐる。 暴行も掠奪もやらない、彼らがあらわれるとその翌日には王様の布告が出る。 治安維持会が出来る。 新しい貨幣が流通する。 美しいビラが毎日意匠を換へててばらまかれ街には映画が上映され、レコードが宣撫のメロデーを奏でる。 めまぐるしい、しかも楽しき革命である。 楽しい心を抱いてそこはかとなく彼らは青空に向かつて唄ひたくなる。 民族の唄が街にも村にも流れてゆく。やがて彼らの街にマレー兵やインド兵孵つて来た。 いずれも白い腕章をつけて日本軍の証明書を持つてゐる。 民族の呼び声に目をさまして英軍の陣地から脱出してきたのだ。百名、二百名、彼らの群は果つることなく街へ逆流して来る。 この兵隊は即日新しい任務を興へられて街の交通整理や警備に當つてゐる。 

 二月八日、シンガポール島攻略の砲撃の火蓋は意外にも我々の想像しなつたコースウエーの東側から切られた。 友軍の砲兵があの側にさう澤山はゐるはずがないと思つたら、やがてそれは投降印度兵の協力砲撃と分つた。 昨日まで日本軍を射つてゐた砲兵陣地はそのままにしてシンガポールへ向けられたのであつた。英軍の大砲で英軍の砲弾で英軍は死滅して行つた。

 アロースターの街で、私は一人のがつちりした印度人を印象にとめた。 彼の目はらんらんと輝いてゐるが、その服装はみすぼらしく風呂敷包みを重さうにかついで流浪の民の如く南へ南へ歩いて行くのであつた。数日後私はタイピンの街でも彼の姿を発見した。 同じ姿でまたも南へトボトボ歩いてゆく。 クララルンプールでも同じやうな姿で歩いてゐる彼を発見した。私はどうしても彼の正体をつきとめたい衝動にかられた。 呼びかけられた彼はニヤリと笑つて告白した。「私はいつも日本軍より先に英軍の陣地に入つて行きますよ。 英軍の鞭のもとに無数の同胞が誤れる戦争をしてゐますよ。 私はそれを救ひにで掛けて行きます。まあお見逃し下さい。」彼は大きな黒い手を差し出して私の手を固く握つた。彼は印度独立同盟の志士であつた。遠くサイゴンやバンコツクから民族解放の戦士として大東亜戦争に馳せ参じたのだ。

 ジョホール州に戦局が発展するころ、敵は印度兵やマレー兵を第一線に出さなくなつた。寝返りを打つ者があまりに多いためであつた。この印度人部隊は想像外に強かつた。 銃剣を持つて突撃して来るのも多くはこのインド兵である。だから彼らは戦ひに敗れて降伏して来るのではなかつた。 アジア人に環る當然の宿命をはたしたのみであつた。 インド兵の大量投降続出を嘆いた當時の英軍指揮官ライオン中将はいくたびか逃亡防止通牒を漢発した。「戦況止むを得ざる場合または不可抗力の場合のほか絶対に投降を禁止する。 特にインド兵の投降の多いのは遺憾の極みである。 自今一層精神教育を施してこれが阻止に務べし。」こんな通達は却つてインド兵の逃亡に拍車をかけるばかりであつた。

 日本軍に投じたインド兵は投降兵といはれるのを極度に嫌がつた。 我が軍でも彼らに協力者とういふ名を興へて優遇した。 彼らは日本兵無しにマレー街道をぞろぞろ列を作つて自由に行動してゐる。 彼らは歩くとき必ず唄を合唱する。私にはその意味は分らなかつた。しかし私はそれを「民族の唄」と名付けて楽しい気持ちになつてゐた。
 
このインド兵たちはマレー作戦が終わると更に他の戦線へ進していつた。



誰が考えても詰んで終わっているものを将棋盤と相手の顔を眺めつつ「待てはもうかけられないな」後先も考えずに貴方は馬鹿ですか?
それとも100手先を読んで国民にサプライズの発表でもやるつもりですか「イェスイッアグレイト、プライムミニスター」という事は有りませんよね、国民からレッドカードを出される前に早めに退陣してください。

何が宇宙人ですかアふぉか

2009年11月20日金曜日

マレー戦記

三つの上陸

マレー攻略部隊の上陸地点と上陸日一体誰が知つてゐたのであらうか。 兵隊は勿論、部隊長の多くは知らなかつた。 敵将ポパムは最後の瞬間まで「日本軍の上陸は絶対にない」と信じ切つてゐたし、英泰国境に出動した英兵の全部は泰国軍と戦ふ命令を受け日本軍と戦ふなどとは夢にも思つてゐなかつた。 従軍してゐた新聞記者でさへ十二月八日の上陸は寝耳に水のことであつた。恐らく神様もご存知なかつたのかもしれない。

 その日は前夜来泰国海岸としては珍しく波が高かつた。 シンゴラ海岸がまだ深い眠りに落ちてゐる午前一時半、一丈半の波にもまれつつ木の葉をばらまいたやうな小艇の群れが刻々と海岸へ近ずいてゐた。 眠ってゐたのはシンゴラ海岸ばかりではない。 恐らく世界の耳目がまだ何も知らずに眠つてゐたであろう。我が軍は易々と上陸することが出来た。 夜明けに至るまで上陸作業は難なく続けられ先遣上陸部隊の進撃は英領マレーへ向かつて破竹の勢いで進められた。

 日英戦争の火蓋は泰領サダオにおいて切られた。慎重を期した我が軍は夜の来るのを待つて夜襲に出た。猛烈なスコールがやつて来た。 スコールは煙幕の役目を果たした。 時には突破ることの出来ない壁のやうな厚さでやつてくることがある。 ゴム林の中に縦横に掘られてゐる排水は濁流となつて大小無数のクリークとなつた。兵隊はこのクリークに身を埋めて一歩一歩敵に近ずいた。側面に、背後にサダオの英軍は瞬く間に取り囲まれてしまつた。 はい然たるスコールの中に壮烈な夜襲殲滅戦が行はれた。 英軍の恐怖は絶頂に達した。 「見回す限りのあらゆる方向から敵があらはれた。雨の中に、闇の中に、林の中に、幽霊の如く自在な敵の姿があつた。進むにも退くにも、生きるにも死ぬにも、すべての権力は我々が発砲しないうちに敵の手中にあつた、、、、、」 これは英軍捕虜の告白である。

 八日夜十一時五十七分サダオが占領されると全部隊は雪崩を打つて国境へ殺到(さつたう)した。十日未明アスファルトのシンゴラ街道を上陸以来の疲れでトポトポと歩いてゐた列隊が踏み切りの前でふと立ち止まつた。 踏み切りと思つたのは税関の関所であつた。 英領マレーの国境がここにあつた。時に午前三時四十分、英領への第一歩はこのとき踏まれた。 その頃OOに上陸した一部隊はOO河の要衛ヤラを通過して英泰国境べトン付近で山獄戦を展開しつつあつた。

 マレーの雨季はこのころまだ上つてゐなかつた。山獄の道路は没する泥となつてしまふ。 戦車のキャタピラさへ哀しい空転を繰返すのみであつたが、「一日にたつた二百米しか進めませんでした。私はこのときほんとに泣きださうかと思ひました。」と戦車隊長は告白した。 この部隊はその後マレー半島中央部隊としてベラ河上流に沿うて南下し、グリクを落としチャンデロ湖周辺を掃蕩してマレー西海岸本道でシンゴラ上陸部隊と合した。

 ところで我々はここに當時の報道戦線から全く置き去りにされた東海岸部隊を銘記しなければならない。英領マレーの北端コタバルでは凄壮(せいさう)なる血の上陸が行はれた。 丈擁の波を冒して上陸、舟艇がまさに敵地海岸へ向かつて放たれた瞬間、折柄の月明を利用して敵機の大群が来襲してきた。一隻の小船に少なくとも一機がへばりついて来る。憎々しいほど明るい月の光は友軍の姿を完全に暴露してゐる。船はただ波に揉まれるのみで一向に進まない。ぐっと腰を落ちつけて舞ひ下がつた敵機は進まぬ小船に向かって機銃掃射を開始した。上陸地点まで八百米、前進は中止されなかつた。やがて兵隊たちは悲壮な決心をしなければならなかつた。「泳いで行け!」命令一下 銃と被甲を持った兵隊の思い身柄は逆まく波の中へ飛び込んで行つた。南国でもさすがに冬だ。深夜の海は氷のやうに冷たい。銃をさし上げた黒い影は波の間に間に散らばつて行く。戦友を呼び交ふ声が波音に混じつて響いて来る。しかも無数の黒点は一秒一秒敵地へ向かって流れて行つた。

 砂浜に泳ぎ着いて椰子の木陰に立つた一人の部隊長は闇を透かして「おーい」と低い声で叫んでみた。済済たる椰子の葉すれが騒がしく聞こえてくるのみである。じっと腕を組んで瞑目した。疲れが浅い眠りを誘ひさうになると、それを揺り起こすやうに突然 「ヤマ」 といふ声が響いて来た。

 おお友軍の合言葉! 部隊長はガバッと跳ね起き「カワ」 と答へた。部下の一人が」にっこり笑つて近ずいてきた。やがて一人、また一人、ずぶ濡れの部下たちが集まつてくる。全滅を覚悟してゐたのに何の奇跡か夜明けが近ずくにつれて、部隊は殆ど揃つて来た。勇敢なるものの生命は限りなく強靭だつた。この部隊は言語に絶するジャングル突破を敢行して。ケランタン地域の進撃を続けクアラルンプールで本体に合したのである。

 マレー作戦におけるジャングル戦はこの部隊によって一番多く試しみられた。

昭和17年八月二十日発行
マレー戦記
酒井寅吉

腐敗認識指数(CPI)2009

世界経済が一時的な回復の兆しを見せ、いくつかの国々は未だ続く紛争や治安の悪化に苦しむ中、11月17日にTransparency International(TI)が2009年度版を発表した公共セクターの腐敗を測定する腐敗認識指数(CPI)は、世界のどの地域においても腐敗の危険性に対して免疫を持つ地域はないことを改めて証明した。「世界中で平和維持のための努力が続けられ、巨大な景気刺激パッケージやファストトラックによる公共予算支出が実施される中で、どの国の腐敗状況が良い統治と説明責任を妨げているか把握することは、腐敗の循環の環を断ち切るためにも必要不可欠である」とTIの代表である、Huguette Labelle氏は語った。2009年度の対象となった180カ国のうち大半の国々が、0(腐敗が最もひどいと認識される)から10(腐敗の程度が低いと認識される)までの度合のうち、5以下の評価を受けている。CPIは対象国の公共セクターにおける腐敗度合を計測するもので、専門家調査やビジネス調査など13の調査結果を複合的に指標化したものである。2009年度の対象国は180カ国で、2008年度の対象国と同数だ。継続する紛争や戦争などによって脆弱かつ不安定な状態にある国々は指数ランクの底辺に位置している。底辺に位置づけられた国々はソマリア(1.1)、アフガニスタン(1.3)、ミャンマー(1.4)スーダン及びイラク(1.5)などの国家だ。この結果は、腐敗が最も深刻と認識されている国々は、長期化する紛争により、国家統治のための体制が貧弱になった国々ばかりであることを明らかにしている。

さらに詳しい情報は以下のサイトをご覧ください。
http://www.transparency.org/policy_research/surveys_indices/cpi/2009/cpi_2009_table


バングラデシュ

気候変動の影響を相殺するためには今後4年間で富裕国からの100億USドル(当初の見込みの2倍)が必要になると、バングラデシュ当局は11月17日に発表した。当局は、来月コペンハーゲンで行われる気候サミットで、拡大した洪水・サイクロン・干ばつ被害への支援に充てるため、50億USドルを募る予定だと以前述べていた。しかし、Hasan Mahmud環境大臣は、バングラデシュは気候変動により最悪の影響を受けた国の一つとして、(気候変動に)適応するためのニーズを再評価したと述べた。「我々は富裕で急速に発展する諸国の二酸化炭素排出量の代価を払っているので、それらの国々が埋め合わせをすべきだ」と述べた。科学者たちによると、バングラデシュでは洪水・干ばつ・サイクロンの頻度がこれまでに増加しており、気候変動による被害を非常に被りやすいという。大臣によると、同資金は、海水を食い止めるための河川の浚渫や、土手や道路の建設、数千個のシェルターの建設、及び海岸線に沿った植樹に使われるとのことである。(AFP)

フィリピン

世界銀行は11月17日、フィリピンの37万6千世帯の支援のために4億500万USドルを貸し付ける用意があると発表した。ローンは貧困世帯へ直接現金で届けるとともに、援助を必要とする人々を確認するための「全国家庭対象制度」に資金を提供すると、世界銀行は述べた。「突然の経済的困難に見舞われる貧困世帯の脆弱さを軽減し、教育や医療サービスが受けられる機会を向上することが、貧民層の成長を助けるための最も具体的な方策である」と、世界銀行カントリー・ダイレクターであるBert Hofmanは言う。他方、国連では最近フィリピンを襲った3つの台風被災者支援のために1億4,400万USドルの援助を訴えているが、これは本来の要請の2倍近い額に上っている。国連の人道問題調整事務所(OCHA)は、10月上旬に行われた7,400万USドルの初期の要請に対し、2,600万USドル受け取ったのみだと述べた。(AFP、AP)

アフガニスタン

英国の国際支援団体オックスファムとアフガニスタンの地元団体は、ハーミド・カルザイ大統領の就任式前日である11月18日に調査報告書を発表し、貧困と汚職がアフガニスタンでの戦争を後押ししていると述べた。同報告書は、戦争で荒廃した希望のない同国の様子を浮き彫りにし、同国政府に対し、法の整備、警察組織と司法制度の改革のほか、「汚職の取り締まり強化、刑事免責や利益供与の慣習撲滅」を要請している。カルザイ大統領を支持する欧米は、巡
回区域で職務にあたる警察官から閣僚にまで蔓延している、アフガニスタン国民に影響を及ぼす汚職に対し強硬な措置を取るよう強く要求している。オックスファムとアフガニスタンの地元団体は、1978年の共産主義政党によるクーデターとそれに続くソ連の軍事介入を発端とする30年間に及ぶ戦争が、一般市民にどのような影響を与えたかを調査する目的で、ランダムに抽出したアフガニスタンの男女704人にインタビューを行った。(AFP)

ブルガリア

ボイコ・ボリソフ首相との会談後、「子どものための全国ネットワーク(theNationalNetwork for Children)」のGeorgi Bogdanov氏は、欧州ではブルガリアの子どもの貧困率が最も高いと述べた。Bogdanov氏によれば、ブルガリアの子どもの17%が惨めな暮らしをしているという。同ネットワーク団体は、提供した資料は、生活様式だけではなく子どものための社会保障にも言及しているものだと説明した。すなわち同資料は、実質的な意味において、欧州ではブルガリアの子どもが最も貧困状態にあることを示しており、子どもの貧困に関する報告書ではルーマニアの子どもでさえ、ブルガリアの子どもより良い結果を残している指標もあった。ブルガリア政府は、子どもの生活改善を目的とする4件の異なるプロジェクトに、1億1,200万USドル以上の予算を計上すると、労働・社会政策省のValentina Simeonova 副大臣は述べた。(スタン
ダート)

2009年11月17日火曜日

オーストラリアではこんな物が浮かんでいるらしい



オーストラリア領内にあり、タスマニアの1500km南東、全長37km、幅5・5km(最大)のマッコーリー島。この島に住む調査員らが驚きの光景を目にした。オーストラリアと南極大陸の中間付近に巨大な氷山が浮かんでいたという。9日、英タイムズ紙などが伝えた。


アフガン駐留米軍の兵站を請け負う民間企業が、補給ルート確保のために巨額の賄賂をタリバンに支払っており、結果として米軍事費がタリバンの重要な資金源になっているという皮肉な状況


How the US army protects its trucks – by paying the Taliban
Insurance, security or extortion? The US is spending millions of dollars in Afghanistan to ensure its supply convoys get through – and it's the Taliban who profit
http://www.guardian.co.uk/world/2009/nov/13/us-trucks-security-taliban


イラク戦争の激戦地ファルージャで新生児の奇形率が異常増加。
通常の15倍ほど。
米軍戦闘時の化学兵器、劣化ウラン弾等複合的環境要因について英・イラク合同医師団が国連に調査を要求。

Huge rise in birth defects in Falluja
Iraqi former battle zone sees abnormal clusters of infant tumours and deformities
http://www.guardian.co.uk/world/2009/nov/13/falluja-cancer-children-birth-defects

しし座流星群、2009年は当たり年


今年もしし座流星群の季節がやってきた。専門家の予測によると、時間と場所にもよるが今回は1時間に30~300個の流星が期待できるという。

 しし座流星群がもっとも多く出現する極大時は、アメリカ東部標準時の11月17日午後4時45分(日本時間18日午前6時45分)で、北アメリカやヨー ロッパでは実質的に観測不可能である。しかしこれらの地域でも街明かりの少ない郊外へ移動すれば、17日午前2~4時に1時間に30~50個の流星を観測 できるはずだ。

 今年一番の観測スポットはアジアであり、夜明け前に極大を迎える。

 NASAの流星体環境室(Meteoroid Environments Office)で室長を務めるビル・クック氏は次のように話す。「コンピューターの処理能力が向上し、1990年代以降は流星群の活発化を予測できるよう になった。今年のしし座流星群は大出現が予想され、極大時には1時間に最大300個の観測を期待できる。仮に最大のピークを逃したとしても、今年は短時間 の極大が予期せず起こる可能性があるので、とにかく夜空を見上げてみることをお勧めする」。

 しし座流星群は、午前1~3時に北東の地平線から姿を現す“しし座”に放射点があるためそう呼ばれている。

 ペルセウス座流星群やオリオン座流星群と同様、この流星群も彗星の軌道に乗って太陽系を周回している“ちり”の帯(ダストトレイル)の中を地球が通過することで発生する。

 具体的な発生メカニズムはこうだ。彗星は主にちりと氷で構成されているが、太陽に接近すると一部の氷が溶けて砂粒大のちりが放出される。しかしこういっ た粒子の大きなちりはそれほど拡散せず、彗星の軌道上を流れるダストトレイルを形成するのである。太陽を公転する地球が年に1回ダストトレイルに差し掛か ると、ちりが地球の上層大気と衝突して発光し、地上からは流星として見える。

 しし座流星群は気まぐれで流星の出現数が安定しない。たいていは1時間に15個程度と小規模であるのに、年よっては1時間に1000個を超える壮大な“流星嵐”が展開される。

 その理由としては、流星群を作り出すちりが均一に拡散していないことが挙げられる。母彗星であるテンペル・タットル彗星は33年周期で太陽に接近し、そのたびに新たな流星の種をまき散らしている。

 アメリカのシカゴにあるアドラープラネタリウムの天文学者ゲザ・ギュク氏は次のように解説する。「地球はまれにそのような非常に新しいダストトレイルに 飛び込むことがあり、その際に流星嵐は発生する。例えば1833年のしし座流星群では、1時間に10万個もの流星が出現した。1秒当たり約30個という驚 異的な数である」。

 今年は流星嵐こそ起きないが、それでも大規模な出現を期待できると専門家は予測する。1467年と1533年のダストトレイルで構成された大規模なちりの雲(直径10万キロ)と接近するからだ。

 NASAのクック氏は、観測者のために次のようなアドバイスをくれた。「しし座流星群はほかの流星群と同様、高価な光学望遠鏡がなくても観測できる。むしろ何も使わない方が、視野が広くなって都合が良い。温かいココアや毛布を用意し、仰向けになって夜空を見上げよう」。

Andrew Fazekas for National Geographic News

台湾
火曜夜から水曜明け方まで東の空に、しし座流星群
中央気象局の発表によると、あす17日の晩から18日の明け方5時頃まで、東の空にし
し座流星群を観測できる確率が高い。しし座流星群は1998年から2001年の4年間、全
世界での観測が話題となった流星群。北部と東部では当日降水確率が高いが、中南部
では観測できる確率が高い。また月の光もないため、観測に適しているという。専門
家によると一時間に100個以上の流星が観測できるといわれており、台湾では山に
登って観測する天文愛好家ツアーも出ている。

しし座流星群、タイでは11月中旬がピーク
 タイ国立天文研究所によると、今年タイでしし座流星群が最大となるのは11月18日午前0時ごろで、晴天であれば、100個以上の流星が裸眼で観測できるという。

 同研究所では、「山や海岸など、街の灯りから離れたところのほうがよくみえる。7×10双眼鏡を使えば、さらに多くの流星を楽しむことができる」とアドバイスしている。

 なお、「プレアデス」など、ほかの星団も同時に観測できるとのことだ。

2009年11月14日土曜日

天皇陛下 万歳!! 万歳!!万歳!!



奉祝!天皇陛下御即位二十年


平成21年11月12日(木)

天皇陛下御即位20年をお祝いする国民祭典



天皇陛下御即位20年をお祝いする国民祭典で祝賀にお応えになる天皇皇后両陛下(皇居正門鉄橋)




天皇陛下御在位20年記念式典 平成21年11月12日(木)(国立劇場)
天皇陛下のおことば

即位二十年に当たり,政府並びに国の内外の多くの人々から寄せられた祝意に対し,深く感謝します。

今年(こんねん)は平成生まれの人が成人に達した年で,スポーツその他の分野でも,既に平成生まれの人々の活躍が見られるようになりました。20年という時の流れを思い,深い感慨を覚えます。ここに即位以来の日々を顧み,私どもを,支え続けてくれた国民に心から謝意を表します。

この20年,様々なことがありました。とりわけ平成7年の阪神・淡路大震災を始めとし,地震やそれに伴う津波,噴火,豪雨等,自然災害が幾度にもわたり我が国を襲い,多くの人命が失われたことを忘れることはできません。改めて犠牲者を追悼し,被災した人々の苦労を思い,復興のために尽力してきた地域の人々,それを全国各地より支援した人々の労をねぎらいたく思います。

即位以来,国内各地を訪問することに努め,15年ですべての都道府県を訪れることができました。国と国民の姿を知り,国民と気持ちを分かち合うことを,大切なことであると考えてきました。それぞれの地域で,高齢化を始めとして様々な課題に対応を迫られていることが察せられましたが,訪れた地域はいずれもそれぞれに美しく,容易でない状況の中でも,人々が助け合い,自分たちの住む地域を少しでも向上させようと努力している姿を頼もしく見てきました。これからも,皇后と共に,各地に住む人々の生活に心を寄せていくつもりです。

先の戦争が終わって64年がたち,昨今は国民の4人に3人が戦後生まれの人となりました。この戦争においては,310万人の日本人の命が失われ,また外国人の命も多く失われました。その後の日本の復興は,戦後を支えた人々の計り知れぬ苦労により成し遂げられたものです。今日の日本がこのような大きな犠牲の上に築かれたことを忘れることなく,これを戦後生まれの人々に正しく伝えていくことが,これからの国の歩みにとり,大切なことではないかと考えます。

この20年間に国外で起こったこととして忘れられないのはベルリンの壁の崩壊です。即位の年に起こったこの事件に連なる一連の動きにより,ソビエト連邦からロシアを含む15か国が独立し,それまでは外部からうかがい知ることのできなかったこれらの地域の実情や歴史的事実が明らかになりました。より透明な世界が築かれていくことに深い喜びを持ったことが思い起こされます。しかし,その後の世界は人々の待ち望んだような平和なものとはならず,今も各地域で紛争が絶えず,多くの人命が失われているのは誠に残念なことです。世界の人々が,共に平和と繁栄を享受できるようになることを目指して,すべての国が協力して努力を積み重ねることが大切であると思います。

今日,我が国は様々な課題に直面しています。このような中で,人々が互いに絆(きずな)を大切にし,叡智(えいち)を結集し,相携えて努力することにより,忍耐強く困難を克服していけるよう切に願っています。

平成2年の即位礼の日は,穏やかな天候に恵まれ,式後,赤坂御所に戻るころ,午後の日差しが,国会議事堂を美しく茜(あかね)色に染めていた光景を思い出します。あの日沿道で受けた国民の祝福は,この長い年月(ねんげつ),常に私どもの支えでした。即位二十年に当たり,これまで多くの人々から寄せられた様々な善意を顧み,改めて自分の在り方と務めに思いを致します。

ここに,今日の式典をこのように催されたことに対し,厚く感謝の意を表し,国の繁栄と国民の幸せを祈ります。

宮内庁ホームページより転載


世界最古最長のご皇室の伝統

 日本の国柄は、天皇陛下が祭祀王として、万民の安寧を祈られ、国民はご皇室を敬愛するという君民共治の伝統にあります。日本のどの時代でも、天皇陛下に代わろうとする権力者が出なかったのは、ご皇室が一時期を除いて、権力者ではなく、万民を思う無私の精神を持った方だったからでしょう。そのことを、どの時代でも国民が一番知っていたのではないかと思います。ご皇室の権力なき権威が、国民を基盤として確立されました。それが、世界に類をみないまとまりがよく、平和で安定した国家を形成しているのではないかと思います。平和で安定していればこそ、国民は仕事に専念でき、家庭をつくり、繁栄や幸福を感じられるようになれます。
即位二十年の御言葉でも述べられているように、「先の戦争が終わって64年がたち,昨今は国民の4人に3人が戦後生まれの人となりました。この戦争においては,310万人の日本人の命が失われ,また外国人の命も多く失われました。その後の日本の復興は,戦後を支えた人々の計り知れぬ苦労により成し遂げられたものです。今日の日本がこのような大きな犠牲の上に築かれたことを忘れることなく,これを戦後生まれの人々に正しく伝えていくことが,これからの国の歩みにとり,大切なことではないかと考えます」
国民の義務として正しい歴史を学ばなければならないとより一層の努力を誓わなければならない。

コラ!!其処の民主党政治家供!!歴史をきちっと学んでくれませんか。

2009年11月13日金曜日

天皇陛下ご即位二十年に際し(平成21年)


天皇皇后両陛下の記者会見

会見年月日:平成21年11月6日

会見場所:宮殿 石橋の間


        記者会見をなさる天皇皇后両陛下


宮内記者会代表質問
問1 両陛下にお伺いします。この20年間,天皇陛下は「象徴」としてどうあるべきかを考え,模索しながら実践してこられた日々だったと思います。日本国憲法では「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と明記していますが,その在り方を具体的には示していません。陛下はご結婚50年の記者会見で「象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず,その望ましい在り方を求めて今日に至っています」と述べられました。平成の時代に作り上げてこられた「象徴」とは,どのようなものでしょうか。戦後64年がたち,4人に3人が戦後生まれとなって戦争の記憶が遠ざかる一方で,天皇陛下が即位されてからも国内外の環境は激変しています。天皇陛下は「象徴天皇」という立場から,皇后さまは天皇陛下をお支えするという立場から,これまでの平成の時代を振り返っての気持ち,お考えをお聞かせください。

天皇陛下

日本国憲法では,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定されています。私は,この20年,長い天皇の歴史に思いを致し,国民の上を思い,象徴として望ましい天皇の在り方を求めつつ,今日まで過ごしてきました。質問にあるような平成の象徴像というものを特に考えたことはありません。

平成の20年間を振り返ってまず頭に浮かぶのは,平成元年,1989年のベルリンの壁の崩壊に始まる世界の動きです。その後の2年間に東西に分かれていたドイツは統一され,ソビエト連邦からロシアを含む15か国が独立しました。そしてそれまで外からはうかがい知ることの難しかったソビエト連邦,及びそれに連なる国々の実情や過去の歴史的事実が,世界に知られるようになりました。このような世界の動きを,深い感動を持って見守ったことが思い起こされます。ベルリンの壁の崩壊から4年後,私どもはドイツを訪問し,ヴァイツゼッカー大統領ご夫妻,ベルリン市長ご夫妻と共に徒歩でブランデンブルグ門を通りました。西ベルリンから東ベルリンに入ると,ベートーベンの「歓喜の歌」の合唱が聞こえてきました。私どもの忘れ得ぬ思い出です。

しかし,その後の世界の動きは,残念ながら平和を推進する方向には進んでいきませんでした。平成13 年,2001年世界貿易センタービルなどが旅客機の突入により破壊され,3,000人以上の命が失われました。それを契機として,アフガニスタン,続いてイラクで戦争が起こり,今も両国とパキスタンでは多くの命が失われています。

このように今日の世界は,決して平和な状況にあるとは言えませんが,明るい面として考えられるのは,世界がより透明化し,多くの人々が事実関係を共有することができるようになったことです。拉(ら)致の問題も,それが行われた当時は今と違って,日本人皆が拉(ら)致の行われたことを事実として認識することはありませんでした。このため,拉(ら)致が続けられ,多くの被害者が生じたことは返す返すも残念なことでした。それぞれの人の家族の苦しみは,いかばかりであったかと思います。また,チェルノブイリ原子力発電所の事故のような,人々の健康や環境に大きな影響を与える事故であっても,当時のソビエト連邦では発表されず,事故についての最初の報道はスウェーデンの研究所からもたらされました。ソビエト連邦が発表したのはそれより後のことで,事故のあった地域の人々の健康に与えた被害は,一層大きくなったことと思います。

国内のことでまず思い起こされるのは,6,400人以上の人々が亡くなった阪神・淡路大震災です。地震による家屋の崩壊とともに火災が起こり,誠に痛ましい状況でした。ただ淡路島では,火災がすべて未然に防がれ,また,地域の人々による迅速な救出活動により,多くの人の命が助けられたと聞きました。この地震は,その後に大きな教訓を残しました。建築の耐震化が進められ,人々の間に,災害に対する協力の輪が広がりました。後に他の被災地を訪れた時,自分たちの災害に支援の手を差し伸べてもらったので,お礼の気持ちでこの被災地の支援に来たという人々に会うことがあり,頼もしく思いました。

苦労の多い中で,農業,林業,水産業などに携わる人々が様々に工夫を凝らし,その分野を守り続けてきている努力を尊いものに思っており,毎年農林水産祭天皇杯受賞者にお会いするのを楽しみにしています。

今日,日本では高齢化が進み,厳しい経済情勢とあいまって,人々の暮らしが深く案じられます。そのような中で,高齢者や介護を必要とする人々のことを心に掛け,支えていこうという人々が多くなってきているように感じられ,心強く思っています。皆が支え合う社会が築かれていくことを願っています。

平成が20年となり,多くの人々がお祝いの気持ちを表してくれることをうれしく思い,感謝しています。

この機会に,我が国の安寧を願い,国民の健康と幸せを祈ります。

皇后陛下

少し風邪をひいてしまって,聞きづらいようでしたら言い直しますので,おっしゃってください。戦後新憲法により,天皇のご存在が「象徴」という,私にとっては不思議な言葉で示された昭和22年,私はまだ中学に入ったばかりで,これを理解することは難しく,何となく意味の深そうなその言葉を,ただそのままに受け止めておりました。

御所に上がって50年がたちますが,「象徴」の意味は,今も言葉には表し難く,ただ,陛下が「国の象徴」また「国民統合の象徴」としての在り方を絶えず模索され,そのことをお考えになりつつ,それにふさわしくあろうと努めておられたお姿の中に,常にそれを感じてきたとのみ,答えさせていただきます。

20年の回想ですが,平成の時代は,先に陛下もご指摘のように,ベルリンの壁の崩壊とほぼ時を同じゅうして始まりました。ソ連邦が解体し,ユーゴスラビアもそれぞれの共和国に分かれ,たくさんの新しい国が誕生しました。新しい国から大使をお迎えするとき,よく地図でその国の場所を確かめました。冷戦の終結に続く平和の到来を予想していましたが,その後少なからぬ地域で紛争が起こり,テロ行為も増し,昨今も各地で人命が失われています。地球温暖化,世界的金融危機,様々な新しい感染症の脅威など,世界的な規模で取り組まねばならぬ問題も多く,様々な意味で世界をより身近に感じるようになった20年間でした。

国内においては,阪神・淡路大震災を始めとし,大規模な自然災害が多く,被災した人々の悲しみは想像を絶するものであったと思います。災害の予知能力が高められ,予防の対策が進み,災害への備えが常にあることを切に願っています。高齢化・少子化・医師不足も近年大きな問題として取り上げられており,いずれも深く案じられますが,高齢化が常に「問題」としてのみ取り扱われることは少し残念に思います。本来日本では還暦,古希など,その年ごとにこれを祝い,また,近年では減塩運動や検診が奨励され,長寿社会の実現を目指していたはずでした。高齢化社会への対応は様々に検討され,きめ細かになされていくことを願いますが,同時に90歳,100歳と生きていらした方々を皆して寿(ことほ)ぐ気持ちも失いたくないと思います。

身内での一番大きな出来事は,平成12年の皇太后さまの崩御でした。お隠れの夜は月が明るく,今はご両親陛下をお二方共にお亡くしになった陛下のお後(あと)を,吹上から御所へと歩いて帰った時のことが悲しみとともに思い出されます。

平成20年の区切りの年に当たり,陛下と共に国の安寧と人々の幸せを心から祈念いたします。


問2 両陛下にお伺いします。両陛下はこの20年,常に国民と皇室の将来を案じてこられたと思いますが,皇室についてはこの先,皇族方の数が非常に少なくなり,皇位の安定的継承が難しくなる可能性があるのが現状です。昨年末の天皇陛下のご不例の際,羽毛田信吾宮内庁長官はご心痛の原因の一つとして「私的な所見」と断った上で「皇統を始めとする諸々の問題」と発言し,皇室の将来を憂慮される天皇陛下の一面を明らかにしました。両陛下は皇室の現状,将来をどのようにお考えでしょうか。皇太子ご夫妻,秋篠宮ご夫妻を始めとする次世代の方々に期待することも交えながらお聞かせください。

天皇陛下

皇位の継承という点で,皇室の現状については,質問のとおりだと思います。皇位継承の制度にかかわることについては,国会の論議にゆだねるべきであると思いますが,将来の皇室の在り方については,皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要と思います。二人は長年私と共に過ごしており,私を支えてくれました。天皇の在り方についても十分考えを深めてきていることと期待しています。

皇后陛下

皇位の安定継承という点に関しては,私も現状は質問のとおりだと思います。それについて陛下のお答えに私として付け加えるものは,何もありません。

幸せなことに,東宮も秋篠宮も孫として昭和天皇のおそばで過ごす機会を度々に頂き,また成人となってからは,陛下をお助けする中でそのお考えに触れ,日々のお過ごしようをつぶさに拝見し,それぞれの立場への自覚を深めてきたことと思います。これからも二人がお互いを尊重しつつ,補い合って道を歩み,家族も心を合わせてそれを支えていってくれることを信じ,皇室の将来を,これからの世代の人々の手にゆだねたいと思います。


在日外国報道協会代表質問

問3 両陛下にお伺いしたいと思います。陛下が即位なさったのは,いわゆるバブル経済のただ中でありましたが,この20年は日本にとって大変厳しい時となりました。ご存じのように高齢化が進み,人口が減少し始め,経済は不安定です。両陛下は,日本の将来に何かご心配をお持ちでしょうか。お考えをお聞かせください。

天皇陛下

今,日本では高齢化が進み,経済が厳しい状況になっています。しかし,日本国民が過去に様々な困難を乗り越えて今日を築いてきたことを思い起こす時,人々が皆で英知を結集し,相携えて協力を進めることにより,日本が現在直面している困難も一つ一つ克服されることを願っております。

私がむしろ心配なのは,次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです。昭和の時代は,非常に厳しい状況の下で始まりました。昭和3年,1928年昭和天皇の即位の礼が行われる前に起こったのが,張作霖爆殺事件でしたし,3年後には満州事変が起こり,先の大戦に至るまでの道のりが始まりました。第1次世界大戦のベルダンの古戦場を訪れ,戦場の悲惨な光景に接して平和の大切さを肝に銘じられた昭和天皇にとって誠に不本意な歴史であったのではないかと察しております。昭和の60有余年は私どもに様々な教訓を与えてくれます。過去の歴史的事実を十分に知って未来に備えることが大切と思います。

平成も20年がたち,平成生まれの人々がスポーツや碁の世界などで活躍するようになりました。うれしいことです。いつの時代にも,心配や不安はありますが,若い人々の息吹をうれしく感じつつ,これからの日本を見守っていきたいと思います。

皇后陛下

今,質問の中で指摘されているような問題で,日本の将来を全く心配していないということではありませんが,私はむしろ今既に世界的に蔓(まん)延する徴候を見せており,特に若年層に重い症状の出る新型インフルエンザのこと,また,今後日本に起こり得る大規模な自然災害のことが心配で,どうか大事(だいじ)なく,人々の暮らしの平穏が保たれていくよう願っています。

国の進む道で,避け得る災難は,人々の想像の力と英知で出来得る限りこれを防がねばなりませんが,不測の事も起こり得ないことではなく,これからの日本の前途にも,様々な大小の起伏があることと思います。

振り返ると,私がこれまで生きてきた年月の間にも,先の大戦があり,長い戦後と,人々の並々ならぬ努力によって成し遂げられた戦後の復興がありました。多くの苦しみ喜びを,人々は共に味わい,戦後60年の歴史をたどってきたと思います。

近年日本の社会にも様々な変化が起こり,家族が崩壊したり,人々が孤立していく傾向が見られますが,一方,社会が個人を支えていこうとする努力や,地域が高齢者や子どもたちを守っていこうとする努力も其処(そこ)ここで見られ,また,民間の各種の支援運動も増えて,人と人,家族,社会と個人など,人間関係の在り方が,今一度真剣に考え出されているように思われます。

この十数年の経験で,陛下もお触れになりましたが,これまでに訪れた被災地の各所で,かつて自身も被災者だったという人々によく出会いました。苦しかったときに人々から受けたご恩を,今度は自分が,新たに被災した地域でお返ししたかった,とだれもが話していました。

被災地で目にした,こうした連帯意識にあふれた行動は,同じく私どもがどの被災地でも必ず感じる,逆境における人々の立派さ-自制,忍耐,他への思いやり,健気(けなげ)さ-などとともに,自らも状況に心を痛めておられる陛下に,どれだけの希望と勇気をお与えしたか計り知れません。

心配を持ちつつも,陛下と共にこの国の人々の資質を信じ,これからも人々と共に歩んでいきたいと思います。


関連質問

問 天皇陛下におかれましては,昨年ご体調を崩されて一時公務を休まれました。皇后陛下におかれましても,ひざを怪我(けが)をされて万全な状態ではないとお伺いしております。両陛下のご負担軽減が進められている中で,ご自身の健康と公務の在り方についてどのようにお考えになっていますでしょうか。お聞かせください。

天皇陛下

皆が私どもの健康を心配してくれていることに,まず感謝したいと思います。この負担の軽減ということは,今年1年その方向で行われまして,やはり負担の軽減という意味はあったのではないかと思っています。しかし,この状況は,今の状況ならば,そのまま続けていきたいと思っております。また,皇后の方も足の方が昔のように,だんだんと良くなってきているようですので,非常にうれしく思っています。ただ,まだ座るということができないので,まだしばらくは座ること,例えば賢所など座らなければならないところのお参りは,これはまだしばらく無理ではないかと思っています。

皇后陛下

健康を案じていただいてありがとうございます。自分の不注意で転んでしまい心配をお掛けいたしました。陛下が仰せくださったようにだんだんと快方に向かっておりますし,もう少し早く治ってほしいと思うこともありますが,野球の松井さんに見習って私も忍耐強く治したいと思います。御公務については,陛下が仰せくださいましたので,それで私の申し上げることも特にはございません。

Press Conference by Their Majesties The Emperor and Empress of Japan in Commemoration of the 20th Anniversary of His Majesty's Accession to the Throne







Press Conference by Their Majesties The Emperor and Empress of Japan in Commemoration of the 20th Anniversary of His Majesty's Accession to the Throne (2009)

Date:November 6, 2009

Imperial Palace, Tokyo
(Imperial Household Agency Press Club)

Question 1
I believe that, over the past twenty years, Your Majesty has, while considering how to interpret Your role as a "symbol", been seeking to put that role into action on a daily basis. Under the Constitution of Japan, it is clearly stated that "The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people", but it does not specify how that is to be achieved in practical terms. On the occasion of the Press Conference for Your Majesties' 50th Wedding Anniversary, Your Majesty stated, "How that symbolic role should be interpreted is a question never far from my mind, and to this day, I am still seeking an appropriate answer." How would you describe the nature of the "symbol" You have created during the Heisei Era? Sixty-four years have passed since the end of the Second World War and, with three out of four Japanese people having been born since then, memories of that period are fading into the past. At the same time, in the years since Your Majesty's accession to the throne, circumstances both in Japan and abroad have changed dramatically. Could Your Majesties share with us your feelings and thoughts looking back on the Heisei Era so far, in Your Majesty's position as a "Symbolic Emperor" and Her Majesty's as the Empress who supports that role?

Response by His Majesty the Emperor

As you say, the Constitution of Japan stipulates that "the Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people". Over the past twenty years, I have continually sought to interpret that symbolic role, bearing in mind both the long history of the Imperial line and the well-being of the people. I have not however thought about any particular Heisei Era symbolism as the question suggests.

Looking back over the past 20 years, what comes to mind first of all are the events which occurred in the world following the fall of the Berlin Wall in 1989. Two years later, East and West Germany were reunited as one country, while the Soviet Union was divided into 15 independent countries, including Russia. The world came to know the historical realities of the former Soviet Union and its affiliates, which until then had been difficult to see from the outside. I recall following these events and being deeply affected by them. Four years after the fall of the Berlin Wall, the Empress and I visited the Federal Republic of Germany and walked through the Brandenburg Gate with President and Mrs. Von Weizsaecker and Mayor and Mrs. Diepgen of Berlin. As we entered East Berlin from West Berlin, we could hear a choir singing Beethoven's Ode to Joy. This remains an unforgettable memory for us.

Unfortunately, subsequent events in the world did not follow a peaceful path. In 2001, the attacks on the World Trade Center and other targets caused the deaths of over 3,000 people. This triggered a war in Afghanistan, and subsequently another war started in Iraq as well, and to this day many lives are being lost in these two countries as well as in Pakistan.

So the world today cannot be said to be peaceful, but there is a more positive side in that the world has become more transparent and it has become possible for many more people to share factual information. For example, when abductions of Japanese citizens were being carried out by the North Koreans, not all the people in Japan were aware of these events, and as a result it is truly regrettable that the abductions continued, adding further to the number of victims. It is hard to imagine the anguish of the families of those involved.

Again, when the Chernobyl nuclear reactor accident occurred in the former Soviet Union, the government of the time did not make any announcement about the incident, in spite of the major threat to people's health and the environment. The first report came from a Swedish research centre. An announcement by the Soviet government took place only later and no doubt this delay resulted in further damage to the health of people in the affected regions.

Among events here at home in Japan, what comes first to mind is the Great Hanshin Awaji earthquake, which claimed the lives of more than 6,400 people. This was a truly heartbreaking tragedy, as fire broke out in buildings which had collapsed during the earthquake. On Awaji Island, however, I have heard how the fire was forestalled and many lives saved by the prompt rescue activities of local people.

The Great Hanshin Awaji Earthquake left many lessons for the future. More buildings were earthquake-proofed, and there was a great expansion in the number of people volunteering to contribute their efforts at times of disaster. When I visited other regions affected by natural disasters, I was heartened to meet people who said that, having received help themselves as victims of disasters, they were now coming to help others in similar circumstances.

I value highly the efforts made by all those engaged in agriculture, forestry and fisheries, who overcome many hardships by their imaginative solutions to the problems of maintaining their livelihoods. I look forward each year to meeting the awardees of the Emperor's Prize on the occasion of the annual Agriculture, Forestry and Fisheries Festival.

I am deeply concerned about people's welfare as Japan today becomes a rapidly ageing society at a time of severe economic conditions. It is encouraging to see, at a time like this, that there seems to be an increasing number of people who care about the elderly and those in need of nursing and who are making efforts to support them. I would like to see a society where everyone supports one another.

I am delighted to see so many people celebrating this 20th year of the Heisei Era. I am grateful to them and take this opportunity to express my wishes for the peace and security of Japan and the health and happiness of the Japanese people.


Response by Her Majesty the Empress

In 1947, when the new post-war Constitution of Japan was promulgated, stipulating the Emperor's position as "shocho", a "symbol", I had only just entered junior high school and it was difficult for me to understand the meaning of a word which then sounded unfamiliar to me. I simply accepted it as something which seemed to hold a deep significance.

It has been 50 years since I joined the Imperial Family, and still the meaning of the word "symbol" is difficult to define. I will only say that His Majesty the Emperor has been constantly seeking the ideal role as the "symbol of the State" and the "symbol of the unity of the people", striving day by day to be worthy of this role, and that it is in the way He thus conducts Himself that I have always sensed the meaning of the word.

Looking back on the past twenty years, the Heisei Era, as His Majesty has just pointed out, started at almost the same time as the fall of the Berlin Wall. The collapse of the Soviet Union and the breakup of Yugoslavia etc. gave birth to many new countries. When we welcomed newly appointed ambassadors from these countries, I would often confirm the location of each country on the map. Although peace was expected to follow after the end of the Cold War, conflicts broke out in many regions, acts of terrorism increased and many lives continue to be lost in various places to this day. At the same time, these twenty years seem to have brought the world closer in many ways, with the emergence of common problems which must be dealt with on a global scale, such as global warming, the global financial crisis, and the threat of various new infectious diseases.

In Japan, there have been many large scale natural disasters, starting with the Great Hanshin Awaji Earthquake, and the suffering of the victims of these disasters is almost unimaginable. I sincerely hope that our disaster prediction capabilities improve, that prevention measures advance and that we shall always be well prepared.

The ageing society, the declining birth-rate, and a lack of medical doctors have come up as major issues in recent years. While I am deeply concerned about these issues, I feel it is a little disappointing that the ageing society is considered only as a problem. Japan has a tradition of celebrating certain ages such as kanreki (60 years of age) and koki (70 years of age).Furthermore, in recent years we have been encouraging people to consume less salt and go for regular medical checkups, in the hope of bringing about a society of longevity. It is earnestly hoped that appropriate measures for the ageing society will be very carefully and effectively carried out, but at the same time, I hope we will not lose our habit of congratulating together those who reach the venerable ages of 90, 100, or more.

In our family, the most significant event for me in recent years was the passing away of the Empress Kojun in 2000. The moon was bright on the night of Her passing away, and I recall even now with the sadness how I walked back home from the then Empress Dowager's Fukiage residence in the footsteps of His Majesty the Emperor, realizing that now He has lost both of His beloved Parents.

In this milestone 20th year of Heisei, I join His Majesty in praying for the peace of the nation and the happiness of the people.


Question 2
I believe that over the past twenty years both Your Majesties have given constant thought as to the future of the people of Japan and of the Imperial Family. With regard to the Imperial Family, it seems that the number of members of the family will continue to decline in the future, and we cannot ignore the possibility that this may affect the continuity of the Imperial line. At the end of last year, when Your Majesty was indisposed, the Grand Steward of the Imperial Household Agency, Shingo Haketa, commented (as his "personal view"), that one of the reasons for Your Majesty The Emperor's distress was concern over "various issues concerning the Imperial line." What are Your Majesties' thoughts on the current situation and the future of the Imperial Family, including Your Majesties' expectations for Their Imperial Highnesses The Crown Prince and Crown Princess and Their Imperial Highnesses Prince Akishino and Princess Akishino?

Response by His Majesty the Emperor

Concerning the continuity of the throne, I think the situation of the Imperial Family is as described in the question. I think the issues concerning the system of Imperial succession should be left to the deliberation in the Diet, but concerning the ideal role of the Imperial Family in the future, I think it is important that the views of the Crown Prince and Prince Akishino, who supports him, are respected. They have both spent a great deal of time with me and supported me throughout these years, and I am sure they have been developing well-considered views on the ideal role of the Emperor.

Response by Her Majesty the Empress

Concerning the stable continuity of the throne I think the situation is as described in the question and I have nothing to add to the answer given by His Majesty. Fortunately for both the Crown Prince and Prince Akishino, they were blessed with frequent opportunities to spend time with their grandfather the late Emperor Showa, and since reaching adulthood, while helping their father, His Majesty, they have come into contact with His views and have been able to observe closely the way in which His Majesty spends His daily life, which I think has enabled them to deepen their awareness of their respective responsibilities. Believing that they will continue to respect and complement one another and that their respective families too will certainly support them with all their heart, I entrust the future of the Imperial Family to the generations ahead.


(The Foreign Press in Japan)
Question 3
When your Majesty The Emperor ascended to the throne, Japan was in the midst of the so-called "bubble economy". As it turned out, however, these past twenty years have proved to be an extremely difficult period for Japan, with an ageing society, a declining population, and an unstable economy. Could Your Majesties please share any concerns You have about the future of Japan?

Response by His Majesty the Emperor

Yes, indeed, in Japan today, our society is ageing rapidly and the economy is in an extremely severe situation. However, when I think back on how the people of Japan have overcome various difficulties in the past, I am hopeful that they will combine their wisdom and collaborate to surmount one by one the challenges that our country is facing.

What I am rather more concerned about is that history might gradually be forgotten. The Showa Era began under extremely harsh conditions. Just before the Enthronement Ceremony of Emperor Showa in 1928, Zhang Zuolin was assassinated. Three years later, the Manchurian Incident ignited the trail that led to World War II. Emperor Showa had visited the tragic site of the World War I battlefield of Verdun and had taken to heart the importance of maintaining peace, so it is my perception that the events that led to war must have been contrary to what he would have wished. The 60-plus years of the Showa Era taught us many lessons. I believe it is essential for us to learn from the historical facts and prepare ourselves for the future.

It is now 20 years since the start of the Heisei Era and I am pleased that it has been a time in which the younger generation born in the Heisei era has been able to prove themselves internationally in fields such as sports and go. That is a cause for celebration. Whatever the times, there are always fears and anxieties, but while rejoicing in the vigour of the younger generation, I will continue to watch over Japan.

Response by Her Majesty the Empress

Although I am naturally worried about the issues mentioned in the question, at the moment I am particularly concerned about the new strain of influenza virus which is already showing signs of becoming a worldwide pandemic and is affecting the younger generations in particular. I am also concerned about large scale natural disasters which might occur in Japan in the future. I earnestly hope that the disaster can be contained to the minimum so that the people can live their lives in peace and safety.

Needless to say people should try to avoid or mitigate the effects of disasters through their wisdom and power of imagination, but unforeseen emergencies can happen at any time, and I suppose that Japan, being not an exception, will inevitably experience ups and downs in the future.

Looking back on the years since I was born, there was the Second World War, the long post-war period and the reconstruction made possible by the people's extraordinary efforts. The people of Japan have experienced both suffering and happiness together as they have walked the path of these 60 years after the war.

In recent years there have been many changes in Japanese society. While more and more families are breaking apart, and people seems to be feeling more isolated, we are also seeing increased efforts by all sectors of society to support vulnerable individuals such as the elderly and children. Voluntary support movements have started to flourish, and I believe that people are beginning to reflect seriously on the role of human relationships between individuals, within families, and between society and individuals.

In my experience over the past dozen years or so, as His Majesty too, has noted, we have often met people at the sites of disasters who said that they too were once victims of natural calamities. They all said that they were there to give back some of the help they received when they were in need. This kind of act of solidarity together with the virtuous qualities that we so often witnessed in the people at the disaster site, such as self-control, perseverance, consideration for others and resilience, became immeasurable source of hope and courage to His Majesty in his own distress at the sight of their situation..

So, although I am naturally concerned by the possible difficulties that we may encounter in future, I share His Majesty's confidence in the people of Japan, and hope to move on together with them.


Related question
Your Majesty has temporarily removed Yourself from official duties because of health issues. I also understand that Her Majesty's health is not at its best due to a knee injury. As the burden on Your Majesties has been reduced, please tell us your thoughts on Your Majesties' health and role in official duties.

Response by His Majesty the Emperor

First of all, I would like to express my appreciation for everyone's concern over my health. There has been a reduction in official duties over the past year and I think that this did indeed have the effect of lessening my burden. However, if my health continues as it is, I should like to continue with the current level of official commitments. As for The Empress, I am very happy to know that her knee is recovering. However, she still cannot sit on her heels in the formal Japanese style, so I think it will not be possible for her to participate in official duties that require her to sit in this way, such as at the Kashiko Dokoro (Palace Sanctuary) for a while longer.

Response by Her Majesty the Empress

I thank you for your concern over my health. I am sorry to have caused worry by my fall, which happened due to my own carelessness. As His Majesty just said, my knee is gradually getting better, and although I occasionally wish it to heal much faster, I think I must learn from the baseball player Hideki Matsui, and wait patiently for it to improve. As for my official duties, I have nothing further to add to what His Majesty has said.

The Imperial Household Agency :
1-1 Chiyoda, Chiyoda-ku, Tokyo, Japan 100-8111
TEL : 03-3213-1111