三つの上陸
マレー攻略部隊の上陸地点と上陸日一体誰が知つてゐたのであらうか。 兵隊は勿論、部隊長の多くは知らなかつた。 敵将ポパムは最後の瞬間まで「日本軍の上陸は絶対にない」と信じ切つてゐたし、英泰国境に出動した英兵の全部は泰国軍と戦ふ命令を受け日本軍と戦ふなどとは夢にも思つてゐなかつた。 従軍してゐた新聞記者でさへ十二月八日の上陸は寝耳に水のことであつた。恐らく神様もご存知なかつたのかもしれない。
その日は前夜来泰国海岸としては珍しく波が高かつた。 シンゴラ海岸がまだ深い眠りに落ちてゐる午前一時半、一丈半の波にもまれつつ木の葉をばらまいたやうな小艇の群れが刻々と海岸へ近ずいてゐた。 眠ってゐたのはシンゴラ海岸ばかりではない。 恐らく世界の耳目がまだ何も知らずに眠つてゐたであろう。我が軍は易々と上陸することが出来た。 夜明けに至るまで上陸作業は難なく続けられ先遣上陸部隊の進撃は英領マレーへ向かつて破竹の勢いで進められた。
日英戦争の火蓋は泰領サダオにおいて切られた。慎重を期した我が軍は夜の来るのを待つて夜襲に出た。猛烈なスコールがやつて来た。 スコールは煙幕の役目を果たした。 時には突破ることの出来ない壁のやうな厚さでやつてくることがある。 ゴム林の中に縦横に掘られてゐる排水は濁流となつて大小無数のクリークとなつた。兵隊はこのクリークに身を埋めて一歩一歩敵に近ずいた。側面に、背後にサダオの英軍は瞬く間に取り囲まれてしまつた。 はい然たるスコールの中に壮烈な夜襲殲滅戦が行はれた。 英軍の恐怖は絶頂に達した。 「見回す限りのあらゆる方向から敵があらはれた。雨の中に、闇の中に、林の中に、幽霊の如く自在な敵の姿があつた。進むにも退くにも、生きるにも死ぬにも、すべての権力は我々が発砲しないうちに敵の手中にあつた、、、、、」 これは英軍捕虜の告白である。
八日夜十一時五十七分サダオが占領されると全部隊は雪崩を打つて国境へ殺到(さつたう)した。十日未明アスファルトのシンゴラ街道を上陸以来の疲れでトポトポと歩いてゐた列隊が踏み切りの前でふと立ち止まつた。 踏み切りと思つたのは税関の関所であつた。 英領マレーの国境がここにあつた。時に午前三時四十分、英領への第一歩はこのとき踏まれた。 その頃OOに上陸した一部隊はOO河の要衛ヤラを通過して英泰国境べトン付近で山獄戦を展開しつつあつた。
マレーの雨季はこのころまだ上つてゐなかつた。山獄の道路は没する泥となつてしまふ。 戦車のキャタピラさへ哀しい空転を繰返すのみであつたが、「一日にたつた二百米しか進めませんでした。私はこのときほんとに泣きださうかと思ひました。」と戦車隊長は告白した。 この部隊はその後マレー半島中央部隊としてベラ河上流に沿うて南下し、グリクを落としチャンデロ湖周辺を掃蕩してマレー西海岸本道でシンゴラ上陸部隊と合した。
ところで我々はここに當時の報道戦線から全く置き去りにされた東海岸部隊を銘記しなければならない。英領マレーの北端コタバルでは凄壮(せいさう)なる血の上陸が行はれた。 丈擁の波を冒して上陸、舟艇がまさに敵地海岸へ向かつて放たれた瞬間、折柄の月明を利用して敵機の大群が来襲してきた。一隻の小船に少なくとも一機がへばりついて来る。憎々しいほど明るい月の光は友軍の姿を完全に暴露してゐる。船はただ波に揉まれるのみで一向に進まない。ぐっと腰を落ちつけて舞ひ下がつた敵機は進まぬ小船に向かって機銃掃射を開始した。上陸地点まで八百米、前進は中止されなかつた。やがて兵隊たちは悲壮な決心をしなければならなかつた。「泳いで行け!」命令一下 銃と被甲を持った兵隊の思い身柄は逆まく波の中へ飛び込んで行つた。南国でもさすがに冬だ。深夜の海は氷のやうに冷たい。銃をさし上げた黒い影は波の間に間に散らばつて行く。戦友を呼び交ふ声が波音に混じつて響いて来る。しかも無数の黒点は一秒一秒敵地へ向かって流れて行つた。
砂浜に泳ぎ着いて椰子の木陰に立つた一人の部隊長は闇を透かして「おーい」と低い声で叫んでみた。済済たる椰子の葉すれが騒がしく聞こえてくるのみである。じっと腕を組んで瞑目した。疲れが浅い眠りを誘ひさうになると、それを揺り起こすやうに突然 「ヤマ」 といふ声が響いて来た。
おお友軍の合言葉! 部隊長はガバッと跳ね起き「カワ」 と答へた。部下の一人が」にっこり笑つて近ずいてきた。やがて一人、また一人、ずぶ濡れの部下たちが集まつてくる。全滅を覚悟してゐたのに何の奇跡か夜明けが近ずくにつれて、部隊は殆ど揃つて来た。勇敢なるものの生命は限りなく強靭だつた。この部隊は言語に絶するジャングル突破を敢行して。ケランタン地域の進撃を続けクアラルンプールで本体に合したのである。
マレー作戦におけるジャングル戦はこの部隊によって一番多く試しみられた。
昭和17年八月二十日発行
マレー戦記
酒井寅吉
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