2012年3月28日水曜日

2011年民政移管後、アメリカの対ビルマ政策の見直し

アメリカがビルマ政策において当面の目途だと考えている分野

第1に民主主義と人権分野。

第2に核不拡散や北朝鮮関連の国連安保理決議等国際的安全保障に関わる分野。

第3に麻薬撲滅や大東亜戦争時の米兵の行方不明者捜索など相互に利益のある分野。

ビルマは世界的麻薬生産国でありここで生産された薬物がアメリカ国内に流入しており、これを撲滅することがアメリカの国益に適う。

米兵の行方不明者捜索は、主にビルマ北部カチン州で大東亜戦争中飛行機で墜落した祭に行方不明者となったパイロット等の共同捜索を想定。

アメリカの対ビルマ政策原文英語


関連してAP通信が今月14日に配信した記事原文英文、日本の新聞で毎日新聞のみ、しかも英字掲載がありましたので、内容は同じなのです。

U.S.-Myanmar search for WWII MIAs could improve ties
http://mdn.mainichi.jp/features/news/20120316p2g00m0dm103000c.html


アメリカ第二次世界大戦時のビルマ方面行方不明者730名についてビルマ政府と捜索協議に入る。


捜索地域については殆どがビルマ北部現在のカチン州で、この地域では現在も国軍との戦闘があっており、捜索は難航するであろうと伝えているが、この地域を支配しているカチン独立機構は親米なので捜索だけならば然程難しい事ではないだろう。

アメリカが良いとは思わない、しかし67年経っているにもかかわらず、遺骨などとは決して言わないスタンス、あくまでも行方不明者、戦争行方不明者に対しては何年経とうが一体なりとも現地には残さず全て本国に持ち帰るという強いスタンス、私はアメリカを褒めているわけではありません、これが普通の国です。

しかもアメリカがビルマ政府と協議しているのは捜索協議とは言っているが、ビルマ政府に「一体残らず探せ」と言っているのである。


日本はどうでしょうか、ビルマ方面未帰還の遺骨7万柱以上、何を気兼ねしているのか、捜索の話すら出てこない、ODAを再開する前にアメリカのように横柄な態度に出る必要はありませんが、「一緒に見つけて下さい」百歩譲って「私共で見つけるのでご協力下さい」くらいの話をしてもよさそうなものではないか?
それすらも言えないのか、それでも日本人なのか、祖国のためと万斛の思いを胸に秘めて死んでいった英霊を何と思っているのか、日本政府も早急に協議に入ってもらいたい。

2012年3月27日火曜日

巷がそわそわ、タイの正月ソンクラーン

この時期になると巷のタイ人達がそわそわしているように見える、かけられる言葉も決まって「ソンクラーンは何処へ行くんだい」日本で言うところの師走の半ばを過ぎたところとでもいいましょうか、今年は昨年7月に85歳で死去したペチャラット王女の火葬式が行われる期間にあたる4月9日を公務員の休日としているので、4月6日がチャクリ記念日でソンクラーンが13日から17日まで、となると来週の金曜日から17日まで休む者もいるでしょう、タイ人も仕事が手につかないわけだ。

ソンクラーン


ソンクラーンとはタイの正月で、太陽の軌道が12ヶ月の周期を終え、新たに白羊宮(おひつじ座)に入る時期を祝うもの。もともとソンクラーンには仏像や仏塔へ、さらに家族の年長者などの手に水を掛けてお清めをするという伝統的な風習があり、近年はそれが転じて街の往来で通行人どうしが水を掛けあって楽しむ「水掛け祭り」として知られるようになりました。現在は毎年4月13・14・15日の3日間に行うものとされており、タイの祝日にも定められています。

バンコクでは地方から働きに出ている人々が一斉に帰省するため、この時期街は閑散としますが、王宮周辺を中心にさまざまな催しが行われています。ワット・ポーではタイ北部・東北部・中央部・南部それぞれのソンクラーンの祝い方がデモンストレーションされるほか、バックパッカーの拠点として世界的に有名なカオサン通りで行われる、大規模な水掛け合戦が有名です。

タイ政府観光庁より

2012年タイ正月(水掛け祭、ソンクラーン) 各地のイベント日程

■バンコク&中央部
バンコク: 2012年4月10日~15日
アユタヤ: 2012年4月13日
スパンブリー: 2012年4月13日~16日
サムットプラーカーン: 2012年4月22日~24日

■東海岸
シーチャン島: 2012年4月13日~19日
バンセーン: 2012年4月16日~17日
パタヤ: 2012年4月18日~20日
バンプラ: 2012年4月16日~18日

■北部
チェンマイ: 2012年4月12日~15日


■東北部(イサーン)
ノーンカーイ: 2012年4月12日~15日
コーンケーン: 2012年4月11日~18日
ナコーンパノム: 2012年4月11日~15日

■南部
ハジャイ: 2012年4月11日~15日
プーケット: 2012年4月12日~13日
ナコーンシータマラート: 2012年4月11日~15日

タイ国政府観光庁より

2012年3月23日金曜日

注意!!

ロシア人達が勝手に日本の歴史を捏造しています!!

之は全く出鱈目ですから信じないように注意!!

以下ロシアの声から

日本は誰のものか?

問題なのは、かなり古い時代から日本にはアイヌ人たちが住んでいたということだ。考古学的発掘によれば、アイヌ人が日本列島に現れたのは紀元前約1万3千年頃だという。
問題なのは、かなり古い時代から日本にはアイヌ人たちが住んでいたということだ。考古学的発掘によれば、アイヌ人が日本列島に現れたのは紀元前約1万3千年頃だという。そのアイヌ人たちが縄文文化を創り出した。彼らは琉球から北海道にわたる日本列島だけではなく、サハリンの南半分、クリル諸島、カムチャッカの南3分の1にも居住していた。その証拠は日本の地名にも残っている。対馬はツイマで、遠い、という意味。富士はフツィで、おばあさん、の意。筑波はツ・ク・パで、2つの出っ張りをもった頭、つまり2つの頂上をもった山、という意味。邪馬台はヤ・マ・タ・イで、海が陸を分断する場所、という意味となる。

アイヌ人たちがどこから日本列島にやって来たのかは今に至るまではっきりとしていない。インド・ヨーロッパ系やセム系、オーストロネシア系などとする説があるが、どれも完全な正当性が確認されているわけではない。ただ一つ確実に言えることは、人類学的な観点から見て、アイヌ人は、日本人、朝鮮人、ニブフ人、イテリメン人、ポリネシア人、インドネシア人、オーストラリアのアボリジニなど、極東や太平洋の諸民族とは大きく違っているということだ。まさにそれゆえに、17世紀、日本を訪れたヨーロッパ人たちが最初にアイヌ人に遭遇した時の驚きがあった。つまり、モンゴロイドが居住している地域に突如として、長い髪の毛、豊富なひげを蓄えた、完全にヨーロッパ的外見を持った人々が現れたからだ。

現在日本においてアイヌ人の数は約3万人となっている。サハリンや他のクリル諸島を含むロシア領には数百人。彼らに何が起こったのだろうか。
http://japanese.ruvr.ru/2012_02_21/66514331/


アイヌ人国家の後継者が邪馬台国だといっている、えっ!アイヌ人国家ってあったのか!!

「真の人々」

「真の人々」、それは「アイヌ」という言葉が持つ意味だ。それは別に自らを誇示するような言葉ではなく、単にアイヌ語の一つの言葉に過ぎないものだろう。しかし、アイヌ人の行動には尊敬に値するような、何か「真のもの」があった。
「真の人々」、それは「アイヌ」という言葉が持つ意味だ。それは別に自らを誇示するような言葉ではなく、単にアイヌ語の一つの言葉に過ぎないものだろう。しかし、アイヌ人の行動には尊敬に値するような、何か「真のもの」があった。彼らは自然と調和しながら生きることが出来た。彼らは採集や漁業、狩猟などを行い、農業には一切関わらなかった。そのような理由から、自らの人口と地域の可能性とのバランスを維持しない限り、生活していくことはできなかったと言える。よって、広い土地に分散しながら少人数で生活していくことを余儀なくされたのである。

そのような時代は長く続いた。というのも、日本列島においてアイヌ人たちは比較的少数だったからだ。しかし紀元前第三千紀ごろから、日本列島には東南アジアや南中国、そしてさらには中央アジアやアルタイからの移民がやってくるようになる。彼らは狩猟だけでなく、農業や牧畜にたずさわり、より多くの人々を養っていける能力を持っていた。その結果、日本列島における移民の数は増加し、それが日本民族を形成したのである。

日本列島における民族大移動の第一段階において、移民たちとアイヌ人らの関係がどのようなものであったのかは、はっきりとしていない。ある説によれば、一部のアイヌ人たちはサハリンやアムール川下流地域、沿海州やクリル諸島に押し出された、という説明もある。そしてヤマト国家が出来てからは、アイヌ人たちは本州の北部へと押しこまれていった。

他の説によれば、ヤマト国家は邪馬台国、つまりアイヌ人国家の後継者なのだとする説明もある。そうなれば、ヤマト国家とアイヌ人との対立は、日本人とアイヌ人との戦いではなく、国家に移民を吸収していった「文明化された」アイヌ人たちと、伝統的な生活を守ろうとした「野蛮な」アイヌ人たちとの戦い、ということになる。

クリル諸島はアイヌの土地か?

005年秋、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は東京訪問の準備を進めていた。訪日の際、日本側はいつも通り、北方領土問題を取り上げるつもりでいた。
  2005年秋、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は東京訪問の準備を進めていた。訪日の際、日本側はいつも通り、北方領土問題を取り上げるつもりでいた。しかしここで突然、ロシアと日本の領土紛争に予期せぬ第三の勢力が現れた。日本に在住するアイヌ人を束ねる「ビリカモシリ協会」が、ロシアと日本の外務省に書簡を提出したのだ。書簡のなかでは、係争中の四島がロシアの領土でもなければ、日本の領土でもなく、しいては露日両政府がその領有権交渉を行う権利はなく、アイヌ民族の意見を聞く必要がある、とされていた。さらに、アイヌ民族は将来、当該地域に自治管区を創設する意向であり、日本政府とロシア政府は、交渉を停止させるべきだと主張した。アイヌ民族の自治管区創設については、初めて公にされたものである。

  書簡に対して日本外務省は、書簡を受け取ったものの、他の住民に比べてアイヌ人を特別扱いすることはできない、と反応した。

  ロシア外務省の高官は、書簡の文責者およびコメルサント紙の記者とのインタビューのなかで、今回の事件を「滑稽談」と名付け、いかなる領土も、かつて住んでいた部族の要求は予測できないものだ、と応じている。


以上ロシアの声から


ほんとにこの人達はアイヌ人なのか、以前にも書きましたが、これはロシアとアイヌ人と思しき人達の出来レースです、信じないように、と言っても皆ロシアの声なんか観てないか。

2012年3月18日日曜日

チェンマイ県で慰霊祭及び櫻植樹

戦没者慰霊植樹 櫻会によるチェンマイ県で慰霊祭写真報告

タイ国チェンマイ県バンカート学校内にある「タイ・ビルマ方面戦病歿者追悼之碑」


















インパール作戦(ウ号作戦)の失敗によりインドからビルマへと来た日本軍はこのタイの地に敗走してきました。このインパール作戦の戦闘で、また戦病死で亡くなられた英霊、現在では兵士を犬死させただの色んな見方がありますが、私は英霊に犬死などいないと思っております。この後にビルマ、インドの独立を早めた一点においても、犬死ではなかったと確信しております。

現在、慰霊などやって何になるんだという輩もおりますが、現在の日本国の繁栄は国を思う英霊の礎の上にあるのです。日本はアジア解放を掲げ、戦は破れはしましたが、その戦争目的であるアジア解放は、多くの日本人の多大なる犠牲の上に成し遂げられたわけであります。

今後下の世代へ繋いで行くことが我々の役目だと感じております。



追記

アメリカ人行方不明者捜索再開協議

3月13日のサテライトPIが伝えた所によるとアメリカはビルマ政府へ経済封鎖解除前に先の大戦中にビルマ北部で依然として行方不明約730名アメリカ人の捜索協議に入ったと伝えた。

アメリカはこれで捜索再開に向けて動き出す、日本政府は何をやっているのだろうか、解除前が良いに決まっている、未だご帰還叶わぬ英霊のご遺骨が7万柱以上日本政府は探す気があるのだろうか、銭儲けより先に捜索に決まっている。

2012年3月9日金曜日

チェンマイで慰霊祭



3月12日、タイで慰霊祭

戦没者慰霊植樹櫻会は本年3月、タイにおいて慰霊祭を執り行います。
3月12日に日本を出発、翌13日、チェンマイ県に建立されている「タイビルマ方面戦病没者慰霊碑」前にて、第4回目の慰霊祭を斎行します。
当会より30人が参加予定。

アジア櫻街道 より
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/ireisakura

2012年3月6日火曜日

ワンマカブチャー (万仏節) Makha Bucha Day

3月7日は仏事です。万仏節


 タイの朝は僧たちの托鉢によって始まる。愉楽に騒ぐ熱帯の夜の名残りと、新たな一日の光が生起する豊饒への胎動との境目に、密かに目と祈りが流れ出る。合掌した手の熱い思いから、あたかも一瞬一瞬紡ぎ出される奇跡のように、生きとし生けるものの時間が動き始める。
裸足の僧と、裸足で食物を捧げる叙の、大地を通した交歓のなかに、洗われる心が光る。「サバーイ チャイ」という内面の輝きの美しさを、タイの人々は生れながらに具備している。祈りの溶け合うそこに、タイの朝がある。

タイ人は朝托鉢に来る僧侶に食物を捧げる。また、誕生日には早朝から寺へ行って捧げ物をする。これらも、幼少の頃から一つの習慣として受け入れられていくものである。「徳を積む」ことを社会と人生の価値観として学んでいく。「ナーム チャイ」(水の心=怦、)とか、「サバーイ チャイ」(心がすっきりする)とか、精神の清らかさやさわやかさを表す言葉が、日常のなかに息づいている


ワンマーカブチャー (万仏節)

陰暦3月の満月の日に釈迦がウェールワン寺院を訪れた際、悟りの境地に達した1,250人の弟子が偶然一堂に会したという奇跡的な出来事を祝う日で、人々は寺で説法を聞き、手にロウソクを持って本堂や仏道を3巡します。

Makha Bucha Day is a very important Buddhist Holiday in Thailand

Makha Bucha takes place on the full moon of the third lunar month. The day commemorates two separate events that occurred on the same date, but 45 years apart during the lifetime of the Buddha over 2500 years ago.

The first event was the spontaneous coming togeather of 1,250 monks to meet and be ordained by the Buddha, woithout any prior announcement having being given. This took place 7 months after the Buddha began his teachings.

The second event, which took place 45 years later, was the Buddha delivering his teachings shortly before his death.

The name of the event is derived from two words in the Buddhist Pali language: "Makha" which is the word for the third lunar month and "Bucha" which means to venerate or to honour. Thus Makha Bucha Day is for the veneration of Buddha and his teachings on the full moon day of the third lunar month.

Makha Bucha Day is a very important Buddhist Holiday in Thailand (where about 92% of the population are Buddhist). Many Thai people take the day off work, but the main festivities take place in the early evening. Thai Buddhists gather at the temples at sunset to "Wian Tian". Wian Tian is the act circumnavigating the Bhot (the main building of a temple complex), where Monks are ordained, three times. While doing this they chant and carry with them one burning candle and three incense sticks held along with one lotus flower between their upright folded hands. They do this as a way to show their respect to what is called the "Tripple Gem", which is the Buddha himself, his teachings and doctrines, and the monkhood he founded. As such, the first time they walk around the Bhot they think of the Buddha, on the second they think of his teachings and the third, they think of the monks who devote themselves to Buddhism.

2012年3月5日月曜日

最近のアジアのニュース

mizzima

Burmese election, human rights to influence lifting E.U. sanctions
制裁を解除するかどうかは補選の結果による、とビルマを訪問したEU代表団
4月の補欠選挙が自由かつ公正な選挙が行われることを願っている。

先にアウンサンスーチー氏も同じ様な事を言っていた、各国に制裁解除は選挙の結果次第で行われるように、これは一種の圧力ではなかろうか、国民や現政権に対しての圧力、またアウンサンスーチー氏の言い分を聞き入れるアメリカやEU、ビルマの半分以上が農村地帯である貧困に喘ぐ人達は経済を立て直して欲しい、少数民族地域では今もなお武力を背景に深刻な人権侵害が行われている、それは分かるしかし外国の勢力を背景にこんな圧力をかけていいものだろうか、間違いなく後々歪が来る。


the-diplomat

Malaysia’s Right Wing Problem
ペトロナスツインタワーの右側が傾いているという話ではなく
マレー右翼のはなしなのですね、そもそも右翼というう物は何処の国でも圧倒的な支持を得ているのが現状で、ロシアでもベルギーでもポーランドでも、アジアは其処もかしこも、支持を得ていないのは日本くらいなもんじゃないかな?本当日本は社会主義国なんだから。

新しく設立されたマレー系右翼NGO Perkasaはマレーの権利とイスラムを擁護の最前線にいる。ハッサン·アリの創設者によると、マレー人の権利、イスラムとマレー人のロイヤルティを保護するために設立されました。
昨年以来、キリスト教関連の慈善団体などのチャネルを通じてイスラム教徒を改宗させていたり(他の宗教へのイスラム教徒の改宗がマレーシアで禁止されています)していた。
この様な者達からイスラム教徒を守るために出来た団体ということですが、マレーシアには随分昔からプミプトラ政策があり、マレー人はかなり守られていたのでは?しかしそれも随分侵されているのでしょうね。

プミプトラ
イギリス植民地時代には、宗主国のイギリスによって中国やインドなどから外国人労働者が連れてこられたため、多民族社会化がさらに進んだ。イギリスから独立後、経済的に豊かな中国人と先住民であるマレー人の対立は進み、中国人によるシンガポールの建国(マレーシアからの分離独立)や5月13日事件に代表される民族対立が続いた。対立の原因が経済格差であったために、マレー人を経済的に優遇する国策が施行された。この一連の政策を総称して「ブミプトラ政策」という。

マレーシアタイ人もブミプトラである

ケダー州のタイ人コミュニティーの住むWat titi Akar と Wat Nanai を訪問したナジブ首相は語る、「マレーシアタイ人はブミプトラとして見なされていると言明したい、彼らは本当に認められており、ブミプトラ特権を享受できることを保証します。マレーシアタイ人はずっと国に忠誠でした、アブドゥルラーマン元首相はタイ人コミュニティーをブミプトラとして宣言しました、今日私はこれをあらためて表明します。」

とマレータイ人もプミプトラであると言っています。それはタイに住むよりマレーに住んだほうがいいけども、先祖伝来の土地は捨てられない、そこで民族闘争なのです。

と全然話が変わりましたが、ペトロナスの話ではないということです。



Democratic Voice of Burma
Work to resume on Death Railway: reports
これ復活させるの?
カンチャナブリの有名な戦場にかける橋泰緬鉄道、この橋修復では保たないでしょう、新しく作ったほうがいいのではないだろうか、確かにここを通って行けば、ヤンゴンまで早く行けるね、しかし今の両国の鉄道ではどうしようもない、JR西日本にお下がりを貰って、新幹線とまでは言わないが、日本の特急くらいで走ってもらったら凄く行きやすいんだけど


irrawaddyNews
http://www.irrawaddy.org/article.php?art_id=23131
民族紛争の解決を優先課題とする、とテインセイン大統領 パンロン協定にも言及
テインセイン大統領「民主化後戻りせず」 欧米との関係改善に意欲

テインセイン大統領「民主化後戻りせず」 欧米との関係改善に意欲,民主国家を築いていくための重要な課題として、大統領は「国内和平」と「市場経済の導入による国民生活水準の向上」の2点を挙げた。これからの若い者達は「銃ではなくパソコンを手にする時代が来た」


Democratic Voice of Burma

Democratic Voice of Burma (DVB)設立者20年ぶりにビルマを訪問
エイチャンナイン氏がビルマに到着、ほんの数ヶ月前までは考えられなかった、この様に亡命ジャーナリストたちが続々と帰国している。

Democratic Voice of Burma
Shan party eyes return to politics
2010年総選挙はボイコットしていた、シャン民族民主連盟(SNLD)、政党登録へ、我々に他の選択肢はなかったと

Suu Kyi's Campaign Trip in Myitkyina.

アウンサンスーチー氏がカチン州を訪問 5万人が集まる
「平和なしに発展はありえない」「パンロンの精神」と呼びかける、2日間で5万人が集まる、イラワジニュースが伝えた所によると元首相の娘ら2人が「民主党ミャンマー」から脱党、国民民主連盟(NLD)に参加を表明したと伝えた。

「パンロンの精神」というのは1947年アウンサウン将軍及びビルマ政府が初めてシャン州のバロンにてビルマ連邦への参加を少数民族グループと交わした協定、この時協定に参加したシャン州、カチン州、カレンニー州、チン州がビルマ連邦への参加(パンロン協定)に合意しました。この直後にアウンサウン将軍暗殺、ビルマ少数民族にとっては建国の理念とでもいいましょうか、物凄く心と耳に響きがいいのです。
またその時の合意で保障された「諸民族の自治権」とシャン州、カレンニー州に認められた「連邦離脱権」は、1962年以降、軍政を強いたネーウィン体制時代に剥奪され、シャン州へビルマ軍が侵攻しました。この辺が難しい問題で各エスニック・グループはビルマだとは思っていない、ビルマには135ものエスニック・グループがいると言われている、現在のビルマの4割はこの様な者たちで占められている。




Indonesia court orders militant Bashir to serve 15 years
ジェマイスラミアの精神的指導者アブ・バカル・バシル被告は高齢ということもあり一時は減刑を裁判所が支持していましたが、、15年の刑に服することになりそうです。この人インドネシア人ではないんだよね、ハドミラーでありインドネシア・ムジャヒディン評議会の指導者

2012年3月2日金曜日

弱腰外交

何でこの時期に弱腰シグナルを送るのだろうか?

ロシア大統領選挙が3月4日に迫っている、このまま行けばデモやprotestなどはあったにしてもプーチン首相が当選することは間違いないだろう。先日ラブロフ外相と玄葉外務大臣との会談でこの問題については新しい政権下で進めたいと話していたが、その政権が出来る前にこんな弱腰ですか?

ロシアは不法占拠と言われるのを一番嫌うのであるが、また日本もこれを言い続ける事によって国際社会に対するアピールになるのだが、これを止めてしまえばロシア側の思う壺である。
ロシア側に日本政府が不法占拠ではないと言っていると、とらえられても仕方がない。
近年日本に留学するロシアの学生や、日本語を学ぶロシア人の間でも多少なりとも、北方領土は日本の物だといっている連中もいる、代表格は2005年にサンクトペテルブルク国際映画祭でグランプリを受賞。昨年のベネチア国際映画祭で最新作「ファウスト」が最高賞の金獅子賞を受賞した、日本にもファンが多いソクーロフ監督だ、氏はロシアは「日本から学ぶべきことがたくさんある」とし、両国は仲良くすべきだと言い「日本人に、かつて彼らのものだったすばらしい土地を返す必要がある」と言っている、本心かどうかは分からないが、公の場でこの様な事をいう人もいるのである。

ソ連当時3万人いた人口が現在では1万8千人まで減り、現在では北朝鮮人や中国人を労働者として受け入れているらしいのだが、空挺部隊を置くとも言っていたがその気配すらない、現在のロシア人にとっては住めない土地なのである。こんな所で弱腰を見せては絶対にいけない。


以下ロシアの声の記事



日本政府:北方領土は「不法占拠」ではない

 日本政府は2日午前、北方領土について「不法占拠」されているとの表現の代わりに「法的根拠のない形で占拠されている」とする答弁書を閣議決定した。「産経新聞」によると、これは自民党の今津寛衆院議員の質問主意書に答えた。

 答弁書は理由について「どのような表現を使うかについては、領土問題は相手国との交渉を通じて解決すべきものであること、相手国との関係全般を考慮した結果として行われる」と説明した。



プーチン首相会見 領土問題「引き分け」の可能性がある

4日に投票日を迎える大統領選に立候補しているプーチン首相は、日本との領土問題について、両国間の経済関係発展を基盤にしてこの問題の解決法を見つけることが可能だとの見方を示した。
プーチン首相は1日夜、モスクワ郊外の首相公邸で外国の主要紙編集責任者らと会見した中で「我々は、日本との間にある領土問題を最終的に終わらせたいと強く願っており、両国にとって又両国民にとって受け入れられるような形で、それをしたいと欲している」と述べた。 リア・ノーヴォスチ通信によれば、会見でこの問題提起をしたのは、朝日新聞の若宮啓文(よしぶみ)主筆。

又、プーチン首相は領土問題解決に向けた鍵となるのは、より密接な経済協力であり、ロ中の同様の問題を例に挙げることが出来ると強調した。ロシアと中国は、国家間貿易を新しいレベルに引き上げて初めて、問題調整に成功したということだ。

さらにプーチン首相は、領土問題それ自体の調整において以前同様、係争中の4島のうち2島の返還と、その後の平和条約締結を前提とする1956年の宣言に戻ることを提案している。

なおこの問題をめぐる応答で、若宮主筆が柔道用語「引き分け」を使い「もし我々(ロシアと日本)が引き分けを欲しても、2島では不十分だ」と指摘したのに対し、プーチン首相は「若宮さんは今のところ外務省で働いておられないし、私自身も大統領ではない」と答えたうえで、大統領選挙後にまたこの問題を話そうと提案した。


この朝日の記者バカ主筆は何を考えているのだろうか、根本的なことが解っていないならば質問するんじゃない!!
引き分けなんてありえないんだよ、全千島と南樺太まで返して貰わないといけないんだよ。