2009年2月27日金曜日

228事件


【 張七郎の死は政敵の報復 】
中央研究院台湾史研究所は26日、228事件の新しい資料を公開した。そのなかに1947年に花蓮県で殺された張七郎父子3人は落選を恐れた政敵の張文成・花蓮県長が21師団の連隊長に密告し、「密裁」(秘密処刑)されたとする公文書があった。研究所所長は「スパイが情報を軍に手渡したために処刑された。資料は歴史の真実を表している」と語っている。張三郎の孫は「そのような資料は前からあった。処刑は意外、濡れ衣だったと言いたいのだろうが、殺害は国民政府がやったことは明白だ。研究所の発表は歴史を曲げている」と批判している。

【 第21師団は中国に戻る 】
228事件を主導した第21師団は陳儀の求めで蒋介石が精兵に編制替えして台湾に送られ、台湾のエリートを殺戮する「清郷」政策を執行した。台湾では5カ月駐屯しただけで、1948年8月に国共内戦のため支那に戻された。第21師団は上海防衛戦で解放軍第31軍によって壊滅された。その解放軍第31軍の中には多くの台湾人兵士が含まれていた。陳儀が1946年に国府軍として送り込み、さらにこの軍が解放軍に敗れ、解放軍に組み入れられたからだ。台湾人兵士はその後、さらに義勇軍として朝鮮戦争にも送られた。張七郎を殺すよう指示したとされる張文成・花蓮県長は228事件後、行方が分からないが、支那に戻ったとも伝えられている。張七郎は当時、国民大会代表で県長選挙に立候補が伝えられていた。

228事件
日本に洗脳されたと間違った分析をした国民党

1945年に日本が敗戦した後の台湾には、連合国軍の委託を受けて日本軍の武装解除を行うために大陸から蒋介石率いる支那国民党政府の官僚や軍人が進駐し行政を引き継いだ。

大陸から来た国民党政府の官僚や軍人らを港で歓迎したが、やがて彼らの腐敗の凄まじさに驚き、失望した。大陸から来た軍人・官僚は国共内戦の影響で質が悪く強姦・強盗・殺人を犯す者も多かったが、犯人が罰せられぬことがしばしばあり、もし罰せられる場合でも、犯人の省籍をマスコミ等で報じることは厳しく禁じられた。また、台湾の資材が中国人官僚らによって接収・横領され、上海の国際市場で競売にかけられるに到り、台湾の物価は高騰、インフレによって企業の倒産が相次ぎ、失業も深刻化した。

比較的不正の少なかった日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい腐敗は到底受け入れがたいものであった。人々の不満は、いやが上にも高まっていった。
台湾の人々は、自らを近代化した存在と自負し、日本時代に作られた議会を発展させて自治政府を作りたいと考えた有力者もいた。だが、大陸からきた人々(外省人)は、「台湾人が受けた日本の教育は奴隷化教育であり、日本に洗脳された台湾人の文化や自治意識など、尊重するに値しない」と考えた。しかも支那からきた国民党政権は腐敗しており、日本から接収した財産を私物化する傾向が強かった。

 こうした摩擦の上に、日本時代に政府の専売品だったタバコ、酒、石油製品などの販売が、国民党政権になっても自由化されなかったことが、台湾人の反感を強めた。ヤミでタバコを売り続ける市民に対し、国民党政府は専売局の武装した取締官を巡回させ、摘発に抵抗する市民を力で弾圧する政策を展開した。

1947年2月27日、台北市内の市場で専売局の取締官が、ヤミタバコを売っていた女性を見つけ、制裁のため暴力をふるったことから、周りにいた市民が取締官に詰め寄り、恐怖を感じた取締官が発砲し、市民一人を殺害して逃げた。

翌2月28日、この事件に抗議する市民のデモ行進が企画され、台北市内を専売局に向かって行進しはじめたが、国民党当局はデモ隊に向かって発砲し、多数の死者が出た。事件当時の台北の政府当局は、南京の中央政府に向けて「台湾人は国家に叛旗を翻し、独立を企てている」という報告書を送り、この事件は反逆罪なので厳しい鎮圧が必要だと要請した。

台北の当局は大陸からの応援軍を待って、台湾人に対する弾圧を強化して戒厳令を敷いた。40年後の1987年まで、戒厳令は解除されなかった。

蒋介石が支那共産党軍に敗れて台湾に敗走したのは1949年であリ、それ以降主権の問題や日本の領土放棄など踏んだり蹴ったりである。
日本人の中に、現在でも台湾が中国の一部等と思い込んでいる者が可也いる、当時の支那共産党、国民党全て満州人に支配されており、日本が領土放棄した時点では中国其の物が無かったのである。

したがって台灣は中華人民共和国の一部ではない、と言える。

満州人というの漢族とは全く別民族なのです、日本人に有りがちな考え方大陸は繋がっているので、大して違いは無いだろうと、日本人とロシア人位の違いがあります。

其れでは台湾の領有権は何処にあるか、本来ならばアメリカに有る筈ですが、此処は日本が今まで台湾にとって来た態度等をを悔い改めて、台湾の本土復帰(日本、内地)を適へ用では有りませんか。
勿論台湾人の主権は台湾人自身がその帰属を決めるべきでありますが、これからも今までの様な曖昧な政策を日本政府が取るようであれば、台湾はどんどん日本から離れていきます。
此れだけは、知って置いてください、竹島、北方領土同様、台湾を守らなければ、今後日本の生きる道は狭まれるのです。

2009年2月25日水曜日

お辞儀


日本人にとって正式な挨拶といえば、お辞儀ということになるだろう。しかし、世界を見渡してみると、実にいろいろな挨拶が存在する。握手はもちろん、抱擁やお互いの頬にキスしたり、手を合わせて拝む地域もある。それぞれの起源も面白く、握手は利き腕を相手にあずけることで、相手を攻撃する意志が無いこと示している。抱擁は握手だけでは安心できず、背中まで確認する意味があり、確認後に堅い握手を交わす。そして、手を合わせて相手を拝むのは仏教的な意味合いが強く、高い位置で手を合わすほど、相手への大きな敬意を表している。

では、日本人のお辞儀にはどんな意味があるのだろうか。自然と身に付いたせいか、その意味を考えることなんてなかったに違いない。しかし、初対面での挨拶や、お礼、謝罪など、様々な場面で使うお辞儀は、握手や舞台の最後に行われるような西洋風のお辞儀とは意味が違うように思える。今回は、そんな日本人の挨拶、お辞儀について調べてみた。
お辞儀の意味

日本にお辞儀が登場したのは、弥生時代とも言われている。ただ、当時のお辞儀は、身分の高い人に対して庶民が敬意を示す際に、地面に座り頭を垂れるもので、挨拶というよりは服従のポーズだった。そして、挨拶として登場するのは、飛鳥時代~奈良時代の頃。中国の礼法を取り入れ、身分に応じたお辞儀の形が制定された記録が残されている。

しかし、なぜ握手や抱擁のような形ではなく、お辞儀が挨拶として好まれたのだろうか。これは、日本が島国であることや、日本の気候、儒教の影響など、様々な条件が関係しているという。まず、高温多湿の日本では、身体が接触する握手や抱擁は不快感が伴う行為であった。また、島国故に西欧諸国に比べて侵略や他民族に対する警戒心が薄く、さらに、儒教の影響によって、身分の違いや先輩、後輩などの関係が生活の中に存在していたために、対等に手を握り合うような挨拶などは受け入れ難かったらしい。日本人は、そうした理由もあって、自分の首を差し出し、相手に対して敵意がないことを表すお辞儀を挨拶としたのである。

ちなみに、正式な挨拶作法の資料によると、お辞儀は角度によって大きく3種類に分けることができる。立礼の場合、「最敬礼」は直立の姿勢から腰を基点に45度以上体を曲げる。「敬礼」は30~45度、「会釈」は15度程度。つまり、45度身体を曲げることは、相手に最高の敬意を示していることになる。

2009年2月21日土曜日

2月22日は竹島の日


Japan PM wants settle territorial dispute with Russia
18.02.2009, 09.16

TOKYO, February 18 (Itar-Tass) - Japanese Prime Minister Taro Aso at talks with Russian President Dmitry Medvedev that were held in Yuzhno-Sakhalinsk on Wednesday expressed determination to settle the territorial problem in relations with Russia, the Kyodo news agency reported on the results of the Russian-Japanese summit on the Sakhalin Island.

In their talks, the two leaders agreed to “accelerate our efforts in seeking an original and unconventional approach toward solving the sovereignty dispute during our generation,” Aso said. “The issue has concerned everything between Japan and Russia and that needs a political decision (to resolve),” said the Japanese premier, according to Kyodo.

It said that during the opening of the summit talks, Medvedev told Aso that Russia is ready to expand reciprocal relations between Tokyo and Moscow, welcoming the recent progress of political dialogue between the countries.
The talks were held ahead of an opening ceremony for Russia’s first liquefied natural gas production plant, part of the Sakhalin-2 oil and natural gas development project that involves private-sector Japanese companies. The LNG plant opening was held in the area of Prigorodnoye on the Aniva Bay shore. The plant will supply a major part of its products to Japan.
In addition to the territorial row, the two leaders are believed to have discussed a diverse range of other bilateral issues including cooperation on developing Eastern Siberia and North Korea’s abductions of Japanese nationals in the 1970s and 1980s, Kyodo reported.

Aso became the first Japanese premier since the end of World War II to set foot on the Sakhalin Island. He is planning to return to Tokyo in the afternoon.


上記ニュースはロシアタス通信が18日に小さな記事として配信したニュースです
内容的には何か特別な事が有る訳でもないニュースです

インターファックスに至っては記事を見つけるのにも苦労致しました、又記事に対して日本側が希望すると書いてありました。  ふざけるな


太郎首相が言うように建設的なものでも何でも無かったようです。それよりも何故急に樺太まで日本の首相が出て行かなければならないのか、メドベージェフはサハリン2の開会式に来ただけで、相手からすればサハリンまで行きますので来られませんか?

の様な調子だろと思うのだが、あ-其れでは行きましょうと、 誰が決めたんだよ

何故此処へ来てロシアがシグナルを送り出したか、西で失敗すれば東へ来るのがロシアの常套手段です、其れ位ロシア専門家は分かるだろ、尚且つ金が底を突き出した、EUもエネルギーをロシアに任せるのは当に止めております。

日本のマスコミぐらいでしょロシアがパイプラインを止めたのウクライナが盗んだのやっているのは、EUの人からすればドーゾ御事由にと言う程度でしょう。

太郎首相も、この若造が自分から来んかい、位の事は何故言えないのでしょうか、黙っていても向日から用事が有りますとやって来るのに  ゴルゴを読んでいるならもう一寸勉強してくれよ。

又昨年暗礁に乗り上げていた日本へのガス供給は実行されるみたいです。ほって置いてもこんな事です。サハリン2は日本側の権益が30%ほど有りますので、この際ですからロシア側にガスは要らんから、売り上げ持って来いと言ってみては如何でしょうか?

先人が命を削って残した領土を簡単に半分で良いとか、訳の分からない貴方達が言う 政治判断 だけは止めて下さい。と言うよりも今まで政府は4島一括返還要求等した事が無いのは政治家なら皆知っている事実ですがね、それを貴方は口を滑らせるから、其れが貴方の本音ではないかと皆思うのですよ。

22日は竹島の日ですが何にも考えていないのでしょうね、韓国への金の供給を止めては如何ですか?
オリックスの宮内と言われても守銭奴と言われても良いじゃないですか、領土が守れるならば、仁義を外しているのは相手なのですから。

日本での報道は知りませんが、中川大臣の会見を見ました、たまには酔う事だってあるでしょう、何が行けないのですか、大臣で会見も出来ない位に酔っ払っていたからでしょうか?

私は益々あの人は好きになりましたが

以下は長くなりますが日露の歩みまとめ

明治8(1875)年5月、海軍中将兼駐露公使・榎本武揚(えのもと-たけあき)と、ロシア帝国首相兼外相・ゴルチャコフとの間に調印された日露二国間の国境確定条約。樺太・千島交換条約共呼ばれる。安政元(1854)年に締結された日露和親条約では、千島列島は、択捉(エトロフ)・得撫(ウルップ)両島間を国境線とし、樺太(サハリン)については両国民雑居としていた。しかし、樺太で日露両国民間に紛争が生じた事から、国境線を確定する必要が生じ、樺太をロシア領、千島全島を日本領とする事で決着した。ちなみに、現在、日本が主張する「北方領土」は、安政の日露和親条約に立ち返り、「択捉島以南は日本領」と言う見解に基づいている。

日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まった。
明治38年(1905年)5月27日「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し 」大本営に一報を打電し、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」でロシアのバルチック艦隊との日本海海戦が始まった。この戦いを勝利に納め、日露戦争の終結直前の段階で日本軍は樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる。

1905年9月アメリカのニューハンプシャー州・ポーツマスで日本全権代表は小村寿太郎とロシア全権代表はウィッテの間で、「日本の韓国における権益の承認、旅順・大連の租借権および長春以南の鉄道と付属の利権の譲渡、樺太南半の割譲などを決めた」講和条約が締結され、ここに、戦費の半分以上を米英資本で賄った日本と、フランス資本を背景に軍費を調達したロシアとの戦争は、日本勝利で終結した。

 条約の概要は、以下の通り。
1.ロシアは、日本が韓国において軍事上、経済上に卓越した利益を有することを承認し、日本が韓国に指導、保護および監理の措置をとることを妨げない。
2.両国は満州から同時に撤兵し、満州を清国に還付する。
3.ロシアは清国の同意を得て遼東(りょうとう)半島南部の租借権(そしゃくけん=他国の領土を借り受けること権利)、長春(ちょうしゅん)~旅順(りょじゅん)間の鉄道と沿線の炭坑を日本に譲渡する。
4.ロシアは日本に樺太(からふと=シベリア大陸とは間宮海峡で隔てられている北海道の北方に連なる南北に長い島で、第2次大戦後、ヤルタ協定でソ連〔現・ロシア連邦〕領となる。サハリン)の北緯50度以南を割譲し、沿海州漁業権を許与する。

この後第一次世界大戦の勝利により太平洋の島々等が日本領土となるも、大東亜戦争では戦争末期には敗北が濃厚となり、ポツダム宣言を受諾し連合国への降伏文書に調印、これによって間違いなく敗戦、しかしながら日本は無条件降伏をしたのではありません、条件を提示して降伏したのであります。この辺の話を書くと長くなるのでこの辺にして置きまして、次へ
このポツダム宣言というのは1943年大東亜戦争中に米・英・中がカイロで首脳会談をおこなったもので、この時の約束事をただ単にカイロ宣言と言っているだけです。このカイロ宣言を履行させる為にポツダム宣言が作られております。それはそれで降伏文書に調印をしておりますので、問題は有りませんが、日本共産党が以前より言ています、カイロ宣言の右同盟国の領土不拡大について

右同盟國ハ自國ノ爲ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土擴張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
現代文:
右の同盟国は、自国のために何の利益も要求するものではない。また、領土拡張などをも考えるものでもない
右同盟国(米・英・中)の目的は、日本国より1914年の第一次世界大戦の開始以後において日本国が奪取し又は占領した太平洋における一切の島嶼を剥奪すること並びに満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国民より盗取した一切の地域を中華民国に返還することにある
1943年、太平洋戦争(大東亜戦争)中に米・英・中がカイロで首脳会談をおこなった。この時のカイロ宣言で1914年の第一次世界大戦以後日本が諸外国より奪取した領土を奪還することを目的とし、この同盟国には領土拡張の意図がないとしている。そのため南樺太や千島列島は米・英・中の奪還の対象とはなっていない。
と言うことで日本共産党は対日講和条約のカイロ宣言は無効で此れを破棄し、南樺太と全千島列島の返還を要求する旨の事を言って下りますが、一体誰に言っているのでしょうか

ポツダム宣言 八 (和訳原文)

「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
現代文: 「カイロ」宣言の条項は履行されなければならず、また、日本国の主権は本州、北海道、九州、および四国ならびにわれらの決定する諸小島に限られなければならない
ポツダム宣言はカイロ宣言を履行されなければならないとしている。カイロ宣言では南樺太・千島には言及されておらず、ポツダム宣言でも千島列島・南樺太にかんする事項がない。宣言ではソ連への千島・南樺太の譲与にも言及がない。

大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦間中立条約
署名 1941年4月13日(モスコー)効力発生 1941年4月25日有効期間は5年であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされた

占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)大東亜戦争終結後の1945年8月18日~21日に、千島列島北端の占守島で行われたソ連軍と日本軍との間の戦闘である。当初、日本側は上陸してきたのはソ連軍と断定できず国籍不明としていたが、次第にソ連軍と認識するに至った。ソ連軍が占守島に上陸したとの報を受け、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、第91師団に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出した。師団長の堤中将は、射撃可能な砲兵に上陸地点への射撃を命ずるとともに、池田末男中佐率いる戦車第11連隊に対し師団工兵隊の一部とともに国端方面に進出して敵を撃滅するように命じた。
ポツダム宣言受諾により大東亜戦争が停戦した後の8月18日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が占守島に上陸、日本軍守備隊と戦闘となった。21日に現地での停戦が最終的に成立し、23日に日本軍が武装解除、ソ連側資料では日本側死傷者約1,018名、ソ連側約1,567名

ソ連の対日参戦
8月 8日 ソ連、対日宣戦布告
8月10日 ポツダム宣言の受諾を連合国へ伝達
8月11日 ソ連、南樺太の国境を侵犯し侵攻
8月14日 ポツダム宣言の受諾を決定
8月15日 日本国民に向けて玉音放送
8月18日~8月31日 ソ連、カムチャツカ半島方面より午前2時半頃占守島侵入し、23日に日本軍が武装解除により得撫島以北の北千島を占領
8月25日 南樺太を占領
8月28日~9月1日 択捉・国後・色丹島を占領
9月 2日 連合国への降伏文書に調印。(一般命令第一号発令。本命令により、千島の日本軍はソヴィエト極東軍最高司令官に降伏することが義務付けられた。)
9月3日~9月 5日 ソ連軍が歯舞群島を占領
占領は連合軍「一般命令第一号(陸、海軍)」にしたがって行われた。北方領土を含む千島列島と色丹島、歯舞諸島はソ連に占領された。翌年1月、連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号により、日本政府は、・琉球・千島・歯舞群島・色丹島・南樺太などの地域における行政権の行使を、正式に中止させられた。その直後、ソ連は占領地を自国の領土に編入している。ポツダム宣言の「吾等ノ決定スル諸小島」(此処に竹島等も一部として入っている)条約によると未確定地域と言う話も有るが決定されないまま、サンフランシスコ条約は締結され、さらに、同条約に調印していないソ連と領土に関する合意のないまま、ソ連が占領した島々が現在も実効支配されている。

対日講和条約 
この条約の後文には「千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で、ひとしく正文である英語、フランス語及びスペイン語により、並びに日本語により作成した」との一文があり、日本語版は正文に準じる扱いとなっている。これは当時国連公用語だった英語・フランス語・スペイン語・ロシア語・中国語の5カ国語のうちソビエト連邦と中華民国がこの条約には加わらなかったことからロシア語版と中国語版が作成されなかったことによるもので、また日本語が加えられているのは当事国であるからにほかならない。日本では外務省に英文を和訳させ、これを正文に準ずるものとして締約国の承認を得たうえで条約に調印した。現在条約締結国に保管されている条約認証謄本は日本語版を含む4カ国語のものである。アジア歴史資料センター(アジ歴)などでもインターネット閲覧が出来るhttp://www.jacar.go.jp/

1951年(昭和26年)9月8日に全権委員によって署名され、その後国会承認と内閣批准を経て翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効した。日本国内では、昭和27年4月28日条約第5号として公布されている。
条約では千島列島の範囲は明確になっていないが、国会議事録によると、政府は、日本が放棄した千島列島に国後・択捉が含まれると説明している。平和条約は、放棄した千島列島に国後・択捉が含まれるとの認識のもと、国会承認されている。この説明は国内的に1956年2月に正式に取り消され、その後、日本は「北方領土は日本固有の領土であるので、日本が放棄した千島には含まれていない」としている。

日ソ平和条約交渉と日ソ共同宣言
日ソ共同宣言(昭和三十一年条約第二十号) 9 

日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。
1955年6月、松本俊一を全権代表として、ロンドンで、日ソ平和条約交渉が始まった。当初、ソ連は一島も渡さないと主張していたが、8月9日、態度を軟化させ、歯舞・色丹を日本領とすることに同意した。松本はこれで、平和条約交渉は妥結すると安堵したが、日本政府は、突如、国後・択捉を日本領とすることを主張、交渉は行き詰まった。

1956年7月、重光外相を主席全権、松本を全権として、モスクワで、日ソ平和条約交渉が再開された。当初、重光は四島返還を主張したが、ソ連の態度が硬いと見るや、8月12日、歯舞・色丹二島返還で交渉を妥結することを決心し、本国へ打診。ところが、当時、保守合同直後の与党には、派閥間の思惑もあり、重光提案を拒否、日ソ平和条約交渉は膠着した。さらに、8月19日、重光はロンドンで米国務長官ジョン・フォスター・ダレスと会談、席上ダレスは、二島返還で妥結することをきびしく禁止し、4島返還を主張しないならば、沖縄の返還も無いと指摘した。保守党内部の反鳩山勢力の思惑や米ソ冷戦下の米国の指図などにより、平和条約交渉は完全に行き詰まった。

1956年10月、鳩山首相は局面を打開すべく、領土問題を棚上げして、すでに妥結している他の問題(戦争の終結、国交回復、未帰還日本国民送還など)で条約(日ソ共同宣言)を締結することを決断、自らモスクワに渡りソ連との交渉に当たった。モスクワ交渉に先立ち、領土問題は棚上げすることで両国の合意が得られていたにもかかわらず、訪問直前になって、自民党は歯舞・色丹を日本領と確約することを共同宣言締結の条件とすることを決議、日ソ共同宣言締結に新たな条件をつけた。鳩山はフルシチョフとの会談で、歯舞・色丹を平和条約締結後に日本に引き渡すことを明記することに成功、日ソ共同宣言の締結を果たした。(参考、松本俊一著『モスクワにかける虹』)


日本の返還要求の根拠
北方領土が大東亜戦争以前にロシア領であったことは一度もない日本固有の領土である。
1855年の日露和親条約で日露の領土が確定した時に択捉島以南が日本領となっている。
1875年の樺太・千島交換条約で、日露で共同管理していた樺太とロシア領であった千島列島とを交換した際、ウルップ島以北を千島列島としている。従って千島列島とはウルップ島以北のことを指す。
ソ連の対日参戦や日本敗戦後に千島・南樺太をソ連へ割譲することを決めたヤルタ協定は連合国の秘密会談であり、日本との間には何の根拠もない。
日本は日ソ中立条約を1946年4月の期限切れまで厳守することを明らかにし、ソ連に対してまったく攻撃を加えていないにもかかわらず、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し北方領土を含む千島列島・南樺太などへ侵攻しており、重大な条約違反を犯している。
日本がポツダム宣言を受諾した1945年8月14日の後、8月28日から9月5日にかけてソ連軍が占領している。連合国が停戦を受け入れた後ソ連だけが一方的に侵攻継続した事態は日本領土への新たなる侵略に他ならない。
日本はサンフランシスコ講和条約に調印し千島列島・南樺太を放棄したが、日本が放棄した千島列島に北方領土は含まれていない。千島に属するというソ連の意見があったにせよ、ソ連自身この条約に調印していない。
ヤルタ協定の当事者であるアメリカは『北方領土は常に日本の領土であったので、日本に主権があることは正当として認められなければならない』と戦後日本の領有権を一貫して支持している。
ソ連はヤルタ会談上、領土要求の密約をしており、ヤルタ協定には国際法上領土を移転させるための根拠がない。

欧州議会は、2005年7月7日に日本の立場の支持を決議している。

それではどうやったら領土が帰ってくるか、日本共産党の様に誰に言うているのかも判らず、ただ自分達の気持ちの良い様に遣っている、此れでは駄目ですね。現実問題として全千島や樺太等幾ら交渉を重ねても戻って来ない物は来ない。
ロシアの経済状態が今後益々悪くなるので、オリックスの宮内に頼んで守銭奴を発揮してもらい、とことん値切らせて金で解決する。現実には有り得ると言う事ですね、しかし相手がロシアですから金で解決しても良いよと言う所を見せたがらない。しかし何をさて置き金は欲しい、後は宮内の腕の見せ所ですね、答え間違いではありません。
手っ取り早いのはもう一度やり直しという事で、リセットして一から戦争を仕掛ける、侵略するのでは有りませんので国際的には然程問題は無いと思います。領土紛争地域や主権問題地域では何処の国も交戦止むなしというのが一般な常識です。問題がるとすれば日本国内の問題でしょう、其れをどうやって解決するか、其方の方が埒が明かないと思いますけどね。

本当に戦争をするのでは有りません、核武装と言うと又憲法何条とか言う馬鹿の20乗みたいな奴が何か言い出しそうなので、あまり知られていないプラズマ爆弾を日本海に配備すれば、北方領土も拉致も竹島も全て解決するでしょう。
考えても見てください其の辺の国は只の吹けば飛ぶような普通の国です、日本はプラズマ武装すればプレミアムスーパーカントリーオブJAPANに変身するんです。年寄りと政府が金を溜め込んでいるから一寸やそっとでは金は無くならない、又今から日銀が金をドンドン刷ってもインフレは起こらない、それにプラズマ爆弾で武装をしたら

無敵最強国の出来上がりです。

しかしプラズマ爆弾を何処に発注するかシャープでは無理だろうな




プラズマ爆弾

すでに開発が終わっているとされるプラズマ爆弾は破壊力が桁違いに大きく、例えば東京上空で炸裂すると超高温の中心部の火の玉が本州全土を覆って、大気圏は吹き飛び、地球の表面はガラス状に焼き上げられると言う。

プラズマ兵器
 電磁波などでプラズマを発生させる。
 ピンポイントで生体だけ、金属だけなどを破壊できる。
 日本はプラズマ研究の最先端を走っている国の一つです。

水爆以上の威力はないが、戦術核程度の威力でコストも安く、扱いも簡単な兵器に「燃料気化爆弾」があります。
可燃性のガスなどを散布し、広範囲のガス爆発を起こします。
放射能の心配は無く、酸素を奪うので一瞬で窒息。
気密シェルターでもないかぎり防御不能。

私がプラズマ爆弾の話を聞いたのは、かれこれ20年ほど前イギリスが既に製造したという話を先輩から聞いた
先輩は和白の病院に入院していたけども音信普通になった、何をしているのだろうか

2009年2月12日木曜日

東京は、実は「首都」では無い?


「今でも京都が日本の首都」・「東京の皇居は別荘で、京都の御所が本宅」。現在も、京都の人達の中には、この様に考えている人が少なからずいます。しかしなぜ、明治維新の際、東京に「遷都」して130年も経た今尚、この様な考えが残っているのでしょうか? 実は、幕末維新の動乱の中、京都から東京への「遷都」に際して、ある手続きがなされなかったからなのです。

明治2(1869)年3月28日、明治天皇が東京に着き、江戸城改め皇城(1888年、宮城と改称、現・皇居)へと入りました。いわゆる「東京奠都」(東京遷都)ですが、この京都から東京への「遷都」の際、明治天皇は「ちょっと(東京へ)行って来る」と言って、京都を出たと言います。「ちょっと行って来る」と言う以上、当然、「暫くしたら(京都へ)帰って来る」と言う訳で、当時の京都の人達は、東京への「遷都」では無く、せいぜい「行幸」程度にしか考えていなかったと言えます。又、「東京遷都」に際しては、ある手続きがなされませんでした。それは、時の天皇が、「何時いっか何処々々に都を遷す」と宣言するもので、いわゆる「遷都の詔勅」と呼ばれるものです。この「遷都の詔勅」は、奈良時代の平城京遷都(和銅3=710年)、平安時代の平安京遷都(延暦13=794年)の際、時の天皇から発せられました。しかし、「東京遷都」に際して、明治天皇は「遷都の詔勅」を発してはいないのです。

更に不思議な事は、明治維新に際して、京都から東京へ「遷都」したにも関わらず、東京を「首都」とする旨の法令も政令も存在しないと言う事実です。つまり、京都から東京への「遷都」は、ある意味で場当たり的に行われた事になり、東京は「遷都の詔勅」と言う「お墨付き」の無い中途半端な都だと言えるのです。しかし、皆さんの中には、「誰が何と言おうと、政府の所在地で政治・経済の中心地は東京なのだから、東京が首都である事に変わりが無い」と仰る方もおありでしょう。では、徳川時代の「首都」もやはり、京都では無く江戸だったと言うのでしょうか? なぜなら、江戸も徳川時代、幕府(政府)の所在地として政治の中心地だった訳ですから・・・。しかし、江戸は「首都」とは呼ばれませんでした。政治の中心地であったにも関わらず、「首都」はあくまでも京都でした。この様に見てくると、日本の「首都」の定義は、極めて曖昧なものと言えます。いや、そもそも日本人は、源頼朝が初めて将軍となり幕府を開いて以来、「政治の都」(鎌倉・安土・大坂・駿府・江戸)と「儀礼の都」(京都)と言う「展都」体制に慣れ親しんできたせいか、「首都」に対する厳密な定義を必要としなくなったのかも知れません。

2009年(平成21年)現在、日本の首都を直接定める現行法令は存在しない。

2009年2月11日水曜日

紀元節

         紀元節
一、
  雲にそびゆる髙ちほの髙ねおろしに艸も木も
  なびきふしけん大御世を仰ぐけふこそ楽しけれ
二、
  うなばらなせるはにやすの池のおもよりなほひろき
  めぐみのなみにあみし世を仰ぐけふこそたのしけれ
三、
  天つひつぎの髙みくら千代よろづに動きなき
  もとゐ定めしそのかみを仰ぐ今日こそたのしけれ
四、
  空にかがやく日の本の萬の國にたぐひなき
  國のみはしらたてし世を仰ぐけふこそ楽しけれ


建国記念日など馴染めない

紀元節を祝いましょう

2009年2月10日火曜日

こ奴等(アンジェリーナ・ジョリー)


女優で慈善事業家としても知られるアンジェリーナ・ジョリーが4日(水)、タイ政府に対しミャンマー難民の自由を求める要請を行った。
タイのミャンマー国境にある9つのミャンマー難民キャンプには、約20年前から軍事政権への反対派の人々が避難し、現在約11万1000人が暮らしているといわれる。

 国連難民機関の親善大使を務めるジョリーは同日、1万8000人余りが生活するタイのBan Mai Nai Soiにある難民キャンプを訪れた。その際、キャンプで暮らす難民たちが自由と教育を得るためのさらなる支援を行ってほしいとタイ政府に要請した。その理 由として、難民たちがミャンマーへ帰れる見通しが立っておらず、キャンプで生活しながらより自立した生活をおくれるよう協力する必要があることをあげてい る。

 ジョリーは、「難民キャンプで生まれたという21歳の女性に会って、とても悲しくなりました。彼女は生まれてから1度もキャンプの外に出たことがなく、 今は自分の子どもをそのキャンプ内で育てています」と、声明文を通しコメント。寄宿学校に通う孤児たちとも話したが、ティーンエイジャーの少女たちはミャ ンマーへ強制送還されることを恐れていたという。「タイへの入国許可の手続きを早められるように、タイ政府と協力体制をとりたいと思っています。そうすれ ば、ミャンマーが危険な状態であるうちは、強制送還されるようなことはなくなります」と少女たちに告げたという。

 国連難民高等弁務官によると、ミャンマーのKayahで激しい抗争が起こった2006年から2007年にかけて、タイ政府は約5000人のミャンマー難民を受け入れたが、その後も少数の難民が常に避難を続けているという。



こ奴等(アンジェリーナ・ジョリー)は偽善者でありこんな奴等の術中に嵌ってはならない、その国の事情があり、その様な事も分からずして話しているわけで、こんなプロパガンタに騙されてはならない。
タイに来る前には日本にいた訳であるから、なぜ日本政府に難民の受け入れを訴えなかったのか、これだけでこ奴等が偽善者であることが分かる。
この様な事を真剣に考えているのであれば、国連の統計ぐらいは見なさい。
私は日本政府に受け入れを強要する者ではありません。しかしながら統計を見れば明々白々の事実がそこにあるわけです。

あなた達はこんな記事と同等に扱ってやろう

台湾

【 巨漢の訴えを認めず不起訴処分に 】
身長186センチの男性が男に無理やり2回にわたりフェラチオされたと訴えていた事件で、士林地検は、被害者は加害者による愛撫を拒否せず、助けを求めたり立ち去ることもしなかったとして不起訴処分にした。被害者は風邪で頭が痛く反抗できなかったとしているが、検察官は、被害者は加害者よりも巨漢で力に勝り、他の部屋にも人がおり、助けを求めることは十分できたとした。

2009年2月8日日曜日

2月9日 ワンマーカブチャー (万仏節) Makha Bucha Day


タイの朝は僧たちの托鉢によって始まる。愉楽に騒ぐ熱帯の夜の名残りと、新たな一日の光が生起する豊饒への胎動との境目に、密か目と祈りが流れ出る。合掌した手の熱い思いから、あたかも一瞬一瞬紡ぎ出される奇跡のように、生きとし生けるものの時間が動き始める。
裸足の僧と、裸足で食物を捧げる叙の、大地を通した交歓のなかに、洗われる心が光る。「サバーイ チャイ」という内面の輝きの美しさを、タイの人々は生れながらに具備している。祈りの溶け合うそこに、タイの朝がある。

タイ人は朝托鉢に来る僧侶に食物を捧げる。また、誕生日には早朝から寺へ行って捧げ物をする。これらも、幼少の頃から一つの習慣として受け入れられていくものである。「徳を積む」ことを社会と人生の価値観として学んでいく。「ナーム チャイ」(水の心=怦、)とか、「サバーイ チャイ」(心がすっきりする)とか、精神の清らかさやさわやかさを表す言葉が、日常のなかに息づいている。

3大仏日
 ワンマーカブチャー (万仏節) Makha Bucha Day
万仏節は、釈迦がいる寺院に悟りを開いた釈迦の弟子(阿羅漢)1250名が偶然、一堂に会した日であり、また、釈迦が入滅する3ヵ月前に自分の入滅を予見した日でもあります。

 ヴィサカブーチャー(仏誕節)Visakha Bucha Day
 ワンアーサーラハブチャー(三宝節)Asalha Bucha Day



【 馬総統の姉の会社に罰金 】
法務部政風司は旧正月前に馬英九・総統の姉が勤務していた中国化学製薬公司と子会社の裕民公司に1億4000万元の罰金を科した。馬総統が台北市長をしていたときに市立病院の薬品入札にかかわる「公務員利益衝突回避法」に違反すると判断されたため。当時、馬総統の姉は中国化学製薬公司の副総経理を勤めこの法律に引っかかった。中国化学製薬は「入札は馬市長が就任する以前から参加しており、姉は営業ではなく、研究開発部門担当で入札には関与していなかった」として行政訴訟する方針。

【 憲兵隊に今も残るハーレー 】
憲兵隊のオートバイ連隊は40年の歴史を誇る。初代から第3代目まではハーレーダビットソンが使われた。すでにハーレー本社にも保存されてなく、高価買い入れが打診されたが、断ったこともある。憲兵史蹟館が完成すればここに4代目までのハーレーを展示する予定。4代目はヤマハ製に替わっている。憲兵隊オートバイ連隊のパレードは国慶節になくてはならない出し物となっている。オートバイ部隊はパレードだけでなく、実戦にも対応し、訓練している。

【 亜東関係協会会長に実業家の彭栄次氏 】
対日本窓口関係機関である亜東関係協会は5日の理事会で、新会長に実業家の彭栄次氏を選出した。彭氏は李登輝・元総統の側近として知られ、日本の政財界と深い関係にあり、2001年4月に李氏が総統退任後初めて訪日を果たした際は、日本側との交渉にあたったといわれている。同協会会長に実業家が起用されたのは初めて。

ミャンマー

ミャンマーで自宅軟禁状態である民主化のリーダーのアウン・サン・スー・チー氏は国連の使節に対し、政治犯の開放がされない限り軍事政府との面会をしないようにと伝えた。同氏はIbrahim Gambari氏に対し、政治犯への厳罰などを例に出しミャンマー政府が法を遵守していないと述べたが、Gambari氏は依然としてミャンマーの軍事政権と抵抗勢力との間での和解調停を進めたい方針である。19年間に渡って自宅軟禁にあるスー・チー氏は、Gambari氏が最後に尋ねてきた8月に彼がビルマの軍事政府から何も譲歩を勝ち取れなかったことを激しく非難した。(BBC)

北朝鮮 (DPRK)

国連人権問題対策の専門家は北朝鮮に対し、1970年代後半から80年代前半における日本人拉致問題に対し真剣な調査を実施するように勧告した。正式に拉致されたと認定されている17名のうち5名が既に返還されているが、残りの12名のうち8名は既に死亡、4名は認知していないとしている。国連の特別担当官は北朝鮮における人権問題を鑑みて、新潟県などで拉致されたとされている拉致被害者の探索に真剣に取り組み、生存者がいる場合は本国に即刻返還しなくてはならないと強調した。(UN)

キルギスタン

キルギスタンは、同国領土内の米空軍基地の閉鎖を求めているが、これは米国政府が基地の使用料増額に関する話し合いに応じないためであるとし、クルマンベク・バキエフ大統領が議会に法案を提出した。同法案が採択された場合、米国は180日以内に基地を閉鎖しなければならない。同大統領は2月3日にモスクワで声明を出したが、そのモスクワで、同大統領に対しロシアからの15億ユーロを上回る援助が約束された。キルギスタンの米大使館は、契約更新の話し合いは継続しており、閉鎖の発表には驚いたと話している。キルギスタンの米空軍基地はアフガニスタンに展開するNATO(北大西洋条約機構)軍への補給拠点として使用されている。(オランダ放送)

ウクライナ

国連の最高司法機関は、セルパン島(黒海にある岩礁)の所有権はウクライナにあるが、炭化水素が豊富であると見られている海底の所有権まで、同国に与えられないとの判決を下した。ウクライナは領海線画定をめぐりルーマニアと数十年もの間、紛争を続けてきた。国際司法裁判所(ICJ)は、両国間の海上境界線の中間地点を確認し、係争海域の約8割をルーマニア領海と認定する判決を言い渡したが、同判決に関し、陪審員は全員一致の評決を出し、両国も納
得しているようだと、2月3日に国連のスポークスマンは述べた。(国連)

イラン

欧米の主要国は、イランが初の国産人工衛星を軌道に打ち上げたことに関し、深刻な懸念を表明している。イランは、サフィル2ロケットを搭載した同衛星の目的は研究と通信であり、平和的に利用されると主張している。しかし、米国、英国、フランスは、衛星打ち上げに使用された技術により、弾道ミサイルの開発も可能であるとの懸念を表明している。打ち上げが行われたのは、イランの核開発問題を協議するための6カ国高官会合が開催される前日であった。欧米の数カ国は、イランが核爆弾を製造しようとしているとみており、イランは国連の制裁を課せられることとなる。(BBC)