2012年6月29日金曜日

大使館からのお知らせ


タイに渡航を予定されている皆様へ
                        (2012年6月27日)

例年、夏季休暇シーズンに数多くの邦人の方がタイに観光などで渡航されておりますが、残念ながら、犯罪やトラブルに遭遇する方々が散見されております。せっかくの貴重な海外体験を楽しく豊かな思い出とするためには、安全面の対策などがますます重要となります。当館と致しましても、皆様の当地での滞在をよりよい思い出として頂くとの意味から、当地滞在にあたっての留意点及び最近よく起きている犯罪被害や各種トラブルに関する事例を以下のとおりお知らせしますので、当地での滞在にあたり参考としていただければと思います。
なお、当館ホーム・ページ上の「タイでの安全のしおり」(平成23年度版)においても、タイにおいて事件や事故に巻き込まれないために留意すべき事項などをまとめておりますので、こちらも参考にしてください。        

1.旅券の管理について
(1)旅券を紛失した又は盗難された場合には、当館において申請に基づき「旅券」又は「帰国のための渡航書」(以下旅券等)を発給することとなりますが、旅券等の交付後にはタイ入国管理局においてタイ入国印の転記手続を要します。
(2)特に帰国便が差し迫っている場合にはタイ入国管理局における手続の関係で予定どおり帰国することができなくなることがあり、フライト便の変更及びホテル延泊などで、予期せぬ経済的負担を強いられる状況にもなりかねませんので、旅券の管理など十分に注意してください。

2.海外旅行傷害保険について
(1)トラブル防止のためにいくら注意を払っても、事故や事件に巻き込まれないとは限りません。また、海外では日本と違う環境でのストレスや疲労により、思いがけない病気にかかる可能性もあります。
(2)特に海外で入院・手術などが必要となった場合には、医療費は非常に高額となる事例が多いので、そのような事態に備え海外旅行傷害保険に加入することをおすすめします。

3.たばこの不法持込みによる摘発
(1)タイ物品税局では、たばこの不法所持、不法持込みについての摘発を強化しており、違反者に対して高額な罰金(20115月現在1カートン当たり4,675バーツ。日本円で約12300円。)を科しています。
(2)実際に、不注意に1カートンを超える免税タバコを持ち込もうとして、税関検査で摘発され、全てのたばこの没収及び高額な罰金を支払わざるを得ない事例が多発しています。免税たばこの持込みは、1人につき1カートンまでとなっていますので、一人の人がまとめて購入したり、所持したりしないよう十分注意が必要です。税関検査を受ける前に持込み制限を越えるカートン分は必ず放棄してください。スワンナプーム空港の税関のカウンター前に回収ボックスが設置されております。

4.自称シンガポール人又は韓国人女性による詐欺事案
(1)場 所:スクンビット地区、シーロム地区、カオサン通り
(2)手 口:盗難被害に遭ったと英語で話し掛け、同情を買い、お金を騙
し盗る手口です。なお、詳細については、1月19日付の当館発のお知らせをご参照下さい。万が一被害などにあった場合には最寄りの警察に通報するとともに、援護が必要とされる場合には末尾に記しました問い合わせ先までご連絡ください。

5.睡眠薬強盗・いかさま賭博
(1)場 所:カオサン通り、王宮周辺及びスクンビット(アソーク近辺)
(2)手口:自称マレーシア人,韓国人等(国籍、男女別、人数は様々)から「今度、日本へ伯母が日本へ行くので、日本の事を教えて欲しい」などと突然声(英語、日本語混じり)を掛けられ、自宅と称する場所等(飲食店の場合も有り)に誘われる。そこで、飲食を共にする中、飲み物等に入れられた睡眠薬で昏睡状態になったところで金品等を奪う手口です。又は、最初は遊びでトランプゲームを勧められる中、勢いでお金を賭けるように仕向け、多額の現金を騙し盗ります。

6.窃盗被害等
(1)場 所:サイアムスクエア付近
(2)手 口:トゥクトゥクに乗車して移動中に後方から近づいたバイクに乗った者が膝の上に置いてあったバック等をひったくり逃走する手口です。
 
 7.宝石店又はスーツ仕立店とのトラブル
 (1)場 所:王宮周辺、カオサン通り
(2)概 要:タイ人男性に「良い観光スポットがあるから」と声を掛けられトゥクトゥクに乗せられます。観光案内の後に、「この近くに良いお店があるから」と『宝石店』又は『スーツの仕立て店』に連れて行かれ、相当額の宝石の購入又はスーツの仕立てを強く勧められ、断ることができずに購入してしまいます。後になって購入したものが粗悪品であることが判明します。

8.レンタルバイク又はジェットスキー業者とのトラブル
(1)場所:リゾート地(パタヤ、プーケット島及びパガン島など)
(2)概要:レンタル業者にバイク又はジェットスキーを返却する際に「傷を付けた」、「破損させた」として高額な修理費を請求され業者との間でトラブルとなります。また、損害保険に加入している業者が少なく、万が一事故を起こした際には高額な修理費の支払いを求められます。なお、当地での運転に関しても運転免許証または国際運転免許証が必要であり、仮に無免許による事故を起こした場合には保険の適用が受けられず高額な医療負担を強いられます。

9.万引き
空港の免税店等において、日本人が万引きで逮捕される事例が時折報告されています。タイにおいては、万引きに対し厳しく対応しますので、たとえ小額商品であっても警察に引き渡され、裁判が行われるまで3か月程度拘置所に収監されることとなります。裁判の結果、数か月から数年の禁固刑を言い渡される場合もあります。


(問い合わせ先等)

○在タイ日本国大使館領事部
   電話:(66-2207-8502696-3002(邦人援護)
   FAX :(66-2207-8511

○在タイ日本大使館ホーム・ページ




2012年6月25日月曜日

O四金物(マルヨンかなもの)

震洋特攻隊


二次大戦中の「震洋特攻隊」基地、新北市で発見

(台北 24 中央社)中華民国の最高監察機関・監察院が23日、台北の近郊・関渡に二次大戦中の旧日本海軍の「震洋特攻隊」基地があったことを確認、新北市政府に「史跡保存」を要請している。台湾紙「中国時報」が24日付けで報じた。

監察委員3名が2010年に離島の澎湖で日本軍が残した弾薬庫を調べた際、意外に「震洋特攻隊」基地の遺跡を発見し、今まで澎湖の西嶼と望安、高雄の左営、屏東の車城と合計4か所が確定されたが、新たに淡水の近くにある関渡にも基地の遺跡が発見された。

調査をした李炳南委員は23日、媽祖を祀る「関渡宮」の左後方向の麓で、「震洋特攻艇」の格納壕3カ所が発見されたことを明らかにし、新北市当局に遺跡の再建と保存を要請すると述べた。

「震洋特攻隊」は日本が敗戦1年前の1944年に編成された。特攻艇は長さ5メートル、幅1.2メートル、自動車用のエンジンを使用、250キロ爆弾を積むスピードボートで、一人で操縦、時速25ノットでアメリカの戦艦に体当たり、撃沈するのが目的だった。

しかし、「震洋特攻隊」は編成後、訓練は実施されたが、実戦に参加する前、日本が1945年(昭和20年)815日に無条件降伏し、幻の特攻攻撃となった。


中央社日本語版 Taiwan Today 2012/06/24


2012年6月22日金曜日

大使館からのお知らせ


反独裁民主戦線(UDD)によるデモ集会等について
(6月21日現在)

1.治安当局等によれば,反独裁民主戦線(UDD:通称「赤シャツ・グループ」)は,
立憲革命80周年を記念し,以下のとおりデモ集会等を行う模様です。

●日  時 6月24日(日)10時~24時
●場  所 ラーチャプラソン交差点及び民主記念塔、デモ行進順路は下記参照
●人  数 1万人以上が参集する可能性有
●デモ概要 ・10時~12時,ラーチャプラソン交差点にてデモ集会を行う。
・12時~17時頃,車両に分乗してラーチャプラソン交差点を出発し,民主記念塔を
目指しデモ行進を行う。

【順路】

・ラーチャプラソン交差点→ペッブリー通り→(クロンタン経由)→ラムカムヘン通り
→(バンカピ経由)→ラップラオ通り→パホォンヨーティン通り→(戦勝記念塔経由)
→ラーチャテーウィー通り→(国会議事堂前経由)→ラーチャダムヌーン通り→
民主記念塔
・17時頃(デモ行進が民主記念塔到着時)~24時,民主記念塔においてデモ集会
を行う。

2.つきましては,上記1.のとおり,UDDによるデモ集会及びデモ行進の影響により,同
集会及び行進が実施される周辺においては交通渋滞や人の混雑が予想されますので,
報道等から最新情報の入手に努めるとともに,同集会が実施される周辺に近づく場合に
は,十分に注意を払ってください。


(問い合わせ先)
○在タイ日本国大使館領事部
 電話:(66-2207-8502696-3002(邦人援護)
 FAX :(66-2207-8511

2012年6月18日月曜日

ナガランド



ナガランドとは、ミャンマーと国境を接するインドの最東端。

ナガランドを中心に住むナガ人は、チベット=ビルマ系の言葉を話すモンゴロイド系民族で、人口約300万人。一部はミャンマー領内にも住んでいる。数十年前までは「男は首狩りをしないと結婚できない」という民族だったが、20世紀に入ってキリスト教の宣教師が盛んに布教をし、現在ではほとんどがキリスト教徒になっている。

19世紀、インドとビルマの植民地化を推し進めるイギリスに対しても、ナガは激しく抵抗した。マスケット銃を装備したイギリス軍に対して、槍や山刀で村を守ろうとする人々。100年に及ぶ戦いでも、イギリスはついにナガの地ナガランドを完全に支配することができないまま、植民地放棄のときを迎える。しかしイギリスは撤退に際し、ナガランドをインド・ビルマへと一方的に割譲した。イギリスが地図上に引いた身勝手な一本の線は、後にインド・ビルマ"国境"としてナガランドを大きく二分するものとなった。

ナガランド独立のきっかけとなったのは、日本軍のインパール作戦だ。1944年、日本軍は「ビルマからインドへ攻め込めば、英国の植民地支配にあえぐインド人大衆が合流して戦局を一気に好転できる」と、当時から一部無謀だとも言われたインパール作戦に突入。マレー半島などで日本軍に投降した英軍インド兵を「インド国民軍」に再編して日本軍に同行させた。そして3月にはインパールとともにナガランドの中心地・コヒマまで到達した。この時、ナガ人たちは日本軍を「解放者」と見て協力する者もいれば、英軍に協力して抵抗する者もいたが、後にナガ民族評議会(NNC)の議長となるピゾは、インド国民軍を率いていた自由インド政府のチャンドラ・ボースと接触し、「インド解放の後にはナガランド独立を認める」との約束を得て日本軍に協力した。

「ナガランド独立」を約束したチャンドラ・ボーズは飛行機事故で亡くなり、NNCは「インド独立の父」ガンジーと会見するが、イスラム教徒の分離独立に猛反対しパキスタンを含めた統一インドの独立を主張していたガンジーには、ナガランドの独立なんてトンでもないと諌められてしまう。

こうして孤立無援となったNNCは、インド独立の前日、1947年8月14日にナガランド独立を宣言したが、国際的にはまったく無視された、それが国際的に顧みられることはなかった。

ナガはその後もインド総選挙のボイコットや、自主的な住民投票で9割が独立を主張するなど、平和的手段で強制併合への異を唱え続ける。これに対するインドの答えが、大量の軍・警察の派遣による徹底的な武力弾圧だった。「文明的に遅れた人々を支援する」とインド建国の父、ネルーはこの軍事作戦をそう説明した。

インド軍はナガランドに近代兵器を持ち込み、ナガのアイデンティティの基盤である村を徹底的に焼き払った。1955年からの3年間だけで645ものナガの村が焼かれ、村人たちはなすすべなく山中へと逃げ込んだ。掃討作戦に怯えてジャングルを逃げまどう生活は続き、戦闘や飢餓、病気などにより、この時期だけで10万人ものナガの命が奪われたといわれている。

そこでは軍による弾圧が日常的に行われた。抵抗する男たちに対して投降を呼び掛けるため、見せしめとしてその家族が拷問にかけられ、悲鳴が連日のように各村一帯に響き渡っていたという。女性に対する性的暴行、繰り返される拷問と虐殺。農作業に出ることさえ許されず、村はおのずと飢餓にあえぎ、体力のない者から順に命を落としていった。

 しかし当時のこうした惨状が、世界に伝えられることはほとんどなかった。インドはナガランドを「立ち入り制限地域」として民間人の入域を厳しく制限し、その実情が外部に漏れることを防いでいた。ナガ側はあらゆるルートを通じてイギリス、国連などに窮状を訴え、介入を促す嘆願を続けたが、それらが顧みられることはついになかった。

 独立運動の母体となったナガ民族評議会(NNC)の倉庫には、インド軍による弾圧の詳細な記録が今も眠っている。決して聞き届けられることがなかった、ナガの村人たちの悲鳴。それらを「ナガ側の一方的な主張」と切り捨てることはできない。今日に至るまで事実を意図的に隠蔽し続けているのは、他ならぬインド政府自身だからである。

1997年、ナガの全武装組織がインド政府との停戦に応じ、以後インド軍による大規模な軍事作戦は影を潜めている。しかしインドによる軍事制圧状態と、にらみ合うナガ独立運動組織という構図は今も変わっていない。

また、ドラッグ禍も現在ナガの若者の間で深刻な問題になっている。ビルマ領からマニプル州を経て、大量の麻薬がナガランドに流入しているが、これは「インド軍や政府関係者が裏で糸を引いている」と言われている。独立運動組織が検挙する麻薬は大麻樹脂、ヘロイン、化学合成薬品と多岐にわたり、量も一度に数百キロにおよぶこともある。延々と続く紛争状態に失望した多くの若者がドラッグに手を染め、またそれによってインド軍に操られているのだという。

独立したいと言う気持ち、またインド人に搾取されていると言う気持ちはナガの人たちは誰しもが持っている。しかし近年ナガランド州、及びマニプール州は入域制限も解け外国人でも何処にでもいけるようになった。特にナガランド州は観光に力を入れたいという気持ちが其処彼処に見える、インフラさえ整えばナガランドの潜在能力はかなりあると思うのである。

そしてナガの人々は我々日本人に親近感を持っている、同じモンゴロイド系ということでインド人よりはるかに日本人に似ているのだ。ナガランドにいるとインドにいることを忘れてしまうのだ。



一部ナガランド連邦より抜粋
http://www.geocities.jp/keropero2003/syometsu/naga.html

2012年6月17日日曜日

コヒマからディマプールへ



多少スケジュールの変更はあったが旅の行事もすべて終わり、本来ならばこの日はディマプールに宿泊の予定だったのだが移動をせずにコヒマに泊まった。

最後の夜は直会と言う事でホテルのロビーを早々に占拠した。

アメリカ人とイギリス人の宿泊客もいたので一様お誘いはしたが、結構ですと言うことだったので我々だけの直会となった。

ここでホテルを紹介したい、このホテルに泊まった理由は実は昨年泊まったホテルが予約が取れなくて、何処も此処も一杯だったのである、インパールのホテルも実は予約が取れていなかったのだが無理を言って無理矢理空けてもらったと言う経緯があった。
無理矢理と言うのが他のホテルには泊まりたくなかったと言う理由もある、此処で理由は書きませんがインパールに行けばわかります。


コヒマのホテルであるが名前は「Razhu Pru」見た瞬間は「何だよゲストハウスかよ」、また非常に古く、聞いたところによると70年前に建てられたと言う、おそらくは別荘か民家として建てたのではないかという雰囲気であった、しかし中に入ったら居心地がいいのである、正直に言えば他の方はどう思われたかわかりませんが、昨年泊まったホテルよりもアットホームで従業員が控えめで親切なのである、と言うう事で今後コヒマの常宿が決まった。

 ホテルRazhu Pru
Naga Village Road, Kohima 797001, India

次の日はコヒマからデイマプール空港へ向かうことになった、デイマプールは初めてだったのでコヒマに着いた時、ホテルの従業員にデイマプールまで何キロくらいか聞いていた

「そうですね70キロくらいですかね」
峠の檳榔売りの親父朝っぱらから酔っ払っていた

大して時間はかからないだろうと思っていたのが大間違い、3時間ほどかかってしまった、ドライバの運転にもよるのだが、確かにドライバーは檳榔を噛みながら酔っ払っていた、途中で運転を代わってやろうかとも思ったが、時間に余裕があったのでそのままにしておいた。

デイマプール空港は小さくて何処の空港にも例え様がないくらい人がいませんでした。
がしかし警備だけは厳戒態勢でした。




2012年6月15日金曜日

コヒマカトリック大聖堂



コヒマには、日本のコヒマ戦生存戦友会、また遺族などがお金を出し合って建てたカトリックカテドラルがある、戦没した日本、イギリス、インドの全ての兵士の冥福を祈ったのだ。それは見事な大聖堂で収容人員は約3000人、また内側などもすばらしく、ジーザスの十字架は一本の木で作ってあるそうだ、何故そんな事を知っているかと言うと、説明してもらったんです、係りの方に。
カテドラルの中小さく見えますけどジーザスは3-4メートルあったんではないでしょうか

係りの方がどちらからお越しですか?

はい、日本から来ました。

そうですか、横に此処を建てた 奉納趣意書 がありますので見てくださいと案内された。



奉納趣意書

一九四四年の春、ここコヒマでは、ガリソン高地の争奪に日・英両軍が鎬を削って戦い、彼我合わせて数千の将兵が、祖国の為に死んで逝きました。

“君、故郷に帰りなば伝えよ
  祖国の明日の為に死んで逝った
    われらのことを“

ガリソン丘にあるこの碑文は、亡くなった日・英・印全将兵に共通の想いであり、そして彼らが願った「祖国の明日」とは、平和と繁栄に満ちた祖国だったと確信します。
しかしいまや世界は狭くなり、世界の平和なくして祖国の平和も繁栄も有り得ません。私たちはお互に国境を越えて共存共栄に努力することが大切であり、これが引いては、亡き勇士達の願いに応える事にもなりましょう。
このたび、カトリックの聖堂がコヒマに建立され、朝夕亡き勇士にミサを捧げてくださることは誠に有難いことです。又、地元の皆様が司教様と一緒に末永く往時の勇士を偲んでくだされ、彼らが願った平和と繁栄の為に精進くださるならば、これに優る供養はございません。
玆に、私達生き残り戦友並びに遺族相諮り、聖堂建立資金を集めて奉納する次第です。

合掌

一九八九年一月吉日

  日本国
    コヒマ戦生存戦友
    同 戦友者遺族  一同


そしてその横にはなんと桜が咲いていたのである、5月25日である、当に散っているはずの桜が、日本の桜ではないのではないか?

いや間違いなく日本の八重桜だ。

係りの方に聞いたら、このカテドラルを建てた時に同じく日本の桜を回りに100本ほど植えたのですよと言う返事だった、しかし係りの方も首をかしげながら毎年4月に咲き、既に散っているはずなのですがね、と言っていた。

我々はこれに感動し、英霊が間違いなく待っていてくれたのだと勝手に思い込んだ次第であった。

地理的に行けば日本軍はマオサンソン方面からコヒマに到着し此方の高地を占領したのだと思われる、インパール作戦記やコヒマ戦等を読んでも現在のどの位置かは中々判らない。

ウ号作戦によるインド方面戦死者、烈師団は1万1500名、弓師団1万2500名、祭師団1万2300名、内2万名以上のご遺骨が未だご帰還叶わず現地に埋もれている、現在ナガランド州もマニプール州も入域制限も解け比較的治安も安定している、この様な時にいっきに大規模に捜索をしなければ何時遣ると言うのだろうか、日本政府は本気で探す気があるのだろうか、時が経つのを待って有耶無耶にするつもりではなかろうか、日本人全ては考えなければならない「有耶無耶にしたならば日本人ではなくなるのである」現在の日本の繁栄は万斛の想いを胸に秘めて散った英霊の上にあるのです。
日本合衆国にでもなればそれは探さなくてもいいでしょう、しかし日本が日本である以上は最後の一体まで探さなければならないと言う事なのである。それが判らなければ日本人をやめて下さい。





2012年6月13日水曜日

ギャリソン高地


英印軍墓地
When you go home,
 tell them of us and say for you tomorrow
 we gave our today

日本軍はコヒマを占領したと考えたが,実は,そこはコヒマの一角であり,ディマプールからインパールに連なる自動車道路を完全に遮断するには,英軍陣地のあるコヒマ南西の三叉高地を確保する必要があった。英インド軍は,谷間のコヒマから撤退し,南西の三叉高地に防衛線を張った。第5インド師団の第161旅団の増援を受けたコヒマの英インド軍は,兵力3000人で,頑強な抵抗を示した。

1944年4月17日,第十五軍司令官牟田口中将は,第三十一師団「烈」佐藤師団長に,天長節(4/29)までにインパールを攻略することを命じる一方,山砲大隊と歩兵3個大隊をインパール方面に転用を命令した。しかし,佐藤中将は,兵力の転用が不可能なことを伝えた。
現在の三叉路

烈兵団は,コヒマ南西の三叉高地を攻略できず,敵3個師団の攻撃,100門の火砲から11万発の放火を浴び苦戦中 であった。


ギャリソン高地は現在英印軍墓地になっておりますが、1944年4月この高地をめぐりん劇烈な白兵戦が日英軍によって行われた双方の戦死者数千に及んだ。

はっきり言って現在でも此処まで来るのに一苦労します、日本軍はそれをビルマから一ヶ月足らずで、迎え撃つ英軍もそれはビックリしたに違いありませんが、よくも此処まで来た者だと。

ギャリソンヒルには英印軍の慰霊碑しかありませんが、その一角に金網で囲い桜の木が植わっていました、おそらくまだ3-4年しかたっていないでしょう、インパール戦記にも出てきますが、このギャリソン高地には当時大きな桜があったそうです、おそらく日本の桜とは違いましょうが、戦友会の方が植えられたのでしょう、現在植えられているのは見る限り日本の桜の様でした。



2012年6月11日月曜日

コヒマ攻略作戦から転進まで



旧三又路激しい白兵戦が行われた、奥がギャリソン高地、手前が旧コヒマ村、右側が現在の英印軍墓地


烈 作命甲第六十四号軍隊区分
 
右突進隊         第138連隊 第3大隊(柴崎大尉隊長)

 歩 兵138連隊  (速射砲1分隊、無線2分隊、乗馬小隊の一部、作業隊の主力)
 山砲兵第31連隊  第1大隊の一中隊
 工 兵第31連隊 の一中隊(二小隊欠)
 輜重兵第31連隊  第1中隊の一部
 師団(無線二分隊、兵器勤務・経理・衛生の各一部・師団病馬廠の一部)
 第1野戦病院の半分、患者輸送第58小隊の一分隊、防疫給水部の一部
 印度国民軍情報隊の一小隊

中突進隊         第138連隊 連隊長 鳥飼大佐
 
 第138連隊     (右突進隊の第3大隊欠・速射砲分隊他)
 歩 兵124連隊   (速射砲中隊)
 山砲兵第31連隊 第1大隊(右突進隊の一中隊欠)
 工 兵第31連隊 の一中隊
 輜重兵第31連隊 第1中隊(右突進隊の一部欠)
 師団(無線一分隊、兵器勤務・経理・衛生の主力・師団病馬廠の一部)
 第1野戦病院の半分、衛生材料勤務の主力

左突進隊         第31歩兵団 団長  宮崎少将  第31歩兵団司令部

 歩 兵第58連隊 
 山砲兵第31連隊 第2大隊
 工 兵第31連隊 の一中隊
 独立輜重55中隊 
 師団(無線一分隊、兵器勤務・経理・衛生の一部・師団病馬廠の一部)
 第3野戦病院・ 患者輸送第58小隊の一部・衛生材料勤務の一部
 印度国民軍情報隊の一小隊

師団本隊         第31師団(烈) 師団長 佐藤幸徳中将  師団司令部

 歩兵第124連隊 (速射砲中隊欠)
 山砲兵第31連隊 (第1大隊・第2大隊欠)
 工 兵第31連隊 連隊本部二小隊
 独立輜重52中隊
 通信隊(無線四分隊欠)・経理の一部・衛生の主力・師団病馬廠(一部欠)
 第2野戦病院、患者輸送58小隊(一部欠)・防疫給水部(一部欠)

渡河作業隊    第5工兵隊  司令官 小林大佐    第5工兵隊司令部

 独立工兵第20連隊(1中隊と一部欠)
 渡河材料第13中隊・14中隊
 架橋材料第22中隊
 独立速射砲第1大隊 第3中隊の二小隊

師団輜重隊    輜重兵第31連隊 連隊長 野中少佐

 独立輜重54中隊
 衛生隊車両中隊・象輸送隊
総勢23139名(内師団15000名)


マニプール州からナガランドへ行く道、この道はいずれスーパーハイウエイにもなる道であり、かなり整備が行き届いている方なのである、その他の道はとんでもない道ばかり。

第31歩兵団 宮崎支隊

327

サンシャークを落とした宮崎支隊はインパールコヒマ道へと向かう

19年 3月30日
                 
烈)宮崎支隊コヒマを占領し、コヒマ~インパール間の道路遮断する

19年 3月30日
                 
英印軍の161旅団はコヒマにはいり、さらに1個大隊はトヘマに進出した。
 58連隊第1大隊(森本少佐)は数十台の車輌が一列に止まっているのを発見し、山の斜面から英軍に襲いかかり軽戦車4輌自動車約30輌を捨ててコヒマに敗走した。

19年 4月 3日

烈)宮崎支隊は コヒマへ偵察をだし、敵は一個旅団で奇襲に動揺中であった

19年 4月 5日  

英軍は後続軍団の到着見通しがつき、再度英印軍の161旅団はコヒマに進出した。
 山腹に英軍陣地が散見するコヒマの部落に第3大隊第11中隊(後任・寒河江中尉)到着。 南の第2大隊正面で激戦中と思われ第3大隊は南進し英軍宿舎のある新コヒマ部落・三叉路高地を占領した。

19年 4月 6日 
 
左突進隊長の宮崎繁三郎少将は佐藤師団長にコヒマ占領の報告をする
 烈)宮崎支隊はコヒマ占領は 270Km20日間で所定の目標を達成した。
 第2大隊は連隊本部と歩兵団司令部を同行し、連隊主力になっていたが第7中隊は歩兵団宮崎繁三郎少将の直轄になっていた。第6中隊は全滅、第5中隊は半減、

19年 4月 8日 
 
第2大隊(佐藤大隊)は第5中隊20名と大隊砲小隊と機関銃小隊だけになり、連隊長は通信中 隊約100名を佐藤大隊の指揮下にいれた。

19年 4月10日 
                
コヒマ戦線にたいして英軍は戦力を増強し、飛行機による爆撃と大砲の砲撃は連日で、あった。
 英軍はコヒマ南のジョツソマ高地と西のズブサ斜面に各100門を越える大砲が並べ砲撃した。
 南のジョツソマには第1大隊が進出したが大きな損害をうけた。
19年 4月中旬        
コヒマ三叉路高地に英軍戦車M3が出現した、第3大隊は対戦車火器を持たないので兵は爆雷を抱いて突進した。

19年 4月18日
                 
駄牛中隊から追及してきた兵団直轄の第4中隊は英軍の拠点夜襲を掛けるよう宮崎歩兵団長から命令があり、攻撃したが集中砲火にあい全滅した。 宮崎歩兵団長は58連隊でコヒマ三叉路高地現在地を固守する。

19年 4月23日
                  
宮崎歩兵団長はコヒマ三叉路高地の総攻撃を実施した。第138連隊の一部応援を得て、第58連隊第2大隊南正面から、第3大隊はテニスコート正面左断崖から一斉攻撃したが第9中隊第10中隊全員戦死した。ともに突入した第124連隊も全軍総退却に移る

19年 5月11日  
               
英軍は三叉路高地の西側の急斜面に戦車進入路が完成し、三叉路高地の宮崎歩兵団司令部や第58連隊本部・第2大隊は個々に攻撃され包囲分断された。

19年 5月12日 
                
宮崎歩兵団宮崎少将は指揮下の各部隊に三叉路高地から撤退し、南のアラズラ高地に移動させた。

19年 5月13日 
                
第3大隊が脱出が遅れたが、南のアラズラ高地は第124連隊が構築していた陣地に着いた

19年 5月30日
               
第3大隊の左翼をグルカ兵に突破され、大混乱となった。第124連隊の有吉中隊は有吉中隊長以下7名となった。

19年 6月 1日 
 
師団の指揮下を離れ、15軍直属になった宮崎支隊にもコヒマ撤退を命じた。

19年 6月 2日

英軍の爆砲撃に中、第58連隊第3大隊は司令部の位置まで到着した。

19年 6月 2日 
 
宮崎支隊はインパール街道をなるべく長くにわたり断ち切ることで、ビスエマ・マオソンサン、トヘマ・マラム・カロンと逐次防御する計画であった。 第124連隊の1個大隊と第58連隊の第1第5中隊と工兵連隊一部(約700名)

19年 6月20日
               
宮崎支隊のマラム防衛陣地は連合軍に突破され、戦車・装甲車・貨物自動車がミッションに南下してきた。

19年 6月20日 
                
最後まで踏みとどまったのが第124連隊の第1大隊(石堂少佐)だが、ついにマラムの拠点も突破され石堂隊バラバラに谷に逃げ、第58連隊の2個中隊生き残り35名(西田中尉)と患者が残された。
 英軍の戦車部隊を向かえ撃った。

19年 6月21日 
                
宮崎支隊は元来2個大隊に2個大隊を増加更に歩兵1個連隊(2個大隊欠)山砲1大隊(6門)それに祭師団右突進隊を指揮下に加わった。

19年 6月22日
             
英軍の機甲部隊はマラム(コヒマ=インパール)地点を破り戦車・装甲車・自動車を1000台余りをインパールに直進した。 殿の第58連隊(越後高田)限りない車輌の列に負けを実感した。
ギャリソン高地から見た現在のコヒマの風景右の山左の山にもこの様な光景が広がっておりますので人口もかなり多いのでは?


第31師団(烈)司令部 ( 第124連隊 )

19年 3月30日 
                
烈)宮崎支隊コヒマを占領し、コヒマ~インパール間の道路遮断する

19年 4月6日
    
  左突進隊長の宮崎繁三郎少将から佐藤師団長はコヒマ占領の報告を受け、第15軍司令部に報告した

19年 4月7日
 
コヒマ東方のチャカバマの渓谷の烈)師団司令部の佐藤師団長に左突進隊長(宮崎繁三郎少将)の連絡将校がきて、「コヒマ三叉路高地上に敵陣あり直ぐに処置します」の報告。 
 東条参謀総長・南方軍・ビルマ方面軍・第15軍から祝電が届いたが別に牟田口司令官から「直ちにディマプールに突入すべし」の命令が来たが、コヒマの戦闘が激しい状態であった。

19年 4月8日
 
 森)河辺方面軍司令官は牟田口軍司令官から烈)師団に「ただちにディマプールに突入せよ」と命令をだした報告をうけ、師団のディマプールに突入命令を撤回させた。

19年 4月17日
                 
師団長に牟田口軍司令官から
  「1・天長節までにインパールを攻略せんとす。
   2・宮崎繁三郎少将の指揮する山砲大隊と歩兵3個大隊をインパール正面に転進せしむ。
   3・兵力の移動は捕獲した自動車によるべし」
 の命令だがコヒマ三叉路高地にて激戦している最中であった。
   佐藤師団長は「兵力の転用は不可能なり」と拒否した。

19年 4月18日 
                 
師団長はやむなく攻勢から防御態勢に移し、戦線を後退させた。
 138連隊主力はコヒマ北方山稜に右地区隊配置、白石山砲連隊長は138連隊1個大隊124連隊の1個大隊は5120高地の守備を固め、宮崎歩兵団長は58連隊でコヒマ三叉路高地現在地を固守する。

19年 4月23日
               
宮崎歩兵団長はコヒマ三叉路高地の総攻撃を実施した。ともに突入した第124連隊も全軍総退却に移る

19年 4月24日
               
チャカバマ渓谷の烈)司令部にいた佐藤師団長はコヒマ三叉路高地総攻撃失敗報告を聞き、トラックでコヒマの戦場を望む場所に来て、散乱する敵の空中補給の落下傘の数で英軍の補給の大きな差をまざまざ知った。

19年 4月25日
               
佐藤師団長はチャカバマの師団司令部にもどり、烈)師団参謀長の加藤大佐以下幕僚を集め、 持久態勢の命令を下達した。

19年 4月29日
                 
牟田口軍司令官は佐藤師団長に「兵力の転用は不可能なり」と拒否し続けられ命令を中止した。

19年 5月15日 
                
 師団では糧食を経理部長以下経理部員が部落に調達に行ったが、軍票で籾まで取り上げていた日本軍に対し英軍は菓子や珍しい物をくれたんで、民心は日本軍から離反した。

19年 5月24日
                 
北コヒマの近くのチャカバマに師団司令部があり、中兵站地区司令官の高田清秀少将と軍参謀橋本中佐が佐藤師団長を訪ねた。 作戦開始以来糧食・弾薬の補給が一度もないが、高田兵站司令官には補給のできる方策はなかった。師団長は牟田口司令官に電報を送った。
烈)「兵団は戦うにも食はなく、武器弾薬も消耗し尽くした。六月一日までにコヒマを撤退し、補給を受けられる地点まで移動する。」と牟田口軍司令官に打電した
  林)「補給困難を理由にコヒマを放棄とは何事か。十日間は死守せよ。」
    烈)「撤退を認めぬなら、全員自滅する」
  林)「列は六月八日までに祭と交替シ、サンジヤックの西方へ展開完了後インパールを攻撃せよ」との打電
     佐藤師団長は、健康体でも20日はかかるのに餓死寸前の上一週間でいけとは何事か。撤退を決意した。
師団長のけんまくにおどろき中兵站地区司令官の高田清秀少将と林)軍参謀橋本中佐は烈の司令部を去った。

19年 5月30日 
                
烈)師団の傷病患者は約1800名、そのうち動ける者はそれぞれの部隊に帰し戦闘に参加させていた。
 兵站病院が補給が無い状態で進出してこないので兵団内部に患者をおいていた。

19年 5月31日
                 
第15軍の久野村参謀長から「烈師団は補給困難を理由としてコヒマを放棄することは何事か。
 十日間現態勢を確保せよ。師団長は英霊に対して何と思うか。以上命明に依り」の電報を受け、佐藤師団長は 返信した「軍参謀長の電報、確かに了解した。烈兵団に自滅せよとの意味成りとは解しない。コヒマ重要方面に参謀の派遣もないので、状況変化に応じて、独断で処理することを承知されたい」の電報の後、「右及び中地区隊はコヒマよりチェデマの線まで撤退せしむ」の命令をだした。
 
19年 6月1日
 
師団の指揮下を離れ、15軍直属になった宮崎支隊にもコヒマ撤退を命じた。 佐藤師団長は師団の幕僚に累をおよぼさないように自分が直接命令したものに印を付けた。
31師団(烈)は64日間コヒマで英軍と激戦を食糧弾薬の補給もなく続けていた。

19年 6月1日

烈師団はコヒマから単独退却をはじめた

19年 6月 2日 
 
15軍から「15軍は主攻方面をウクルル=インパール道に沿う地区に指向する。宮崎歩兵団長の指揮する歩兵4個大隊砲兵1個大隊を基幹としアラズラ高地及びカラソムを確保し、師団主力はウクルルに転進し、補給を実施後、第15師団左翼に連繋し、6月10日までにインパールを攻撃する準備すべし」の命令が届くが、軍事常識からとうてい無理な命令だったが、この命令で撤退を15軍は認めたことになった。
 佐藤師団長は「烈兵団は大勝利じゃ、前線の兵はご苦労であった元気に行軍してくれ」と勇気付け、雨の暗夜の泥道の行軍が始まった。(戦傷者約1800名)

19年 6月 2日

英軍の爆砲撃に中、第58連隊第3大隊は司令部の位置まで到着した。
 第124連隊の1個大隊は宮崎支隊として、インパール街道をなるべく長くにわたり断ち切ることで、ビスエマ・マオソンサントヘマ・マラム・カロンと逐次防御する計画であった。
 
19年 6月12日                 
英軍の追撃が無くなったる。師団は4梯団に分かれて行軍した。
19年 6月14日               
15軍の連絡将校能勢中尉が歩いて命令伝達に来た。命令は2日の実施不可能な命令であり、6月10日はもう過ぎていた。 ウクルルに糧食調達に行っていた師団主計小島少佐一行が戻ってきて報告「ウクルルに糧食は皆無、15軍は米一粒も集積していない、祭師団でも10日分の食糧しか調達できてない」糧食も弾薬もなく攻撃命令だけは届く、先頭がウクルルについても、食糧は無く殿軍の第138連隊はまだカラソムから動き出したとこだった。
19年 6月18日
               
祭師団村松連隊情報主任竹ノ谷中尉が来た。宮崎支隊長は「カンロで抵抗するのも622日が限界、後はミッションにさがる25~6日連隊長に検討を祈ると伝えてくれ」

19年 6月19日
                  
烈師団は、フミネに糧食120トンと靴4000足が集積されている 更に南下し補給する。ことを決意

19年 6月20日
                 
佐藤師団長は祭の司令部が途中のルンションの西2kmに有ることを聞いていたが、連絡を取らずにフミネに向かった

19年 6月21日
                  
佐藤師団長は方面軍と15軍に「師団はウクルルで何らの補給をも受けられず、作戦指導は支離滅裂、食うに糧なく、打つに弾なくインパールに攻略に向かわしめん軍令たるやおどろく、師団は補給が確実にできる地点まで移動する」電報を送った。 夜、佐藤師団長の司令部に林)軍参謀長と兵站参謀薄井少佐が面会に来たが一次拒絶したが、仕方なく会い、軍参謀長は師団長が出した電報を牟田口司令官に見せず携行していた。

19年 6月22日 
                
佐藤師団長は軍参謀長の通過を心待ちにしていたが寄らずにクンタンの軍司令部に帰った。

19年 6月23日
                 
軍から「師団は患者をフミネ兵站病院に残しミンタに集結すべし」の命令が来た。

19年 7月9日
 
 烈)各部隊は壊滅し、司令部はタナンに来て師団が困難なとき、林)軍から佐藤師団長に「ビルマ方面軍司令部付きに命ず」の解任の電報が届いた。

19年 7月10日
                  
林)軍から佐藤師団長に「後任師団長の着任を待つことなく」と追申がきた、日没とともに佐藤中将はタナンの司令部を出発した。師団長が去ったあとの師団は宮崎少将が指揮をした。
 第15軍の「後任師団長の到着を待つことなく、速やかに方面軍司令部に赴任すべし」の命令は引き継ぎなどしなくてもいいから早く居なくなれという命令であった。

19年 7月11日
               
第15軍のトラックが迎えにきた、軍司令部に行く途中、烈師団の加藤参謀長と常松軍医部長が師団の実情報告に行った帰りだった。
 烈師団の加藤参謀長は「軍司令官は前線視察で不在、幕僚も多忙で木下高級参謀の手紙が用意してある」また 常松軍医部長は「佐藤中将が神経衰弱であるという診断書を書くことを強要された」と報告をうけた。