2012年6月13日水曜日

ギャリソン高地


英印軍墓地
When you go home,
 tell them of us and say for you tomorrow
 we gave our today

日本軍はコヒマを占領したと考えたが,実は,そこはコヒマの一角であり,ディマプールからインパールに連なる自動車道路を完全に遮断するには,英軍陣地のあるコヒマ南西の三叉高地を確保する必要があった。英インド軍は,谷間のコヒマから撤退し,南西の三叉高地に防衛線を張った。第5インド師団の第161旅団の増援を受けたコヒマの英インド軍は,兵力3000人で,頑強な抵抗を示した。

1944年4月17日,第十五軍司令官牟田口中将は,第三十一師団「烈」佐藤師団長に,天長節(4/29)までにインパールを攻略することを命じる一方,山砲大隊と歩兵3個大隊をインパール方面に転用を命令した。しかし,佐藤中将は,兵力の転用が不可能なことを伝えた。
現在の三叉路

烈兵団は,コヒマ南西の三叉高地を攻略できず,敵3個師団の攻撃,100門の火砲から11万発の放火を浴び苦戦中 であった。


ギャリソン高地は現在英印軍墓地になっておりますが、1944年4月この高地をめぐりん劇烈な白兵戦が日英軍によって行われた双方の戦死者数千に及んだ。

はっきり言って現在でも此処まで来るのに一苦労します、日本軍はそれをビルマから一ヶ月足らずで、迎え撃つ英軍もそれはビックリしたに違いありませんが、よくも此処まで来た者だと。

ギャリソンヒルには英印軍の慰霊碑しかありませんが、その一角に金網で囲い桜の木が植わっていました、おそらくまだ3-4年しかたっていないでしょう、インパール戦記にも出てきますが、このギャリソン高地には当時大きな桜があったそうです、おそらく日本の桜とは違いましょうが、戦友会の方が植えられたのでしょう、現在植えられているのは見る限り日本の桜の様でした。



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