旧三又路激しい白兵戦が行われた、奥がギャリソン高地、手前が旧コヒマ村、右側が現在の英印軍墓地
烈 作命甲第六十四号軍隊区分
右突進隊 第138連隊 第3大隊(柴崎大尉隊長)
歩 兵138連隊 (速射砲1分隊、無線2分隊、乗馬小隊の一部、作業隊の主力)
山砲兵第31連隊 第1大隊の一中隊
工 兵第31連隊 の一中隊(二小隊欠)
輜重兵第31連隊 第1中隊の一部
師団(無線二分隊、兵器勤務・経理・衛生の各一部・師団病馬廠の一部)
第1野戦病院の半分、患者輸送第58小隊の一分隊、防疫給水部の一部
印度国民軍情報隊の一小隊
中突進隊 第138連隊 連隊長 鳥飼大佐
第138連隊 (右突進隊の第3大隊欠・速射砲分隊他)
歩 兵124連隊 (速射砲中隊)
山砲兵第31連隊 第1大隊(右突進隊の一中隊欠)
工 兵第31連隊 の一中隊
輜重兵第31連隊 第1中隊(右突進隊の一部欠)
師団(無線一分隊、兵器勤務・経理・衛生の主力・師団病馬廠の一部)
第1野戦病院の半分、衛生材料勤務の主力
左突進隊 第31歩兵団 団長 宮崎少将 第31歩兵団司令部
歩 兵第58連隊
山砲兵第31連隊 第2大隊
工 兵第31連隊 の一中隊
独立輜重55中隊
師団(無線一分隊、兵器勤務・経理・衛生の一部・師団病馬廠の一部)
第3野戦病院・ 患者輸送第58小隊の一部・衛生材料勤務の一部
印度国民軍情報隊の一小隊
師団本隊 第31師団(烈) 師団長 佐藤幸徳中将 師団司令部
歩兵第124連隊 (速射砲中隊欠)
山砲兵第31連隊 (第1大隊・第2大隊欠)
工 兵第31連隊 連隊本部二小隊
独立輜重52中隊
通信隊(無線四分隊欠)・経理の一部・衛生の主力・師団病馬廠(一部欠)
第2野戦病院、患者輸送58小隊(一部欠)・防疫給水部(一部欠)
渡河作業隊 第5工兵隊 司令官 小林大佐 第5工兵隊司令部
独立工兵第20連隊(1中隊と一部欠)
渡河材料第13中隊・14中隊
架橋材料第22中隊
独立速射砲第1大隊 第3中隊の二小隊
師団輜重隊 輜重兵第31連隊 連隊長 野中少佐
独立輜重54中隊
衛生隊車両中隊・象輸送隊
総勢23139名(内師団15000名)
マニプール州からナガランドへ行く道、この道はいずれスーパーハイウエイにもなる道であり、かなり整備が行き届いている方なのである、その他の道はとんでもない道ばかり。
第31歩兵団 宮崎支隊
3月27日
サンシャークを落とした宮崎支隊はインパールコヒマ道へと向かう
19年 3月30日
烈)宮崎支隊コヒマを占領し、コヒマ~インパール間の道路遮断する
19年 3月30日
英印軍の161旅団はコヒマにはいり、さらに1個大隊はトヘマに進出した。
58連隊第1大隊(森本少佐)は数十台の車輌が一列に止まっているのを発見し、山の斜面から英軍に襲いかかり軽戦車4輌自動車約30輌を捨ててコヒマに敗走した。
19年 4月 3日
烈)宮崎支隊は コヒマへ偵察をだし、敵は一個旅団で奇襲に動揺中であった
19年 4月 5日
英軍は後続軍団の到着見通しがつき、再度英印軍の161旅団はコヒマに進出した。
山腹に英軍陣地が散見するコヒマの部落に第3大隊第11中隊(後任・寒河江中尉)到着。 南の第2大隊正面で激戦中と思われ第3大隊は南進し英軍宿舎のある新コヒマ部落・三叉路高地を占領した。
19年 4月 6日
左突進隊長の宮崎繁三郎少将は佐藤師団長にコヒマ占領の報告をする
烈)宮崎支隊はコヒマ占領は 270Kmを20日間で所定の目標を達成した。
第2大隊は連隊本部と歩兵団司令部を同行し、連隊主力になっていたが第7中隊は歩兵団宮崎繁三郎少将の直轄になっていた。第6中隊は全滅、第5中隊は半減、
19年 4月 8日
第2大隊(佐藤大隊)は第5中隊20名と大隊砲小隊と機関銃小隊だけになり、連隊長は通信中 隊約100名を佐藤大隊の指揮下にいれた。
19年 4月10日
コヒマ戦線にたいして英軍は戦力を増強し、飛行機による爆撃と大砲の砲撃は連日で、あった。
英軍はコヒマ南のジョツソマ高地と西のズブサ斜面に各100門を越える大砲が並べ砲撃した。
南のジョツソマには第1大隊が進出したが大きな損害をうけた。
19年 4月中旬
コヒマ三叉路高地に英軍戦車M3が出現した、第3大隊は対戦車火器を持たないので兵は爆雷を抱いて突進した。
19年 4月18日
駄牛中隊から追及してきた兵団直轄の第4中隊は英軍の拠点夜襲を掛けるよう宮崎歩兵団長から命令があり、攻撃したが集中砲火にあい全滅した。 宮崎歩兵団長は58連隊でコヒマ三叉路高地現在地を固守する。
19年 4月23日
宮崎歩兵団長はコヒマ三叉路高地の総攻撃を実施した。第138連隊の一部応援を得て、第58連隊第2大隊南正面から、第3大隊はテニスコート正面左断崖から一斉攻撃したが第9中隊第10中隊全員戦死した。ともに突入した第124連隊も全軍総退却に移る
19年 5月11日
英軍は三叉路高地の西側の急斜面に戦車進入路が完成し、三叉路高地の宮崎歩兵団司令部や第58連隊本部・第2大隊は個々に攻撃され包囲分断された。
19年 5月12日
宮崎歩兵団宮崎少将は指揮下の各部隊に三叉路高地から撤退し、南のアラズラ高地に移動させた。
19年 5月13日
第3大隊が脱出が遅れたが、南のアラズラ高地は第124連隊が構築していた陣地に着いた
19年 5月30日
第3大隊の左翼をグルカ兵に突破され、大混乱となった。第124連隊の有吉中隊は有吉中隊長以下7名となった。
19年 6月 1日
師団の指揮下を離れ、15軍直属になった宮崎支隊にもコヒマ撤退を命じた。
19年 6月 2日
英軍の爆砲撃に中、第58連隊第3大隊は司令部の位置まで到着した。
19年 6月 2日
宮崎支隊はインパール街道をなるべく長くにわたり断ち切ることで、ビスエマ・マオソンサン、トヘマ・マラム・カロンと逐次防御する計画であった。 第124連隊の1個大隊と第58連隊の第1第5中隊と工兵連隊一部(約700名)
19年 6月20日
宮崎支隊のマラム防衛陣地は連合軍に突破され、戦車・装甲車・貨物自動車がミッションに南下してきた。
19年 6月20日
最後まで踏みとどまったのが第124連隊の第1大隊(石堂少佐)だが、ついにマラムの拠点も突破され石堂隊バラバラに谷に逃げ、第58連隊の2個中隊生き残り35名(西田中尉)と患者が残された。
英軍の戦車部隊を向かえ撃った。
19年 6月21日
宮崎支隊は元来2個大隊に2個大隊を増加更に歩兵1個連隊(2個大隊欠)山砲1大隊(6門)それに祭師団右突進隊を指揮下に加わった。
19年 6月22日
英軍の機甲部隊はマラム(コヒマ=インパール)地点を破り戦車・装甲車・自動車を1000台余りをインパールに直進した。 殿の第58連隊(越後高田)限りない車輌の列に負けを実感した。
ギャリソン高地から見た現在のコヒマの風景右の山左の山にもこの様な光景が広がっておりますので人口もかなり多いのでは?
第31師団(烈)司令部 ( 第124連隊 )
19年 3月30日
烈)宮崎支隊コヒマを占領し、コヒマ~インパール間の道路遮断する
19年 4月6日
左突進隊長の宮崎繁三郎少将から佐藤師団長はコヒマ占領の報告を受け、第15軍司令部に報告した
19年 4月7日
コヒマ東方のチャカバマの渓谷の烈)師団司令部の佐藤師団長に左突進隊長(宮崎繁三郎少将)の連絡将校がきて、「コヒマ三叉路高地上に敵陣あり直ぐに処置します」の報告。
東条参謀総長・南方軍・ビルマ方面軍・第15軍から祝電が届いたが別に牟田口司令官から「直ちにディマプールに突入すべし」の命令が来たが、コヒマの戦闘が激しい状態であった。
19年 4月8日
森)河辺方面軍司令官は牟田口軍司令官から烈)師団に「ただちにディマプールに突入せよ」と命令をだした報告をうけ、師団のディマプールに突入命令を撤回させた。
19年 4月17日
師団長に牟田口軍司令官から
「1・天長節までにインパールを攻略せんとす。
2・宮崎繁三郎少将の指揮する山砲大隊と歩兵3個大隊をインパール正面に転進せしむ。
3・兵力の移動は捕獲した自動車によるべし」
の命令だがコヒマ三叉路高地にて激戦している最中であった。
佐藤師団長は「兵力の転用は不可能なり」と拒否した。
19年 4月18日
師団長はやむなく攻勢から防御態勢に移し、戦線を後退させた。
138連隊主力はコヒマ北方山稜に右地区隊配置、白石山砲連隊長は138連隊1個大隊124連隊の1個大隊は5120高地の守備を固め、宮崎歩兵団長は58連隊でコヒマ三叉路高地現在地を固守する。
19年 4月23日
宮崎歩兵団長はコヒマ三叉路高地の総攻撃を実施した。ともに突入した第124連隊も全軍総退却に移る
19年 4月24日
チャカバマ渓谷の烈)司令部にいた佐藤師団長はコヒマ三叉路高地総攻撃失敗報告を聞き、トラックでコヒマの戦場を望む場所に来て、散乱する敵の空中補給の落下傘の数で英軍の補給の大きな差をまざまざ知った。
19年 4月25日
佐藤師団長はチャカバマの師団司令部にもどり、烈)師団参謀長の加藤大佐以下幕僚を集め、 持久態勢の命令を下達した。
19年 4月29日
牟田口軍司令官は佐藤師団長に「兵力の転用は不可能なり」と拒否し続けられ命令を中止した。
19年 5月15日
師団では糧食を経理部長以下経理部員が部落に調達に行ったが、軍票で籾まで取り上げていた日本軍に対し英軍は菓子や珍しい物をくれたんで、民心は日本軍から離反した。
19年 5月24日
北コヒマの近くのチャカバマに師団司令部があり、中兵站地区司令官の高田清秀少将と軍参謀橋本中佐が佐藤師団長を訪ねた。 作戦開始以来糧食・弾薬の補給が一度もないが、高田兵站司令官には補給のできる方策はなかった。師団長は牟田口司令官に電報を送った。
烈)「兵団は戦うにも食はなく、武器弾薬も消耗し尽くした。六月一日までにコヒマを撤退し、補給を受けられる地点まで移動する。」と牟田口軍司令官に打電した
林)「補給困難を理由にコヒマを放棄とは何事か。十日間は死守せよ。」
烈)「撤退を認めぬなら、全員自滅する」
林)「列は六月八日までに祭と交替シ、サンジヤックの西方へ展開完了後インパールを攻撃せよ」との打電
佐藤師団長は、健康体でも20日はかかるのに餓死寸前の上一週間でいけとは何事か。撤退を決意した。
師団長のけんまくにおどろき中兵站地区司令官の高田清秀少将と林)軍参謀橋本中佐は烈の司令部を去った。
19年 5月30日
烈)師団の傷病患者は約1800名、そのうち動ける者はそれぞれの部隊に帰し戦闘に参加させていた。
兵站病院が補給が無い状態で進出してこないので兵団内部に患者をおいていた。
19年 5月31日
第15軍の久野村参謀長から「烈師団は補給困難を理由としてコヒマを放棄することは何事か。
十日間現態勢を確保せよ。師団長は英霊に対して何と思うか。以上命明に依り」の電報を受け、佐藤師団長は 返信した「軍参謀長の電報、確かに了解した。烈兵団に自滅せよとの意味成りとは解しない。コヒマ重要方面に参謀の派遣もないので、状況変化に応じて、独断で処理することを承知されたい」の電報の後、「右及び中地区隊はコヒマよりチェデマの線まで撤退せしむ」の命令をだした。
19年 6月1日
師団の指揮下を離れ、15軍直属になった宮崎支隊にもコヒマ撤退を命じた。 佐藤師団長は師団の幕僚に累をおよぼさないように自分が直接命令したものに印を付けた。
第31師団(烈)は64日間コヒマで英軍と激戦を食糧弾薬の補給もなく続けていた。
19年 6月1日
烈師団はコヒマから単独退却をはじめた
19年 6月 2日
15軍から「15軍は主攻方面をウクルル=インパール道に沿う地区に指向する。宮崎歩兵団長の指揮する歩兵4個大隊砲兵1個大隊を基幹としアラズラ高地及びカラソムを確保し、師団主力はウクルルに転進し、補給を実施後、第15師団左翼に連繋し、6月10日までにインパールを攻撃する準備すべし」の命令が届くが、軍事常識からとうてい無理な命令だったが、この命令で撤退を15軍は認めたことになった。
佐藤師団長は「烈兵団は大勝利じゃ、前線の兵はご苦労であった元気に行軍してくれ」と勇気付け、雨の暗夜の泥道の行軍が始まった。(戦傷者約1800名)
19年 6月 2日
英軍の爆砲撃に中、第58連隊第3大隊は司令部の位置まで到着した。
第124連隊の1個大隊は宮崎支隊として、インパール街道をなるべく長くにわたり断ち切ることで、ビスエマ・マオソンサントヘマ・マラム・カロンと逐次防御する計画であった。
19年 6月12日
英軍の追撃が無くなったる。師団は4梯団に分かれて行軍した。
19年 6月14日
15軍の連絡将校能勢中尉が歩いて命令伝達に来た。命令は2日の実施不可能な命令であり、6月10日はもう過ぎていた。 ウクルルに糧食調達に行っていた師団主計小島少佐一行が戻ってきて報告「ウクルルに糧食は皆無、15軍は米一粒も集積していない、祭師団でも10日分の食糧しか調達できてない」糧食も弾薬もなく攻撃命令だけは届く、先頭がウクルルについても、食糧は無く殿軍の第138連隊はまだカラソムから動き出したとこだった。
19年 6月18日
祭師団村松連隊情報主任竹ノ谷中尉が来た。宮崎支隊長は「カンロで抵抗するのも6月22日が限界、後はミッションにさがる25~6日連隊長に検討を祈ると伝えてくれ」
19年 6月19日
烈師団は、フミネに糧食120トンと靴4000足が集積されている 更に南下し補給する。ことを決意
19年 6月20日
佐藤師団長は祭の司令部が途中のルンションの西2kmに有ることを聞いていたが、連絡を取らずにフミネに向かった
19年 6月21日
佐藤師団長は方面軍と15軍に「師団はウクルルで何らの補給をも受けられず、作戦指導は支離滅裂、食うに糧なく、打つに弾なくインパールに攻略に向かわしめん軍令たるやおどろく、師団は補給が確実にできる地点まで移動する」電報を送った。 夜、佐藤師団長の司令部に林)軍参謀長と兵站参謀薄井少佐が面会に来たが一次拒絶したが、仕方なく会い、軍参謀長は師団長が出した電報を牟田口司令官に見せず携行していた。
19年 6月22日
佐藤師団長は軍参謀長の通過を心待ちにしていたが寄らずにクンタンの軍司令部に帰った。
19年 6月23日
軍から「師団は患者をフミネ兵站病院に残しミンタに集結すべし」の命令が来た。
19年 7月9日
烈)各部隊は壊滅し、司令部はタナンに来て師団が困難なとき、林)軍から佐藤師団長に「ビルマ方面軍司令部付きに命ず」の解任の電報が届いた。
19年 7月10日
林)軍から佐藤師団長に「後任師団長の着任を待つことなく」と追申がきた、日没とともに佐藤中将はタナンの司令部を出発した。師団長が去ったあとの師団は宮崎少将が指揮をした。
第15軍の「後任師団長の到着を待つことなく、速やかに方面軍司令部に赴任すべし」の命令は引き継ぎなどしなくてもいいから早く居なくなれという命令であった。
19年 7月11日
第15軍のトラックが迎えにきた、軍司令部に行く途中、烈師団の加藤参謀長と常松軍医部長が師団の実情報告に行った帰りだった。
烈師団の加藤参謀長は「軍司令官は前線視察で不在、幕僚も多忙で木下高級参謀の手紙が用意してある」また 常松軍医部長は「佐藤中将が神経衰弱であるという診断書を書くことを強要された」と報告をうけた。
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