2012年6月8日金曜日

サンシャークの戦い


サンシャーク

インパールから北東へ100キロほど行った所ですが車で行くと3時間から4時間かかります非常に風光明媚で良いところなのですが、如何せん道が悪い上やはりこの道もチェックポイントが3箇所ほど待っていた一箇所目は麓の町、二箇所目はサンシャークとウクルルの分岐点、3箇所目はサンシャークの村の入り口、まあ丁度良い休憩ポイントと思えば何の事は無いのですが、日本人は珍しいのでパスポートを見せろだの何だの色んな事を言われる、と此処で気ずいた事がある、軍のチェックポイントは金を要求する事は無いが警察は金をせがむ。

この辺に来るとインド人の姿を余り見かけない、ほとんどナガ人で言葉もナガの言葉だ、又この辺はマニプール州とナガランド州の争いの種になっていると言う、ナガ人が殆どなのでナガランドとしてはこの地域はナガではないかと言う事だ、マニプール州としては昔からこの地域はマニプール州だということだ、その辺は私は詳しくないが、しかし双方インドから独立したいと言う雰囲気は同じである、これはそこ等辺のおばさんにまで浸透している話であり、独立の話をすると我々が乗っていた車のドライバーなどは「俺も後押しするぞ」と言うと、どんどんエキサイトしてくるのである。

道理で入域制限が解けたとは言え国内線と言うのに今だインパールのスタンプを押される。やはり禁酒州にしないといけないのだろうな等と考える。
教会から見たサンシャークの村




サンシャークの戦い

左突進隊           第31歩兵団 団長  宮崎少将  第31歩兵団司令部
 歩 兵第58連隊 
 山砲兵第31連隊 第2大隊
 工 兵第31連隊 の一中隊
 独立輜重55中隊 
 師団(無線一分隊、兵器勤務・経理・衛生の一部・師団病馬廠の一部)
 第3野戦病院・ 患者輸送第58小隊の一部・衛生材料勤務の一部
 印度国民軍情報隊の一小隊

左突進隊 第31歩兵団長   宮崎支隊
  
19年 3月18日 
   
烈)左突進隊の第3大隊(島之江少佐)はウクルル東南方10km7378高地に進出し、英軍陣地に8:00頃接触、24:00曳光弾を合図に夜襲する。

19年 3月19日
    
烈)山中に牛馬を連れての行軍であり、谷の断崖に突き当たり工兵隊は道路作り困難を増した
 ビルマの牛は荷を付けるのに慣れていない。不眠不休の行軍で落伍する、ムチで叩かれ尻から血を流して落伍する牛が増え土台無理な計画であった。
 一頭倒れればその分の荷物が他の牛の負担となり、輸送力の低減になる。駄牛隊に命令「第2大隊はサンシャーク高地にて激戦中、第7中隊は牛を捨てて直ちに追及すべし」 駄牛隊解散

19年 3月21日
                 
第2大隊(長家大隊)はウクルルに突入したが、英印軍約1個大隊はサンシャークの陣地に撤退した。
 宮崎歩兵団長はサンシャークに英印軍1個旅団で砲十数門が布陣してるのに、第2大隊の独力攻撃を認可した。

19年 3月22日
                 
烈)第2大隊はサンシャークの英印軍(1個旅団で砲十数門)陣地に夜襲をかけ失敗した。

19年 3月23日 
   
烈)左突進隊 宮崎繁三郎少将傘下の福永転大佐の第五八連隊 ウクルルから退却する敵を追ってサンシャークで攻撃した。敵は4500ほどの掩蓋陣地であった。 第一線第8中隊伴中隊長戦死第二線5中隊斉藤中隊長負傷・第6中隊渡辺中隊長戦死・第2大隊長家大隊長負傷

19年 3月24日
                  
長家大隊長は大隊本部と第6中隊を敵陣に突撃し撃ち合いが続いた。敵は空中補給を始め落下傘で物資を投下したが、第一線が近く風下の友軍に半数以上が落下し将兵を喜ばせた第3大隊(島之江少佐)がサンシャークに到着第10中隊が攻撃開始

19年 3月25日 
   
烈)左突進隊 宮崎繁三郎少将は祭)福島大隊からの協力を固く辞退した
 烈)58連隊の最左翼の中隊は損害も大きく20名の生き残りで糧食も無くなっていた。 第2大隊第5中隊は教会陣地を夜襲し陣内突破したが失敗した。
 連隊砲と山砲大隊が司令部の高地にかけつけた。砲撃支援のもと統一攻撃の実施第11中隊100名、第6中隊50名、隊長11中隊西田中尉が支援砲撃8発を試射と誤認し攻撃に出なかったが、驚き怒って独力夜襲隊形に切り替えた。

19年 3月26日
                 
4:00第11中隊教会北側陣地占領、第6中隊教会背面陣地占領大隊本部は教会西側にでたが東側の敵陣からの攻撃が激しく、突入部隊は殲滅されていった。   福永連隊は最後の総攻撃を決意した。突撃位置まで進出すると、22 突如敵の銃砲撃が開始された砲撃がやんだあとは、英印軍は退却していた。
 祭)師団から更に強力に協力を申し出たのに烈)宮崎繁三郎少将は「二七日までに落ちなかったらその時はお願いする」と言い夜に敵陣は落ちる。


歩兵第60連隊(松村連隊) 祭  右突進隊

右突進隊     六〇連隊(第1大隊欠)野砲兵第二一連隊 村松弘連隊長  タプ
左側支隊     六〇連隊第1大隊(第3中隊欠)山砲1門 吉岡忠典大隊長 タウンダ
師団本部付き   六〇連隊第1大隊 第3中隊、        タウンダ
 第8中隊尖兵で突進し、助川道雄中尉中隊長機関銃の貫通銃創で戦死他5名戦死
歩兵砲中隊 藪中中隊長判断で山砲2門速射砲2門の内山砲1門を残地 トンヘ

3月23日  
  
前方を進んでいる福島大隊から「サンシャーク付近に砲を有する敵の部隊の陣地がある」「22日より烈左突進隊(宮崎繁三郎少将)攻撃中」と報告した。
村松連隊長は福島大隊に烈宮崎支隊と連携し西に向かって攻撃、内掘大隊はコウショウよりサンシャーク背後にでて攻撃を命じた。
副官の斉能大尉が烈左突進隊に村松連隊が攻撃する旨をつたえたら、烈から「祭は攻撃をさしひかえてもらいたい」と独力攻撃を伝えてきた。
15軍は攻撃重点をインパール西方のパレルに変更し兵力を集中させるため第1大隊(吉岡大隊)を山本支隊(直轄部隊)に配属した。

3月24日 
   
福島大隊に配属になった野砲第21連隊第1中隊(東条中尉)の連隊砲1門がサンシャークの英印陣地に砲撃したが村松連隊に配属の野砲第21連隊長指揮の4門は藤岡連隊長の指揮で砲撃準備はしたが村松連隊長の命令が無く一発も撃たなかった。

3月25日
      
福島大隊の浅井中尉が列に電話連絡すると宮崎繁三郎少将が出て「福永連隊長は第58連隊軍旗をおれに預けで獲りに行った、貴様は武士の情けを知らぬのか。全滅したら、そちらで勝手にやってくれ」と言た。
祭の第10中隊右翼端と烈の左突進隊左翼端の中隊は重なりあって展開していた。
烈の中隊は21日から戦闘で損害が大きく生き残りが20ほどで、弾も糧食もなく疲れきっていた。
浅井中尉は見かねて自分の中隊の米で握り飯を作って与えた。

3月26日 
   
3大隊の第912中隊が英印軍の自動車部隊に夜襲した。
夜明けに占領したが、第9中隊は1/3となり、第12中隊は1/2となり将校全員戦死した。
敵陣には食糧が豊富にあった。
4中隊(75名)は3636高地敵陣に夜襲したが集中砲火を浴び戦死22戦傷33中隊長負傷し生き残り20名となり中隊のかたちは無かった。敵の砲撃がやんだ後は敵は退却していた。

19年3月27未明 
                
福島大隊は敵陣前200m付近まで接近し、敵の戦車3輌歩兵4~50名が出てきた敵の猛射 で釘付けになった。 祭)の村松連隊(野砲21藤岡連隊 連隊砲4門含む)はサンシャークに迫っていた。
 福島大隊は敵陣200mまで接近し猛射あび釘付け。
 堀内大隊は敵陣背後にまわり陣地攻略まで攻撃しなかった。

敵陣地があった教会
教会から見たサンシャークの村
3月25日の攻撃にも出てくる、第31歩兵団 左突進隊 58連隊第11中隊長西田中尉が戦後建てた、西田メモリアル現在は閉館中教会の左下に建ってます。
また教会の入り口に手前に村民の方が個人的に建てられた慰霊碑があり、敷地内には当時のものが置かれて、家の中には写真などが飾られている。本人はウクルルで学校の先生をしていらっしゃったそうだが、現在は定年で退職されている。有難い事である。



此方はイギリス管理の下建てられたサンシャークメモリアル、はっきり言ってイギリスの物は何処の施設も管理が行き届いている。
ウクルルの町ここは結構街も大きい。




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