2013年5月27日月曜日

大使館からのお知らせ(バンコクにおける爆発事件)

タイ在留邦人の皆様へ
                【大使館からのお知らせ】
                               

         バンコク都内における爆発事件の発生について
              (2013年5月27日現在)

1 タイ警察によれば,26日午後8時39分頃,バンコク都内のラムカムヘン・ソイ43/1通りにおいて手製爆弾が爆発する事件が発生し,7人(いずれもタイ人)が重軽傷を負いました。
爆発現場は,ラムカムヘン大学に隣接し,ショッピング・モールや路上には露天商が並ぶ人通りの多い地域です。
報道等によれば,タイ警察は,テロや政治的な背景はなく,露天業者間の利権を巡るトラブル
を発端とした事件であるとの見解を示しております。

2 在留邦人の皆様におかれは,引き続き,不測の事態に巻き込まれることのないよう,大勢の人数が集まる場所等においては周囲の状況に注意を払い,不審な状況を察知したら,速やか
にその場を離れるなど安全確保に十分注意を払ってください。さらに,不測の事態に備え,連絡手段を常時確保するように心がけるとともに,状況に応じて適切な安全対策が講じられるよう心がけてください。
在タイ日本国大使館
○領事部
電話:(66-2207-8502、(66-2696-3002(邦人援護)

FAX :(66-2207-8511





2013年5月26日日曜日

楠公祭


桜井の別れ

建武3年(1335)5月21日、楠木正成公、湊川の決戦に向かうにあたり桜井の駅で、長男楠木正行と今生の別れを告げる。
正行は父に従わんと願ったが、正成曰く「後に残り忠孝を励め」と短刀一振りを与えて河内へ帰す。

時に正行11才である。これが、有名な桜井の別れである。


青葉繁れる桜井の

1.青葉しげれる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
  木下陰(このしたかげ)に駒とめて 世の行く末をつくづくと
  偲ぶ鎧の袖の上(え)に 散るは涙か はた露か
  
2.正成涙を打ち払い 我が子正行(まさつら)呼び寄せて
  父は兵庫に赴かん 彼方の浦にて討ち死にせん
  今しは ここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ

3.父上いかにのたもうも 見捨てまつりて我一人
  いかで帰らん帰られん  この正行は年こそは
  未だ若けれ諸共に 御供(おんとも)つかえん死出の旅

4.今しをここより帰さんは 我私(われわたくし)の為ならず
  己 討ち死になさんには 世は尊氏のままならん
  早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国のため




楠木正行、父正成公湊川にて討死の報せが届くと悲しみのあまり佛間に入り父の後を追って腹を切ろうとした。かけ込んだ母にとどめられ 「桜井の駅で父は死ねと教えらたか」と、さとされ楠木正行気を取り直し、これより一心不乱に文武の道に励む。

内侍との出会い
 正行公成人の後、河内近辺にて賊に、さらわれようとする女人を助け、尋ねたところ吉野朝廷に仕える女官弁内侍であった。
早速家来に命じて吉野まで送り返す。のちに後村上天皇より内侍を正行の奥方にとのお言葉があったが、四条畷の戦には生きて再び帰れぬ覚悟であった為辞退された。
正行公戦死の後、内侍はただちに尼となり菩提を弔う。

後村上天皇に拝謁
正平2年(1347)12月27日
四条畷の決戦に向わんとするにあたり、吉野の皇居に後村上天皇に拝謁
天皇より、
「正行よ、汝がたよりである。若し戦不利ならば必ず戻るよう」とのお言葉を拝したが、心中再び帰らぬことを決して、そのまま皇居を出で、如意輪寺に向かう。

辞世の歌
先帝後醍醐天皇陵に参拝し、如意輪堂に詣で、各々髪を切って佛前に奉納、過去帳に姓名を書き連ね、正行公は堂の扉に鏃を以って、
 「かえらじと  かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」
と辞世の歌を書き残し、その日吉野山を出陣。四条畷へ向かう。引連れた主な家来143名であった。

四条畷の戦い
 正平3年正月5日。
四条畷の戦いは早朝よりはじまり、夕刻に及ぶ。敵将高師直の軍勢約五万、味方は五千、一気に本陣に向かい、師直の首を斬ったが影武者の首であった。七度空に投げ上げ残念がったが、遂に弟正時と差し違えて討死す。
時に正行二十三才、正時二十一才であった。




2013年5月25日土曜日

頭立會

頭山満翁


頭山満翁は、「立雲」を号として、自由民権運動を立ち上げ、金玉均、孫文、ビハリ・ボースなどのアジア独立運動家を支援した人物である。

大隈重信、副島種臣、東郷平八郎、中江兆民、西郷従道等名だたる人々が、一様に頭山満翁のことを東洋的巨人としてその輪郭の大きさを評価していました。

  「一人で居ても寂しくない人間たれ」が若者への言葉でしたが、頭山翁がそこに存在しているだけで、四方八方からの懇請が片付いていったとも言われています。

また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、韓国の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。

現在、反日を国策としている中華人民共和国。その国の父と言われる孫文を物心ともに支援したのが頭山満をはじめとする日本人であったことを現在の中国政府にはよく理解してもらいたいと思う。
頭山満翁がほおかぶりした珍しい写真です

写真は実物で「頭立會」とある。






2013年5月23日木曜日

ウィサカブチャー(仏誕節)


5月24日はウィサカブチャー(仏誕節)

 陰暦6月の満月の日で、釈迦の誕生日です。ウィサカブチャーの日は、釈迦が生誕、大悟、入滅した仏教的に重要な意味のある日であるとされており、同日に起こった3つの奇跡へ想いを馳せ、釈迦の徳に対して礼拝するための儀式が行われています。

タイ仏暦では生誕がBC623年、大悟が35歳のBC588年、そして入滅が80歳のBC543年となるわけです。


仏教とは

   仏教は、2500年前のインドに起源を持つ哲学、道徳規範、宗教的信条です。その教えは人類の苦悩の解明や個人のための苦悩の解決策であり、またその道徳規範は慈悲心と非暴力に基づいており、瞑想を通して内観へ到達する道を説いています。つまり、仏教は「実態の本質」のより深い理解に到達するための道を啓示して人々を内観へ導きながらも、人々の日常生活等に結びついた実用的な教えを提供しているのです。今日、世界で5億人の人々が仏教の教えに従っていると推定されています。

仏陀の誕生からタイ仏教まで

仏教は、2500年前に仏陀によって創設されました。仏陀はインド(現在のネパール)のカピラヴァスツの王スッドーダナとマーヤ夫人の間に生まれ、シッダールタと名付けられました(仏陀という名前は釈迦が悟りを開いた後に自らを呼んだ名前で「真理を悟った者」を意味しています)。
仏陀はヤショーダラーという女性と結婚して、一子を授かりラーフラと名付けました。しかし、仏陀は日々の快適な生活により心が満たされることはなく、全てのものは滅びる運命にあり人生は苦しみで満ちていると感じていました。そして29歳になった年のある晩、彼は王宮を抜け出して、人生の苦悩を解決する道を見出すため修行の旅に出ました。そして6年の修行の末、35歳になった仏陀はある満月の夜、ネランジャナー川のほとりにあるアシュヴァッタの樹(菩提樹)の下で大悟しました。その後仏陀は「四諦(4つの真理)」を弟子達に説き始め、さらに弟子達により当時の人々へその教えが広められました。仏教はこうして時が経つに連れて各地へ広く伝道されてゆき、仏陀が80歳で入滅する頃までに、インドで定着するに至りました.

   インドの王の中で最も深く仏教に帰依したのはアショーカ王で、周辺の国々まで広く布教活動を行いました。このようにしてスワンナプーム(現在のタイ)の地に仏教が伝わり、タイの人々の間にも仏教が定着してゆきました。その後、スコータイ王朝のラムカムヘーン王により仏教はタイの国教として定められ、タイは仏教の拠点の一つとなりました。そのため仏教のタイの人々への影響は大きく、その影響によりタイ人は平和を愛し、異なる民族や文化に対して無類の寛容さと歓迎する心を持ち合わせた国民となったのです。


生きとし生けるものが幸せでありますように

Sabbe sattā bhavantu sukhitattā



2013年5月22日水曜日

桜の植樹と慰霊祭


5月14日

 大東亜戦争中、日本軍はタイとビルマとをつなぐ全長415kmにもわたる鉄道を建設した。当時タイは「泰」ビルマは「緬甸」と書かれたので、この鉄道は泰緬鉄道と名づけられた。
 泰緬鉄道の建設速度は、驚くほど速かった。
東京の大本営が19427月、東南アジアの諸地域について責任を持つ南方軍にたいして、ラングーンに至る海路のかわりとして、タイからビルマに至る鉄道を建設する命令を出した。

この慰霊塔は昭和192月に日本軍鉄道隊が捕虜及びアジアの労務者の為に建立したものです現在は泰國日本人会管理になっております。




「泰緬甸連接鐵道建設間不幸病ヲ得テ斃レタル南方各國勞務者及俘虜の為此ノ碑ヲ建テ恭シク其の霊ヲ慰ム 昭和19年2月 日本軍鉄道隊」







この日カンチャナブリは40.2度の猛暑で、汗が滝のように皆様流れていました。
祝詞奏上する神主は特に汗がボトボトでした。

しかしこの猛暑の中英霊は其れをものともせず、ジャングルにきえていった事を思えば、、、しかし暑かったです。



鉄道隊慰霊碑の敷地内に桜を植樹






直会、カンチャナブリから300キロ移動してパタヤで直会




暑い中ご苦労様でした。