2013年5月26日日曜日

楠公祭


桜井の別れ

建武3年(1335)5月21日、楠木正成公、湊川の決戦に向かうにあたり桜井の駅で、長男楠木正行と今生の別れを告げる。
正行は父に従わんと願ったが、正成曰く「後に残り忠孝を励め」と短刀一振りを与えて河内へ帰す。

時に正行11才である。これが、有名な桜井の別れである。


青葉繁れる桜井の

1.青葉しげれる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
  木下陰(このしたかげ)に駒とめて 世の行く末をつくづくと
  偲ぶ鎧の袖の上(え)に 散るは涙か はた露か
  
2.正成涙を打ち払い 我が子正行(まさつら)呼び寄せて
  父は兵庫に赴かん 彼方の浦にて討ち死にせん
  今しは ここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ

3.父上いかにのたもうも 見捨てまつりて我一人
  いかで帰らん帰られん  この正行は年こそは
  未だ若けれ諸共に 御供(おんとも)つかえん死出の旅

4.今しをここより帰さんは 我私(われわたくし)の為ならず
  己 討ち死になさんには 世は尊氏のままならん
  早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国のため




楠木正行、父正成公湊川にて討死の報せが届くと悲しみのあまり佛間に入り父の後を追って腹を切ろうとした。かけ込んだ母にとどめられ 「桜井の駅で父は死ねと教えらたか」と、さとされ楠木正行気を取り直し、これより一心不乱に文武の道に励む。

内侍との出会い
 正行公成人の後、河内近辺にて賊に、さらわれようとする女人を助け、尋ねたところ吉野朝廷に仕える女官弁内侍であった。
早速家来に命じて吉野まで送り返す。のちに後村上天皇より内侍を正行の奥方にとのお言葉があったが、四条畷の戦には生きて再び帰れぬ覚悟であった為辞退された。
正行公戦死の後、内侍はただちに尼となり菩提を弔う。

後村上天皇に拝謁
正平2年(1347)12月27日
四条畷の決戦に向わんとするにあたり、吉野の皇居に後村上天皇に拝謁
天皇より、
「正行よ、汝がたよりである。若し戦不利ならば必ず戻るよう」とのお言葉を拝したが、心中再び帰らぬことを決して、そのまま皇居を出で、如意輪寺に向かう。

辞世の歌
先帝後醍醐天皇陵に参拝し、如意輪堂に詣で、各々髪を切って佛前に奉納、過去帳に姓名を書き連ね、正行公は堂の扉に鏃を以って、
 「かえらじと  かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」
と辞世の歌を書き残し、その日吉野山を出陣。四条畷へ向かう。引連れた主な家来143名であった。

四条畷の戦い
 正平3年正月5日。
四条畷の戦いは早朝よりはじまり、夕刻に及ぶ。敵将高師直の軍勢約五万、味方は五千、一気に本陣に向かい、師直の首を斬ったが影武者の首であった。七度空に投げ上げ残念がったが、遂に弟正時と差し違えて討死す。
時に正行二十三才、正時二十一才であった。




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