2009年2月12日木曜日

東京は、実は「首都」では無い?


「今でも京都が日本の首都」・「東京の皇居は別荘で、京都の御所が本宅」。現在も、京都の人達の中には、この様に考えている人が少なからずいます。しかしなぜ、明治維新の際、東京に「遷都」して130年も経た今尚、この様な考えが残っているのでしょうか? 実は、幕末維新の動乱の中、京都から東京への「遷都」に際して、ある手続きがなされなかったからなのです。

明治2(1869)年3月28日、明治天皇が東京に着き、江戸城改め皇城(1888年、宮城と改称、現・皇居)へと入りました。いわゆる「東京奠都」(東京遷都)ですが、この京都から東京への「遷都」の際、明治天皇は「ちょっと(東京へ)行って来る」と言って、京都を出たと言います。「ちょっと行って来る」と言う以上、当然、「暫くしたら(京都へ)帰って来る」と言う訳で、当時の京都の人達は、東京への「遷都」では無く、せいぜい「行幸」程度にしか考えていなかったと言えます。又、「東京遷都」に際しては、ある手続きがなされませんでした。それは、時の天皇が、「何時いっか何処々々に都を遷す」と宣言するもので、いわゆる「遷都の詔勅」と呼ばれるものです。この「遷都の詔勅」は、奈良時代の平城京遷都(和銅3=710年)、平安時代の平安京遷都(延暦13=794年)の際、時の天皇から発せられました。しかし、「東京遷都」に際して、明治天皇は「遷都の詔勅」を発してはいないのです。

更に不思議な事は、明治維新に際して、京都から東京へ「遷都」したにも関わらず、東京を「首都」とする旨の法令も政令も存在しないと言う事実です。つまり、京都から東京への「遷都」は、ある意味で場当たり的に行われた事になり、東京は「遷都の詔勅」と言う「お墨付き」の無い中途半端な都だと言えるのです。しかし、皆さんの中には、「誰が何と言おうと、政府の所在地で政治・経済の中心地は東京なのだから、東京が首都である事に変わりが無い」と仰る方もおありでしょう。では、徳川時代の「首都」もやはり、京都では無く江戸だったと言うのでしょうか? なぜなら、江戸も徳川時代、幕府(政府)の所在地として政治の中心地だった訳ですから・・・。しかし、江戸は「首都」とは呼ばれませんでした。政治の中心地であったにも関わらず、「首都」はあくまでも京都でした。この様に見てくると、日本の「首都」の定義は、極めて曖昧なものと言えます。いや、そもそも日本人は、源頼朝が初めて将軍となり幕府を開いて以来、「政治の都」(鎌倉・安土・大坂・駿府・江戸)と「儀礼の都」(京都)と言う「展都」体制に慣れ親しんできたせいか、「首都」に対する厳密な定義を必要としなくなったのかも知れません。

2009年(平成21年)現在、日本の首都を直接定める現行法令は存在しない。

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