2009年11月23日月曜日

西部戦線

 「俺は何も知らぬ男だ。しかし俺は死ぬことだけは知つてゐる」-暮れかかるムアル湖畔に立つた部隊長の言葉である。OO名の決死隊員を前に此部隊長は夜襲に封する訓辞をしてゐた。やがてこの一団は一隻の舟艇を操ってムアル河を渡り、ジャングルの中へ消えて行つた。八キロの戦線を一瞬にして火の海とし二萬の敵を一兵も残さなかつたといはれるムアル湖畔殲滅戦の序幕はかうして始まつた。

 クアラルンプール攻略後わが主力はネグリスミラン州を瞬く間に席巻しいよいよマレー半島における一大決戦たるジョホール州にその鋭鋒を向けることとなつたが、部隊はスレンバンから二つに分かれ一隊は中央道路を通つてゲマスへ、一隊はぐつと方向をかへてポートジクソンから海岸通を南下することとなった。マレー作戦で西部戦線といはれるのはこの部隊が進撃して行つた海岸通を指すもので、ここでは中央進撃部隊が経験したことのない“連續殲滅”の特異な戦法が行はれた。そしてジョホール州のムアル河に達するや俄然この特異な戦法が発揮され始めた。

 一月十六日の夕刻「死ぬことしか知らない」決戦隊は二隻の小さな刳舟に乗つてムアル河岸のジャングルに達するや銃剣をふりかざして進路を切り開いていつた。漆を沒する泥濘に悩みながら夜が明けるまでに六百米を進んだ。ここは敵の前線主力と後方予備隊の中間地区、オートバイで連絡する敵の伝令兵を片つ端から生け捕りにして敵状を調査した所、果たして敵はシンガポール島防衛最後の抵抗線として第48旅団を主力とするインド編成の新鋭増援部隊で陣地を構築している。まずムアルの町を第一線とし、バドバハの町を第二線とし、更に第三線はプライ高地の貯水池を中心に西岸一帯に広がっており、その兵力も前期の第四十八旅団のほか豪州第八師団などその数将に二萬と算せられてゐた。

 十七日午後わが主力部隊の正面攻撃の火蓋が切られるや先遣上陸部隊は極めて少ない兵力をもつて前面に敗走する敵を待ちうけ、背後には繰出す敵の増援部隊を迎へるといふ危ない運命に逄着しなければならなかつた。もしこれが日本軍隊でなければ挾撃されて脆くも踏み潰されてしまつたであろう。然るにわが軍はかうした少数の“全滅性決死隊”を大膽膽にも敵大軍の密集部分へいくつもいくつも差し込んだ。

 ムアル河畔バクリの部落を中心にかうした戦局が展開し出したころ、てきはムアル河の渡河点に果然空襲と砲艦射撃を集中してわが兵力分離を企画した。ある兵隊は悠々と空を仰いで“戦争じやもの、爆弾の雨も降るさ”といつて大笑する。ある兵隊は銃機を取り出して拶空射撃をはじめるといふ有様、呆れかへるばかりの静けさである。取り乱れざる地上の光景に恐れてか敵は記者団を驚かすだけの効果をお土産に倉皇として逃げていつた。その夜ムアルの町に宿営した我々は適砲艦二隻の近距離砲撃を受けたが着弾はいずれも渡河点を越えること五百米、ムアル河底に棲むといふ鯉の心臓を寒からしめるだけであつた。

 しかしこの頃バクリ部落を中心にわが分散決死隊の凄愴言語に絶する血闘は最高潮に達してゐた。敵陣はいまやこの”陸の潜水艦“の活躍に死に物狂ひの抵抗を開始した。この戦線での敵軍は突撃に当たつて軍歌を合唱する。長いコーラスが不気味にゴム林にこだますると迫撃砲の集中射撃を行ひ煙幕を張つて突っ込んでくる。或る決死隊は半日に三回の”合唱突撃“を斥け、また命脈次第に細まつた敵は毒ガス戦術に出たが被甲をつけた白襷隊の姿は近代戦の壮烈さを語るに十分であつた。

 加治春次中尉(川越市)の指揮する衛生隊は適装甲車三機に襲撃され患者を護つて激闘、手に手に竹やりをかざして突撃を行ひ遂に撃退した。大柿正一部隊長(宇都宮市)は敵襲に際して戦死した部下の銃を執つて自ら射撃しつつ指揮を取り、これを撃退せしめたが無念の一弾に壮烈護国の花と散つた。また坂野茂美部隊長(宇都宮市)は戦死の間際まで血染めの膽架で指揮を続け、伊藤寅士上等兵は故障を起こした重機を分解して腹に抱いて散ていつた。「歩兵は要りません。戦車だけやつつけませう。」といつてパクリの敵陣へ突込んだわが戦車は頑強な歩兵陣地へ壮烈な當の自爆を敢行してこれを沈黙せしめた。分散配置の決死部隊はかくして“点から線へ”連繋しはじめ連続殲滅の凱歌は二十日遂にムアル河畔に揚つたのである。残存敵軍はパリトスロンの町に終結反撃を試しみたが、わが背面部隊と正面部隊に挟撃され、更に自軍機の誤爆を受けて全滅した。

 西部戦線のわが殲滅戦法はそのパトバハ、センガラン、レンギト、ベヌツトを結ぶ海岸線でも繰返へされたがバトバハ、ゴルフリンクの丘に敵屍のために建てられた「英濠無名戦士の墓」こそ野末に匂ふ日本武士道の象徴として西部戦線史を彩るものであらう。この部隊は本道を進む主力部隊がジョホルバハルに感激の日章旗を翻したときプライ高地にシンガポール水道の水源地を仰へ、この高地から遥かにシンガポール島を俯瞰しつつ無量の感慨に打震へたのである。花あるが故に「シンガポールへの花道」と名ずけられた。この西部戦線は僅か二旬にして一輪の花をも失ひ、どす黒い死の道となつてしまつた。百里に瓦る戦線には累々たる敵屍と焼かれた自動車が山を作つて続いてゐる。敵殲滅の偉勲に輝くこの決死隊は岡、吉田、伊藤、山本、見島、大柿、の諸部隊である。

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