2009年11月25日水曜日

海上機動


 敵を最も悩ましたわが迂回作戦はゴム林やジャングルばかりではない。戦局がベラ州に発展するころ突如として海上迂回の新手が加はつたのである。十二月三十一日わが市川、三柴の両部隊はペナン島で押収した小さな遊覧船三隻に分乗してベラ州ムルトの港からマラツカ海へ乗出して行つた。月美しく波静かなる夜である。手に手に自動車のチューブを持つた兵隊が自電車と自動車を捨てて船に乗込んで行く。マレー半島にいくらでも転がつてゐるゴム、これを浮袋に利用した頭のよさに感心しながら我々記者団もこの決死的海上機動に参加すべく甲板立つた。どこへゆくつもりかどの兵隊も知らない。陸で作っておいたいろんなご馳走が山と積まれてゐる中で朗かな笑ひが爆発して、これから大晦日の晩餐があちこちの隅で思ひ思ひに開かれようとしたとき、輸送指揮官の厳粛な注意が傅達される。
『只今から敵の領海に出るが、この海上には機雷と軍艦と蘭印機が待つているはずである。監視を絶対にゆるがせにしてはならない。』

 思へばここは危険な海である。豪華なる正月前夜の晩餐は惣ちにして「死の晩餐」に変わった。一瞬何人も黙し冷たい水盃があげられた。

 船は海岸にぴつたりくつきながら南へ南へフルスピードで走つたが、我々にはどうしても眠られない夜であつた。果たして夜が明けると三機の敵編隊が舞ひ上がつて来た。いぶかしげに偵察してゐたこの三機は何事もなさずに西へ飛び去つた。一時間ほどしてまたこの三機が偵察にやつて来た。今度はぐつと低空で下がつて来る。「なにやら解せぬふねじやわい」こんな表情が見えるやうな恰好で入り替り立ち替り舞ひ下がつて来る。そのときである、ダダダダダツ!たつたこれだけの機銃が発射されたかと思ふと一機はヒユ-ンと悲しさうな音を響かせてグルグルと海上へ落ちてしまつた後の二機は直に逃げ去る。「おめでたう、おめでたう」の声が沸き上がる。幸先のいいお正月である。

 遊覧船はベルナム河口から方向を変えて河を遡航してウタンメリンタン部落に上陸した後テラカンソンからビドルへ出てカンバルの頑敵の背後を衝くことに成功した。このとき市川部隊のみはさらにベルナム河の遡航を続けた。この河は中流にいたるや意外に両岸に密生した樹木がさながらトンネルのやうに蔽いかぶさり船の進撃を阻んでゐた。

 人間の姿をはじめて見た猿群の驚きは大変なものであったらしく一隻の遊覧船をめがけて数百匹の大群が襲撃してくる。「猿も一匹や二匹だと可愛いけれどかう大勢来れれるとちよつと”戦争“ですよ。」と兵隊はいふ。ところがさらに大敵があらはれた。それはマレー半島上陸以来どの兵隊も憧れて(?)ゐた鰐の来週である。船に向かって猛烈に突きかかつて来る奴に一発ずつ弾を使わなければならなつた。鰐と猿を相手の”戦争“は三晩続けられた。英国のお洒落女が命をかけても欲しがるといふ鰐のハンドバックは少なくとも数百個はベルナム河底に沈んで行ったわけである。部隊は転換してセランゴール州を陸路南下、クララルンプール側面に出て敵の意表を衝いた。

 舟艇機動はその後も頻頻と敢行されたが、我々はマラツカ港を出てムアル、パトバハの沖を通つてセンガラ地域に上陸した岡部隊の奮戦を記憶しなければならない。一月十五日の夜、岡春雄男爵部隊長の率ゐる一隊はマラツカを出港した。このころシンガポール港内にゐた敵砲艦はわが”海上攻勢“に狼狽し必死の哨戒陳をこの近海に布いてゐた。船が十六日朝パトバハ沖に差しかかると突如二隻の砲艦が眼前に現れた。と同時にシアル燈台から射たれ始めた。進むにも退くにも応置なき知つた男爵部隊は大膽にも砲艦の中央突破を命令した。船はあらん限りのスピードで今しも照準準備を終わらんとする二隻の砲艦の真中に突込んでゆく。敵の照準は意外なる日本軍の進路のために急角度の転換を余儀なくされてまごまごする。あつといふ間もなく船はするすると突き抜けていつた。敵が大砲を百八十度に転換し終わつたとき、この船は海岸の入江を深く進入、ジャングルを利用して遮蔽することが出来た。部隊は難なく上陸したが敵はこの一隻の舟艇部隊に度肝を抜かれてしまつた。それはあまりにもシンガポールに近いのである。敵は三千の敵をこの船のために動員した。男爵部隊は上陸して二日目、この大敵の包団の中に窒息するやうな苦しい呼吸を続けた。

 西岸本隊はまだその頃まだマラツカを出発したばかり、しかもムアル河畔の二萬の敵を撃破しなければ到達することが出来ない。男爵部隊長の焦慮は三日目だんだん深刻を加へて来た。兵隊は米や缶詰めと決別した。椰子の子の根が竹の子に似て美味しいことや青いバナナも煮れば芋の味がすることなど兵隊はだんだん新しい発見をしていつた。

 或る日一機の友軍機があらはれた。日の丸が取り出され察空信号が行われると、やがて飛行機から一つの包みが落とされた。「連日の御奮闘を感謝します。これは寄集めで失礼ですがタバコを少々私の志です。欲しい物を至急知らせて下さい。――二田原部隊」兵隊は泣いて喜んだ。

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