2013年9月26日木曜日

ラオ人民革命党


 大東亜戦争末期の1945年3月、日本軍はラオスに侵攻した。フランス軍を駆逐し、シー・サヴァン・ウォン国王は全ラオスの独立を宣言、ペサラート政権が発足した。日本はラオスで、ビルマと同じやり方でラオ人に独立を与えたのである。これに対してフランスは、国王を懐柔することによってラオス復帰を目指し、南部から再征服を始めた。これに対しラオス臨時政府が、外務大臣兼軍事総司令官であったスパヌヴォン自ら先頭に立ち、ラーオ・イッサラ軍(自由ラオス)を率いて抗戦する。しかし敗れ、臨時政府はバンコクに移り亡命政府となる。この亡命政府をよそに、フランスはシー・サヴァン・ウォン国王による王国政府を樹立させた。バンコク急進派のスパヌヴォンらは、ラオス北部のラーオ・イッサラ武装勢力のもとに赴き1950年「ネオ・ラーオ・イッサラ」(ラオス自由戦線)を結成し臨時抗戦政府を樹立した。フランスは、反仏運動によりラオスの維持が困難となった1953年、ついにラオスの植民地支配を断念、独立を与える。そして、1954年ディエンビエンフーでの敗北によりヴェトナムに対する支配も放棄し、旧仏領インドシナに新たな時代が訪れた。


 ネオ・ラーオ・イッサラ(ラオス自由戦線)は、ネオ・ラーオ・ハクサート(ラオス愛国戦線)と発展的改編され、これがラオス革命による社会主義化を目指すパテト・ラオの中心となっていったのである。ジュネーヴ協定が結ばれ、ラオスの中立・独立・統一を保証した。ラオスの国土は、山岳部のパテト・ラオ支配地区(「解放区」)と、ルアンプラバン・ビエンチャンなど王党派の支配する領域の2つに、事実上分裂した。この直接の原因は、国内各派の確執や抗争であるが、背後で結びつく外国勢力の支援と干渉が主な原因があった。特にアメリカはフランスに代わって、多額の援助によって王国政府を懐柔してきた。一方パテト・ラオは、北ヴェトナムやソ連に支援されながら解放区の建設を着々と進め、「外国に従属しないラオ人のためのラオ人国家建設」を強く説いいて、王党派勢力が後ろ向きの懐古に浸っている状況の中で、ラオスが自給的な農村経済から資本主義を超えて一足飛びに「歴史の前線」に立ちうるマルクス・レーニン主義を全面的に打ち出していった。1975年にサイゴンが陥落したのを受けてパテト・ラオは一気に勢いづき、政権奪取へと進み、その年の12月、「全国人民代表者会議」で、臨時連合政府及ぴ政治顧問委員会の解体宣言がなされた。ワッタナ王は退位を強いられ、旧王党派の官僚はメコン川を越えて対岸のタイに大挙亡命した。こうして、パテト・ラオを中心とするラオ人民革命党の一党支配による社会主義国、ラオ人民民主共和国が樹立された。


ラオス人の友達がサウナを始めた、ラオストラディショナルサウナ、ハーブミストサウナの様なもので結構女性にも人気らしい、ちょっと気になるのは混浴と言うところくらいかな

Address
T: 856-21-242966
e-mail:laehonthai@gmail.com
Dong micng Village Unit 26
Dong micng Road
Vientiane Lao P.D.R



2013年9月23日月曜日

9月24日

薩摩遠き 
  墓の鎮めの 
        千草雨



2013年9月19日木曜日

あれから25年


1988918日国営ビルマ放送は国軍の全件掌握をアナウンスする
運動の直接のはじまりは、その年の3月、ラングーン工科大学の一部の学生が、体制に対して命がけの抵抗を始めたのがきっかけです。これにラングーン大学の学生が呼応し、大規模なデモに発展しましたが、治安警察によって発砲されたり撲殺されたり、警察車両内で窒息死させられたり、女子学生が獄中でレイプされたり、さまざまな弾圧を受けました。しかし、彼らは屈することなく運動を継続し、多くの大学生・高校生があとに続くようになり、同年8月には一般市民も合流するようになりました。

 1988年の8月後半から9月前半にかけてクライマックスを迎えた


9月18日、事態は急転直下、政権を離反したソウ・マウン率いる軍部が再度クーデターにより政権を掌握し再度ビルマ連邦へ改名した。総選挙を公約としたため、全国で数百の政党が結成される。軍部は国民統一党を結党し体制維持をはかった。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前の1989年に自宅軟禁された。







あれから25年、四半世紀である、遠い昔のようにも感じるがつい最近のようにも感じる。
当時ビルマなどには全く関心がなかった、思い出してみると1988年この年の12月に初めてソビエト連邦に行った。
当時はロシアとはほとんどの人はそう呼んではいなかった、ソ連と呼んでいた、モスクワなどは統制は取れて規律もしっかりしていたようには見えた、夜になると町中のいたるところには、軍警察がカラシニコフをぶら下げて守っていた。
しかし食べ物は無かった、ひょっとしたら当時のビルマより貧しかったのかもしれない。

88運動のメンバーは今もなお闘っている、当時とは状況も変わったビルマも夜明けも近いような気もする、あれから25年である。

写真はイラワジ報より転載









2013年9月10日火曜日

忙しくてもあなたと飲みたい!

昨年度ベトナムのコーヒー輸出高は、2012年度にブラジルを抜き、世界第1位のコーヒー輸出国となった。生産量は依然としてブラジルが首位に君臨しているとはいえ、ベトナムは世界第 2 位であり、コーヒー生産・輸出大国である。

以前はベトナムもけし栽培などが横行していたが、ここの所コーヒー価格の上昇もあり、違法栽培はかなり少なくなっている。


タイ王室プロジェクト
タイ王室、メイ・ファー・ルアン財団が行う貧困および麻薬撲滅のための取り組み。ここはかつてゴールデントライアングルと呼ばれ、ケシの一大生産地でアカ族やミャオ族などの少数民族が暮らす土地は麻薬栽培による麻薬中毒、貧困、暴力、人身売買などの拠点でした。そこに現国王の母君ソンワーン皇太后がコーヒーやランなどの栽培、陶芸や観光への転換支援策を始動。現在は高品質のコーヒーの産地となりました。今ではジャワやスマトラなのに負けないくらいのコーヒーが生産されるようになりました。

アフリカや南米に比べるとアジアのコーヒーは各下に見る傾向があるが、私が行くドイチャン(山の名前)では、苗木はハワイのコナ地方から持ってきて現在では生産量もかなり増えている、最高級コーヒーともいわれるシベットコーヒー(ジャコウネコ、コピルアック)などのコーヒーも取れる。

そして一番大事なのが。海外からの買い付けもかなりあるが、地産地消と言う事ではないだろうか、タイの人がここ数年コーヒーをかなり消費するようになってきている、ベトナムに比べるとまだ少ないだろうが、タイ人もコーヒーを選ぶような時代に来ている。

又これは広大な土地が残っているミャンマーでも成功するのではないかと思っている、現金収入が得られればけし栽培など止められるのではないかと思っている、勿論民度の問題もある、教育が不可欠なのは勿論なのだが、地域のリーダーの意識改革が必要だ。

ミャンマー人がコーヒーを飲むようになれば、おのずと麻薬も減ってくるようになるのではないか?


「忙しくてもあなたと飲みたい!」ミャンマーにもそういう時代が早く来ることを祈る!!




2013年9月9日月曜日

泰緬鉄道開通70周年 機関車C5631号からのメッセージ



元鉄道隊・菅野廉一と鉄道研究家・塚本和也が伝える「出征C56」の記録

平成2597日(土)~1027日(日)

時間:午前9時~午後430分(入館は閉館の30分前まで)
場所:靖國神社遊就館・本館広間特設ギャラリー