2009年5月1日金曜日
君が代の 安けかりせば かねてより 身は花守となりてんものを
「我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし 桜島山」
平野國臣
安政5年(1858年)6月、島津斉彬の率兵上洛の情報が北条右門から入り、国臣は菊池武時碑文建立願いの名目で上京。ところが7月に斉彬は急死し、率兵上洛は立ち消えとなった。国臣は京で北条右門を通じて斉彬の側近だった西郷隆盛と知り合い、善後策を協議、公家への運動を担当することになった。国臣の志士活動のはじまりである。その後、国臣は藩主への歎願のために福岡へ戻る。
結局、西郷たちの工作は失敗し、幕府から逮捕命令が出された勤王僧月照を薩摩へ逃そうとするが、藩情が一変して難航。筑前で国臣は月照たちと合流し、供となって薩摩へ向かった。国臣と月照は山伏に変装して、関所を突破し、11月にようやく鹿児島に入った。藩庁は西郷に月照を幕吏へ引き渡すべく、東目(日向国)への連行を命じる。暗に斬れという命令であった。西郷は月照、国臣とともに船を出し、前途を悲観して月照とともに入水してしまう。月照は水死するが、西郷は国臣らに助け上げられた。国臣は追放され筑前へ帰った。
12月に近衛家へ機密文書を返すために再び京へ上る。京では安政の大獄が吹き荒れていたために、翌正月に備中国連島へ隠れ住んだ。同年12月に下関の豪商白石正一郎邸へ移る。ここで水戸藩士や薩摩藩士と大老井伊直弼暗殺計画を話し合った。翌安政6年(1859年)3月、井伊大老暗殺の機が熟したと感じた国臣は掘次郎とともに福岡へ戻り、藩主黒田斉溥へ大老が暗殺されれば大乱となるから薩摩藩との連携と攘夷のための軍備の充実を求める建白書を提出。3月3日に桜田門外の変が起こり、井伊直弼は水戸藩士と薩摩藩士によって暗殺された。
国臣は下関の白石家で一挙を知り、同志と祝杯をあげた。一方、福岡藩庁は驚愕し、事前に井伊暗殺を知っていた国臣の捕縛を命じた。国臣は捕縛を逃れるために逃避行に出た。薩摩へ入国しようとするが叶わず(なおこの際桜島を謳って「我が胸の燃ゆる思いにくらぶれば煙は薄し桜島山」と詠んだとされる)。9月に肥後国高瀬の松村家に庇護され、久留米の勤王志士真木和泉と国事を談じる。両者は意気投合して、翌年には国臣は真木の娘のお棹と恋仲になる。
村田新八らの手引きで薩摩へ入ることに成功するが、国父島津久光は浪人を嫌い、精忠組の大久保一蔵も浪人とは一線を画す方針で、結局、国臣は退去させられることになった。失望した国臣は「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」と詠じている。
西郷と平野の関係を語る上で、欠く事の出来ないのは、月照の薩摩入りでしょう。
京都清水寺成就院の住職を勤めていた僧・月照は、公家の近衛家と薩摩藩の仲介役として、西郷らと共に朝廷方面での運動に活躍しました。しかし、井伊直弼が行った「安政の大獄」により、月照もその身が危険となったのです。
幕府の探索の手から月照を守るため、西郷は月照を薩摩で匿うことを計画しました。西郷は月照と共に京を脱出し、下関に到着した後、月照の身柄を筑前博多 近郊に住む同志の北条右門(ほうじょううもん)に託し、急遽先行して薩摩に戻ることにしました。月照の薩摩入りの下工作をするためです。しかし、西郷が出 発した後、事態は急変しました。幕府が派遣した京都町奉行支配の目明し二人が、月照の後を追い、博多に潜入してきたのです。
このまま月照が博多に留まっているのは危険と感じた北条は、西郷からの連絡を待たずに、月照を先に薩摩に潜入させるのが良いと考え、上座郡大庭村へ月照 とその下僕を脱出させました。しかし、月照らの力だけで薩摩に行けるはずがなく、誰か月照の供をして薩摩に潜入してくれる頼もしい人物が必要だと、北条は 感じていました。
「こんな時に、平野どんが居てくれれば・・・」
北条の頭の中には、平野国臣という人物が浮かんでおり、北条は、彼しかこの大役を果たせる人はいないとも考えていました。
平野国臣は、筑前黒田家に仕える足軽の次男として生れましたが、大きく変動する時代 の流れに触発され、志を持って諸有志と交わりを持ち、積極的に国事運動に身を投じました。また、余談ですが、平野は奇抜な格好をよく好みました。髪を総髪 にし、刀は一昔前の太刀作りの刀を佩き、烏帽子・直垂を着て町中を歩くこともあったと伝えられています。こういった点だけを見れば、何か豪快な人物だけの ようにも見えますが、平野は和歌も嗜み、笛を奏でることも出来るのです。平野は博多男児に代表される快男児であっただけでなく、一種の風流人でもあったの です。幕末に活躍した数多くの志士達の中でも、平野は異例の人物であったと言えましょう。
平野と月照を匿った北条とは、非常に親しく付き合っていた間柄であり、平野は若い頃から京や江戸に出向くなど非常に旅慣れた人物であったので、北条は彼 に月照の供を頼みたいと考えました。しかし、その頃、平野は筑後・肥後方面に旅に出ており、不在でした。平野が不在であったため、北条は日々月照の薩摩入 りについて頭を悩ましていたのですが、突然その平野自身が旅の帰りに北条を訪ねて来たのです。北条の喜びは一通りではありません。一番手を借りたいと思っ ていた人物が、期せずして現れたのですから。
「これこそ、天の助けなり」
北条は平野に全ての事情を話し、月照の供をして薩摩に行ってくれないかと頼みました。その北条の頼みに、平野は二つ返事でこう答えました。
「ようござす。行きましょう。」
このように、平野という人物は、いついかなる時でも、清々しいほどの男気と勇気を発する人物なのです。
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