2009年5月15日金曜日
サンダカン日本人墓地
ヴァーナルレディース開幕
女子ゴルフの「ヴァーナルレディース」が、15日、福岡・福岡センチュリーGC(6594ヤード、パー72)で開幕。67で首位に並んだベテラン斉藤は6バーディー(1ボギー)をマークし「結果的にショットもパットもよかった」と笑顔だった。
年齢的に体力が落ちやすくなるのとは逆に「バーディーをとるゴルフでないと上位に行けない」と最近はドライバーで攻める頻度を増やしたという。2週前のク リスタルガイザー・レディースで3位になって以来、中高年ファンからの声援が大幅に増えたという41歳は「日曜日は優勝争いしたい」と言った。
賞金ランキング上位者が調子が良い中、15番のボギー1つの67ベテラン斉藤は、素晴らしい明日は又期待したい。
横峰も調子が良い様で、このままつ走てほしいものである。
サンダカン日本人墓地に行った
海が見える丘にあり、嘗て、からゆきさと呼ばれた日本人女性の墓が共同で立ててある、他の日本人墓地に比べて少々荒れ気味では有る、日本から訪れてる人も殆どいないであろうから、此の侭でいいのかと言う思いもある、管理は誰がしているのか分りませんが、サンダカンの日本人会辺りがきちっとしてもらいたいものである。
又この地にはオランウータンを見学しに来る日本人観光客が可也の数いるので、その辺をオルガナイズすれば何とかなるだろうに。
この地は映画でも有名になった、サンダカン八番娼館があった所で、女衒として有名な村岡伊平治などもこの地にいたと言う。
オランウータン
オランウータン(マレー語で「森の人」という意味)は、アジアで唯一の大型類人猿です。かつて東南アジアとインドシナに広く分布していたのですが、現在では、ボルネオ(カリマンタン)島とスマトラ島の低地熱帯雨林だけに生息しています。
体毛の密度は低く、長くて荒く、赤みをおびています。雄は成長すると体毛が非常に長くなり、また頬の肉ひだが大きく発達し、きわめて特徴的な顔になります。スマトラオランウータンは、ボルネオのものに比べると顔が細長く、体毛が長く少し淡い色をしています。
オランウータンは長い間、一種とされていましたが、現在では、ボルネオ島に生息するボルネオオランウータン(Pongo pygmaeus)と、スマトラ島に生息するスマトラオランウータン(Pongo abelii)の二種に分類されています。
オランウータンの減少
オランウータンの個体数は、100年前に比べると約92%も減ったといわれています。ボルネオオランウータンは現在,12,300~1万5,500 頭、スマトラオランウータンは9,200頭が生息しているとみられ、両島合わせて約3万頭足らずと推定されています。スマトラ島では、1993年から 2000年のわずか8年足らずの間に、個体数が半分になってしまったといわています。また、ボルネオ島に生息する個体も1980年以来60%減少してい ると考えられています。
密猟・密輸
ペットとしての違法取引も、オランウータンの生存を脅かす脅威の一つです。ワシントン条約によって輸出入の禁止されている動物であるにもかかわら ず、毎年いろいろな国で、オランウータンの密輸が摘発されています。特に台湾では、1995年か1999年にかけて、およそ1000頭ものオランウータ ンが違法に輸入されていたという報告もあるといいます。日本でも、1999年に大阪のペットショップで4頭のオランウータンが売られていたという衝撃的な ニュースがありました。
オランウータンは成長すると体が大きくなり力も強いため、売り買いされるのは、たいてい子どものオラ ンウータンです。子どもを捕まえるために、まず母親が殺され、しかも輸送される途中で、多くの子どもは死んでしまいます。生息地の保護、火災の予防、違法 取引の取り締まりなど、オランウータンを絶滅の危機から救うためには、多くの課題が残されています。
サンダカン八番娼館 望郷
天草で貧しい暮らしをおくる,元からゆきさんの姿と、その回想のなかで語られる過去のボルネオの
娼館での暮らし、そして現在のボルネオに残るからゆきさんの墓を訪ねるくだりなどが原作に忠実に描かれている。戦後、戦前期日本の恥部」として一般に知られることが少なかったからゆきさんの実像を描き出したとして、原作・映画とも、さまざまな問題を投げかけた話題作であった。元からゆきさんを演じた田中絹代は、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞した。
村岡伊平治
18歳で朝頼丸で、香港に渡り、中国各地、シンガポール、カルカッタ、香港、ハノイ、台湾、東インド諸島を転々とし、さまざま仕事、事業を経験した。宿屋、理髪店、女郎屋、行商、真珠貝採取、通訳、食堂、労務者の周旋、野菜栽培、製菓など。その後館や製紙、製菓などの事業を手がけ、その傍ら遊郭で働くからゆきさんの救出をしているうちに、自ら女衒となり、遊郭も経営る.彼の仕事は明治から大正初期までは隆盛を誇ったが、1919年(大正8年)に廃娼制度開始、1937年(昭和12年)に海外売春婦廃止令が出されてからは、事業も立ち行かなくなり、日本に引き上げ、神戸に住んだ。晩年は、妻の郷里である天草に帰り,そこで亡くなった。
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1 件のコメント:
Ciao from Italy
:)
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