2009年12月1日火曜日

七、十一時五十九分

「では乾杯!」と牟田口兵団長は水筒のコップになみなみと注いだジョニウォーカーの杯を高く差し上げた。兵団長を囲んだ記者団約十名はじつと兵団長の顔を見つめながら沈黙したまま杯を差し上げた。二月八日午後四時である。シンガポール島敵前渡過を後八時間後に控へて水も漏らさぬ作戦準備が終わると兵団長は我々を七二五高地の一角に集め

「シンガポール島は我が軍のこの熾烈な砲火に際して一言の応答もない。今や大要塞は赤ん坊の手を捻るにもひとしい。俺の後へ鼻歌でも唄ひながらついて来給へ」

 かういひ終る赦顔はニユツと綻び、乾杯の手は高く差し上げられた。

 前日来、この高地に約四キロの長さにわたつて布かれたわが巨砲陣がいまや最後の巨弾を大要塞に射ち込んでいるのだ。シンガポール島上空は六条の黒煙が立ち上がり空一杯に広がつてまるで黒い笠をかぶつてゐるやうだ。友軍機は或いは十機、或いは二十機、銀翼を輝かせつつ黒煙の中へ消えてゆく。数百門の敵高射砲陣地は狂つたやうに吠え続けジョホール水道を隔てて望んでもその弾幕ははつきりとみえ、われわれは「ナイヤガラ瀑布」と呼んでゐた。それはすでに弾幕といふがごときなまyさしいものではなかつた。「最後の瞬間」は刻一刻とこの島に迫り、乾杯を終へた我々が天幕を出ると肺然たるスコールが雷鳴と共にやつて来た。砲声と雷鳴と幕鳴とそれに黒煙と弾幕、地上に存在する一切の「戦慄」が狭い島の頭上にのしかかるのであつた。スコールが終わると前進が開始された。ジャングルを切り拓いた渡河点への路は没する泥濘で熱田。一月三十一日ジョホールバハルが堕ちてから十日間、この一握りのジャングルに取り付いた工兵隊は完全に岸からの偵察を遮蔽しながら木を切り倒して道を拓き渡河作業を続けて来たのであるが、十日間踏みつけけしたこの路は既に立派なものとなつてゐた。しかし一陣のスコールで一瞬にして泥海と化し、砲を分解して担ぐ兵隊の身は腰のあたりまで泥にめり込んだ。

 渡河点に小高い丘がある。夜空に砲火の閃光はまぶしい位に明るくなつた。シンガポール島の黒煙は夜になると紅蓮の焰と織り断末の炬火の粉を吹いて高く伸びてゆく。午後九時突如対岸のセレター軍港あたりから一本、更に西北岸から一條、二條のサーチライトが静かに交錯し我々の陣地を撫でるやうに照射し始めた。大砲以外の一切が沈黙し出した。兵隊はもちろん虫さへ息を殺してゐる。サーチライトはわれわれの渡河点のあたりでピタリと停まつた。五尺の筒を隠蔽するためにわれわれは一尺の草を求めた。真書のやうな明るみにうずくまつていながら、われわれは十日間の血のにじむ準備作業が白日の下にさらけ出されたことを口惜しく思つた。光を背中に浴びて、すーツと冷たいものが背筋を這ふ。やがて静かに吸い込まれるやうにサーチライトが消えた。

 夜は墨のよやうな暗さに還つて行つた。合言葉がささやくやうに逓伝されてくる。

「ヤマ」「カハ」である。「ヤマツ」と突然いはれてまごつけば瞬間に殺されるかもしれない。我々はお互ひにこの合言葉を練習してみた。部隊は、渡河点へ向かつて粛々と歩き出した。十日の苦闘に疲れたのであらう。工兵隊の勇士が折り重なり相抱きつつ路傍に眠つてゐる。間違つて足をぐつと踏みつけたけれど知らずに眠つてゐる。逞しい寝息が冷たい空気を蔽つてくるのみであたりは静寂である。

 われわれは又高地で休憩した。渡河点まで後五百米、スコールと夜露に濡れた丘の上に冷たい飯盒を取り出した。泥水で炊いた米はぷんと鼻をつく匂ひを持つてゐる。歯にしみるやうな冷たさ、しかしこれを食わなければもういつ飯にありつけるか分からない。缶詰めを切てウイスキーを一本空にする。「これが最後の、、、、、」といひかけ自分はハツと口をつぐんだ。お互いの神経を無用に刺激してはならない。

 最後の晩餐かもしれないけど、その言葉は自分の胸にしまつておこうと考へた。こんなとき誰しも不吉な言葉を使ふのをいやがつた。死の宿命が待つてゐるかも知れないけれども、何もこれをわざわざ自分で予告しなくてもよいではないか、こんな気持ちが兵隊にも新聞記者にもあつた。四十五サンチの要塞砲が口を開いて待つてゐる。対岸が静かであればあるだけ想念の責苦が息苦しいまでに襲い掛かつて来る。二口か三口、冷たい飯を掻きこむとリユツクを枕にゴロリとなつた。

 頭の真上に天の川がのしかかって来た。マレー戦線始めて見る美しい星である。誰かが南十字星を指さす。十字架を横にかさねたやうに見える四つの光に向かつて、いくつもの鐡兜は寄つて来る。「あれはオリオンだよ」誰かがいふと、またも鐡兜の群はそちらへ向く、無数の星が動き出した。流れ星の大群かなと思ふと、それは蛍の群であつた。急に虫の音が忙しく響き出した。我々の休憩してゐる、丘の小路を黒い列がいくつもいくつも通り過ぎる。靴の音さへしないこの幽霊の隊列は丘を下つて岸辺へ向かつて進む。先遣上陸部隊の出発が始まつた。やがて機関銃のやうに討ち続けてゐた歩兵陣地がピタリと沈黙した。あたりが嘘のやうな静けさに包まれた。

十一時五十九分である。



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グーグルブックスが凄いおきずきだろうか

グーグルはいちまい噛むのが好きだな

グーグルは世界征服を狙っているらしい 可能かも

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