2009年12月20日日曜日

タイ深南部のテロ死者、1―11月422人



タイのジャーナリスト団体「タイ・プレス・デベロップメント・ファウンデーション」によると、タイ深南部で軍の武器庫が襲われ大量の銃器が奪われた2004年1月4日から今年11月末までに深南部で発生したテロによる死者は3860人に達した。2008年は590人。今年1―11月は422人で、10月54人、11月44人だった。

 タイ深南部(ナラティワート、ヤラー、パタニーの3県とソンクラー県の一部)はマレー語方言を話すイスラム教徒が住民の大半を占め、タイ語、仏教徒が中心のタイでは異質の地域となっている。タイからの独立を求めるマレー系イスラム組織による武装闘争が2001年から激化し、連日のように銃撃、爆破事件が起きている。死体を燃やしたり、頭部、性器を切断するといった残虐行為も頻発している。犠牲者にはイスラム教徒住民も多く、治安当局による超法規的処刑を疑う声もある。

 テロは12月に入っても止む気配がない。16日にはヤラーでバイクに乗っていたイスラム教徒の男性と2歳の娘が武装グループに銃で撃たれ、さらに、2人を病院に運ぼうとした車が今度は治安当局から誤って発砲され、男性と娘が死亡、男性の親族らが負傷した。17日にはパタニーの食堂と道路脇で爆弾が爆発し、兵士、住民ら十数人が負傷した。

〈タイ深南部〉
 ヤラー、ナラティワート、パタニー、ソンクラーのタイ深南部4県にはもともとイスラム教徒の小王国があったが、約100年前にタイに併合された。現在も住民の大半はマレー語方言を話すイスラム教徒で、タイ語、仏教が中心のタイでは異質な地域となっている。イスラム教徒住民の一部は断続的にタイからの独立運動を続け、2001年に武装テロを開始。以来、イスラム教徒、仏教徒の双方の住民、兵士、警官ら3000人以上が銃撃、爆破などで死亡した。イスラム教徒側の死者も多く、治安当局者による超法規的処刑、報復テロなども疑われている。


大東亜戦争の開戦日12月8日未明日本軍がシンゴラの海岸に上陸した地点、現在の深南部ソンクラーの海岸である



古くは山田長政の時代から


山田 長政(やまだ ながまさ):通称は仁左衛門(にざえもん)
  天正18年頃~寛永7年、(15/9/0~1630)
山田長政は江戸時代前期にシャム(現在のタイ王国)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物で、1590(天正18)年ごろ駿河国沼津(駿府馬場町の紺屋の津ノ国屋、現在の静岡市)で生まれたと言われていますが、出身地については駿府、伊勢、尾張、長崎の諸説があります。駿府説が通説となっているようで、駿府の浅間神社近くの馬場(ばばん)町に染工(紺屋)を職業とする山田九平次という人物がいて、実子がなかったので、伊勢の人で伊勢神宮の御師(下級の神官でお札を諸国へ配って歩く)だった九左衛門友昭という人を養子にしました。その九左衛門のもとへ、3才の長政を連れ子にして再婚してきたのが、駿河国安倍郡藁科村(現静岡市)の寺尾家出身の女性(長政の母)で、尾張へ嫁して長政をもうけ夫に死別後に長政を伴って実家へ帰っていたのが再婚したのでした。駿府で長政がどのような生活をしていたのかについては明らかでない部分も多いのですが、学問を馬場町近くの臨済宗の名刹「臨済寺」(今川家の菩提寺)で学び、浅間神社前の宮ヶ崎にあった関口八郎左衛門という人の町道場に通って武芸を修行したといわれています。その後、駿府を飛び出し沼津で沼津藩主・大久保治右衛門忠佐のお抱えの駕籠かきの仕事をしていましたが、それも辞めて駿府に舞い戻った長政が、海外へ出て行くことを決意した契機としては、駿府郊外の久能の海岸で、清水港の遊び人(ちんぴら)を数人殺傷してしまって追われる身となり、警吏の追及を恐れて国外へ逃亡したとする説もあります。

1607(慶長12)年に家康が大御所として駿府城に在城し、駿府が日本の政治・経済の中心地となり活気にあふれた 「日本の大航海時代」の頃に少年時代を過ごした長政は、時の貿易奨励策で海外へ進出する商人たちに刺激されました。1610(慶長15年)年(1612年説有)に駿府の商人の太田治郎右衛門と滝佐右衛門の仕立てた台湾行きの御朱印船 「富士丸」に乗り込み清水港を出帆しました。台南でシャム行きの便船を待ち、長崎の豪商の木屋弥三右衛門の船でタイ王国アユタヤの日本人町に上陸しました。その後に、津田又左右衛門が筆頭の日本人傭兵隊に加わり、頭角を著しアユタヤー郊外の日本人町の頭領となりました。

アユタヤ王朝のソンタム国王の信任を得て、第三位身分のオークヤー(あるいはプラヤー)・セーナーピムックという官位・欽賜名を授けられて、1630(寛永7)年に南タイのナコンシタマラート県のリゴールの王に任ぜられました。そして、バンコックを通ってタイランド湾に流れ込んでいるチャオプラヤー川に入る船から税を取る権利を得ました。その後、ソンタム王の死去による後継者争いに巻き込まれました。そのいきさつは、ソンタム王の死後、長政はソンタム王の遺言に従い、シーウォーラウォン(後のプラーサートトーン)と共同でチェーターティラートを王にたてましたが、チェーターティラートはシーウォーラウォンに不審を抱き排除しようとして失敗して、シーウォーラウォンに処刑されました。その後チェーターティラートの弟のアーティッタヤウォンが王としてたてられましたが、あまりに幼すぎるので、官吏らはそのころチャオプラヤー・カラーホームスリヤウォンに昇進していたシーウォーラウォンが王位に付くことを願いました。長政はこれに頑固に反対したために、宮廷内で反感を買いました。この時、当時アユタヤの貿易を独占していた日本人勢力と対立関係にあった華僑の勢力の圧力が宮廷内におよび、長政は六昆(ナコーンシータマラート、Ligor)の防衛を理由にシーウォーラウォンによって左遷されました。

1630(寛永7)年に隣国との争いが生じたときに足に受けた傷に毒を塗られて死亡したといわれています。それは長政が1630年にパタニ軍との戦闘中に脚を負傷して、傷口に毒入りの膏薬を塗られたことによるのでした。毒を塗られたのは 「カラーホームの密命による」とオランダの史料が記していると伝えられています。また、1630(寛永7)年にリゴール(南タイのナコンシタマラート)でリゴールの王(知事)となった長政が前リゴール王(知事)の弟オプラ・マリットによって毒殺されたとの説も有ります。その後、ナコーンシータマラートの王(知事)は息子のクン・セーナーピムックが引き継ぎましたが、内部対立があり同じ日本人傭兵によって殺され、長政の死と同じ年にプラーサートトーン(シーウォーラウォン)が「日本人は反乱の可能性がある」として、シャイフ・アフマドらが率いるアラビア人、タイ族、華僑の組織する兵によってアユタヤ日本人町は焼き打ちされて滅びました。

長政は1626(寛永3)年に故郷駿府の浅間神社に戦艦図を奉納しており、この戦艦図は焼失しましたがその写しは今も神社に伝えられています。1842(天保13)年の馬場町絵図には、「ここが津の国屋九左ヱ門の屋敷なり」 と記してあり、そこが山田長政の生家跡とされています。


りゴール(Ligor)はナコーンシータンマラートの主要都市で、アユタヤ王朝下ではマレー半島貿易でにぎわう一方、度々離反するマレー系諸王朝(パタニ王国など)に対する防衛都市として機能しました。山田長政の左遷先もナコーンシータンマラートであり、ここでパタニ軍と交戦した後に、死亡したと伝えられています。ナコーンシータンマラートはチャクリー王朝 5代目の国現王ラーマ5世(チュラーロンコーン、1853~在位1868~ 1910 )のチャクリー改革の後、周辺の地域と共に県(チャンワット)を形成して、県庁所在地となりました。

タイ王国には、アユタヤでの日本人町の発掘や記念碑建立、1983年以降のタイ国側の要請による日本人町復元整備計画などがあったようです。



「キングナレスワン2」これにも長政が登場します

本来この物語からいえば長政が主役なんですが?

4 件のコメント:

副長 さんのコメント...

山田 長政公の生家跡と言うのが、文中にもある駿府浅間神社の参堂にありますね。

覚えているのは、すぐ近くにあった「タイ焼き屋」が美味い事だけですが?(笑。

東郷 さんのコメント...

「キングナレスワン2」と言う映画でも長政が画登場します。こちらでは大ヒットした映画です、ビルマ軍との戦いがあります、この戦いでもほとんどが長政軍が勝利を収めたのですが映画ではそのようになっておりません。
長政軍約800名でビルマ軍20000名を蹴散らしたと言う話にオランダの文献などにも書いてあります。内400名から500名が日本人だったと言う話もあります。当時関ケ原で敗れた武士が海外へ渡ったと言う話もありますが定かではありません。
その戦いが終わりリゴール王に命ぜられ夫人がいたにもかかわらず、王の末娘(14-15歳)を一緒にリゴールへ連れて行かされ負傷した足の傷に娘がもって行った薬これを塗り死亡したと言うことになっております。
この辺の死亡のいきさつは諸説ありますので、どれがほんとか定かではありません。

しかしながら関ケ原で敗れた侍が海外へ渡ったとはなかなかロマンがありますね真実ならば

副長 さんのコメント...

義経が、チンギスハーンだと云う説にも、ロマンがあります。

東郷 さんのコメント...

あれ義経じゃなかったんですか