2011年7月7日木曜日

慰霊の旅、インパール コヒマ

慰霊に行って参りました、バンコクからコルカタ(以前はカルカッタと言ってました)経由でインパール、コヒマです。

一つの航空会社で繋ぎますととんでもない時間を要しますので、航空会社を分けて飛びました、6月30日バンコクを出発をいたしまして、コルカタまで約2時間半、ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース空港に到着、恥ずかしながら、この時始めて正式なコルカタの空港の名前が ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース空港と言う事にきずきました、お恥ずかしい、と言いますのもインドにはこれより以前には2回しか行った事がなく、いずれもデリー経由でパンジャブ(パキスタンインド国境)だけだったもので何とも興味がなかった始末で有ります。

そう言えばネタジ(インドではほとんどの人はネタジと言う方がポピュラーです。)はここコルカタ出身だったなと思い出す始末で有りました。

ネタジと言いますとやはり日本と関係が深い、昭和18年4月ドイツのUボートでマダガスカル沖へ、日本の潜水艦伊29潜も4月27日の夜季節風が吹き荒れる沖合で会合、そこで二人のインド人が移乗した、その内の一人こそドイツに亡命していたネタジ・スバス・チャンドラ・ボースでありました。

潜水艦を乗り継いだネタジは北スマトラを経由して5月16日空路東京へ到着。
永野修身軍令部総長、重光葵外務大臣等と次々と面談した、この時尽力したのが頭山満先生であり、或いは中村屋のビハリ・ボースなどで有った。またこの時二人のボースは東京で会談し、ビハリ・ボースは「インド独立連盟(IIL)」の全権をチャンドラ・ボースに委譲した。6月10日には東条英機首相と会談、東條首相は16日の議会にチャンドラボースを招いた。その時のネタジの言葉が次の通り

「なつかしき同胞達よ、私は今、日本の東京にいる。東條首相は議会においてインド独立の為にあらゆる協力課する事を言明した。私は誓う。常にインド国民の先頭に立ち、祖国へ身命を捧げる事を。」

この東条英機首相との会談の時ビルマからインドへの進撃を進言した、その後のインパール作戦と続くのである。日本海軍の悪口は言いたくありませんが、太平洋で戦火を招くよりなぜにインド洋に出なかったのか、さすれば戦況も変わっていたのでは、と今更ながら悔やんでなりませんがここで私が悔やんだ所で如何し様も有りませんので。割愛

6月26日ネタジが日本を立つ際に日本国民へ次のメッセージを残している。

「日本の皆さん、今から四十年前に一東洋民族である日本が、強大国ロシアと戦い大敗させました。このニュースがインドへ伝わると昴奮の波が全土覆い、旅順攻略や日本海海戦の話題で持ちきりで、インドの子供達は東郷元帥や乃木大将を尊敬しました。(中略) 日本はこの度、インドの仇敵イギリスに宣戦布告しました。日本は私たちインドに対して独立の為の絶好の機会をあたえてくれました。」

日本の敗戦後、ネタジはソ連行きの飛行機を日本陸軍に要請、昭和20年8月17日、用意された九七式重爆撃機でサイゴンを飛び立ち台北の松山飛行場に到着再び大連へ向けて離陸した直後エンジン故障で墜落ネタジは火だるまになり全身やけどで死亡した。インド民衆は、また何処へ登場するのではないかと彼の死亡を長い間認めなかった。

と話は尽きませんが、コルカタには一泊し次の日にインパールへ、インパールへ行く第一は慰霊で有ります、日本軍の足跡をこの目で見て観たいと言うのも有ります。ビルマには何度も行きチンドウイン川からアラカン山系を望むところまでは行きましたが、インド側からはまだ一度も見た事が有りませんので、こちら側からもぜひ望みたいと言う事で来た次第です。

インドの粗悪でイリーガルな所をあげれば枚挙に暇がないので、ここでは良いところ二つあげます。一つは何処へ行っても食事が旨いところです、カレーがほとんどです。がビュッフェ形式(日本式にいえばバイキング)には参りました、8個のボールが並んでおりましたが全てカレーでした、カレーのビュッフェはお勧めできません。二つ目はインパールやコヒマ等の田舎でも何事にも支障なく英語が通じる、これはかなり滞在する上で重要な要素であります、おそらく私が暮らしておりますタイよりもインドの方が意思の疎通が簡単ではないかと思われます。

インパール空港の第一印象は、「おウ!ラオス、シェンクワンの空港よりも良いじゃないの」、因みにシェンクワンの空港は滑走路が砂利でした。

しかし何やら外国人は此方という看板、えっ?何で?コルカタで入国管理は終わったでしょう、と思いながら「私の許可がないと入域させません的みたいな事なんですか?」近着いて行くのは私一人である、入域許可が必要なのである、パスポートを出して書類を記入返却されたパスポートを見るとコルカタの入管とは別にインパールのスタンプが押されてある、外国人は入域許可が必要との事、益々気に入ったインパール。

マニプール州
 “宝石で飾られた土地”の意味を持つマニプール州の大部分は、森に覆われた山岳地帯で占められています。そのため珍しい鳥類や動物の宝庫であると同時に、メイテイ、クキ、ナガなど少なくとも29の部族が暮らす同州は、部族間の深刻な対立を抱えているほか、反政府武装組織の活動も盛んで、問題となっている。

 メイテイ、クキ、チンなど少なくとも29の部族が暮らし、人口の約3分の2は中央の盆地に集中。米を主とした農業と、マニプール手織綿布などの手工業が主要な産業です。

 マニプールはかつて、ヒンドゥー王国として独立していたが、19世紀、マニプール藩王国として英国の支配下に置かれた。第2次世界大戦中には、日本軍がインパール侵攻を試みたが失敗に終わっている(インパール作戦)。インド独立後、1949年、マニプール藩王国はインドに併合され、中央直轄地となり、1972年に州に昇格した。


インパールのホテルに到着後、ホテルで知り合った「ブダ君」が家に是非招待いたしますので来て下さいと煩いので、自宅を見学しに行きましたところ、目の前がインパールのインド将兵の墓地でありましたので此方でまずは慰霊。

ブダ君の家はと申しますと何に例えてよいかよく分かりませんが、日本では例えようのない様な見た事もない貧しいところでした、救いはブダ君もブダ君の家族も臆する事無く元気いっぱいと言うのが救いです。


明日は2926高地(通称レッドヒル)とロトパチン村で慰霊に参りたいと思います。


ホテルを朝出発いたしまして、2926高地を目指します。と言ってもものの30分で到着。

2926高地(通称レッドヒル)


第33師団第214聯隊主力は高地沿いに南西からインパールに迫っていた。師団命令を受け、5月20日、第1大隊はピシェンプールを、第2大隊はその北東方10キロの2926高地を攻略するため、それぞれが西方から突入した。この時点でわずかに残った214聯隊兵力の最後の力をふりしぼった攻撃だった。
しかし、英印軍の猛反撃に第1大隊は玉砕。第2大隊は2926高地制圧を目指すが、山頂と山麓から攻撃され21日に山麓に追い落とされる。その後9日間、孤軍奮闘したが玉砕。
ここで、第1大隊は残存380名のうち360名を失い、第2大隊は500名中460名が失われたという。将校は残っていなかった。 ここには、アジアで唯一の現地村民が作った日本兵の慰霊塔があり、毎年5月20日に慰霊祭が続けられてきた。
 ロトパチン村モへンドロ・シンハ村長は、この慰霊塔の建立に際し、次のように語っている。

「私達は日本兵がインド解放の為に戦ってくれた事をよく知っていました。私達は食糧や衣類を喜んで提供しました。ところが英軍がそれを知って阻止しました。日本軍は飢餓に追い込まれましたが勇敢に戦い、次々に戦死してゆきました。この勇ましい行為はすべてインド独立の為だったのです。私達は何時までもこの勇戦を後の世まで伝えていこうと思い慰霊塔を建てました。この塔は日本軍人へのお礼と、独立インドのシンボルにしたいのです。その為、村民で毎年慰霊祭を挙行しています」

レッドヒルという名称はロトパチン村の村民が、日本兵が赤い血を流した丘として名付けた。

奥の山の向こうが、日本軍の通った道(モイラン-ビシェンプール)


ロトパチン村の慰霊碑

ロトパチンの碑を守る会

正面

 「インパール作戦々没勇士之碑」


正面板

「英霊よこの地で安らかにお眠り下さい」


右側面

「天下泰平 国土安穏 願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆倶成佛道」

左側面

「於インパール作戦為散華日本兵建之 ー九七七年師走十二日 ロトパチン村民一同」

裏面

「赤丘に 我が明日のため骨埋む 日本男児に 今日ぞ捧げん(牧野財士)」


 慰霊塔横には、多くの戦死者をだした山砲第33聯隊(聯隊長 福家政男大佐) の英霊をまつる「山砲三三聯隊第三中隊戦歿者之碑」も同戦友会の手によって建立されている。画正面は少々石が剥がれ落ちていた、何とか破片を探してみるが辺りには落ちてませんでした。



慰霊の際バンコクから持参した熊本県護国神社より貰いました、神酒、福岡県護国神社より貰いました神饌、日の丸と陸軍軍旗と國の子評論社ステッカーを置き、黙祷の後君が代、海行かば斉唱、後に写真撮影、自分の写真を撮って貰うために、ドライバーのボボヒジャ君に撮影してもらう。何とも変な名前であるが本名なので仕方がない。

現在でもレッドヒルの対面にインド陸軍が守っている高地がある。



現地の者とも話したが、やはり無駄な戦いではなかったのであるインド独立を早めた一点においても無駄ではなかった、確かに現在では英印軍に敗れたと言うような事になってはいるが、チンドウイン河を渡ってアラカン山脈をこの砲を運んで三週間で倒そうとしたのである、砲は砲身を切り詰めた一式機動47ミリ砲(速射砲)インパール作戦では弾薬は一門につき120発のみ用意されていただけだった。

石の上に乗せて有ったんだろうと思うが、ボボヒジャ君と挙げて見るが二人で上がる様な重さではなかった。

現在では日本軍を蹴散らした世界最強のグルカ兵等と言われておりますが、補給の確保さえ確りしていれば、髭もじゃのグルカ兵などには負けていなかった等と思いにふける。

慰霊塔の横には、日本政府が作ったインド平和記念碑がある

厚生労働省 インド平和記念公園の概要
1 竣工年月日
平成6年3月25日

2 建立地及び面積
建立地 : インド マニプール州インパール市ロクパチン
面 積 : 約3,500m2

3 地域
インド(戦没者概数:30,000名)

4 碑の概要
慰霊碑は、菊竹清訓氏の設計による。
同碑は、インパール空港の南約11kmのインパール市郊外に位置し、山と田園に囲まれ、豊かな景観に恵まれた環境にある。
また碑の建立にあたっては、自然環境の保護から既存の林を保存するなど、自然と調和する施設となるよう考慮し、碑の両側に日印両国の友好を象徴するコンクリートの壁を屏風状に斜めに配置している。碑石はインド砂岩で造られ、屏風状の壁に囲まれた広場の奥に位置し、碑石の前に立って拝礼すると日本の方向を向くよう設計されている。

5 碑文
「さきの大戦においてインド方面で戦没した人々をしのび平和への思いをこめるとともに日本インド両国民の友好の象徴としてこの碑を建立する」

6 維持管理状況
厚生労働省が、マニプール州政府に委託して、慰霊碑の掃除、敷地内の除草、周辺植栽の伐採、巡回などを行っている。

7 備考
慰霊碑が建立されているマニプール州は、現在、入域制限区域となっていることから、現地に行く際には、ビザ申請とともに入域許可申請を行う必要がある。


国が立てた物は何とも心の篭らない素っ気無い物である、と私は感じました、しかしながら私が訪れていた時に現地の看護学生の集団がたまたま来ており、ホテルの従業員に聞いたところではインパールの学生は殆ど行った事が有るのではないかと言っていました。本人も学生の時に行った事が有ると言っておりました。日本人として多少なりとも安心いたしました。

この後ナガランド州コヒマ、ビルマ国境の「モレ」まで行って来ました。

英霊は靖国神社にいるとは思いますが、祖国のためと、万斛の想いを胸に秘めて散った英霊たちの御魂が私には確かに聞こえました、たまには面でも見せてくれよ、、、、

インド病にかかったのではないかと思いながら帰国。

1 件のコメント:

副長 さんのコメント...

御苦労さまです。