2012年1月25日水曜日
今年もコブラゴールドが始まります
Cobra Gold 2012
日本からも自衛隊が参加
朝雲新聞
タイ「コブラ・ゴールド12」に70隊員派遣
防衛省は2月7日から同17日まで、タイで行われる多国間共同訓練「コブラ・ゴールド12」に陸・空自隊員などを派遣する。
同訓練には日本のほか、米、韓、タイ、シンガポール、インドネシア、マレーシアなどが参加。自衛隊の参加は平成17年以来8回目で、今回は内局、情本、統幕、陸幕をはじめ、陸自から西方、即応集団、衛生学校、空自から航空総隊、支援集団、教育集団、空補本などから約70人が参加する。
期間中、国連平和協力活動などに関する実動訓練、指揮所演習のほか、人道・民生支援活動(医療)、海外で紛争が起きた際に邦人等を航空機で安全な場所に退避させることを想定した非戦闘員退避活動・在外邦人等輸送の実動訓練を行う。
既に米軍やタイ軍のCombat service supportが始まっております。
Exercise Cobra Gold
http://www.youtube.com/user/iiimefcombatcamera
Cobra Gold 2012, Chanta Buri 19 January 2012
Cobra Gold 2012: Rayong, 20 January 2012
期間中たまに見かけるグリンベレー帽の自衛隊諸君の姿は頼もしい。
2012年1月23日月曜日
2回目の正月とちょっとTPP
今年二回目の正月である、別に私は祝うなどという感覚はないが、支那風に言うと春節、日本風に言うと旧正月、日本は明治5年にグレゴリー歴を採用し近年では沖縄や奄美等で旧正月の催し物の等が残る所も多少はあるが殆どなくなっている。
タイに暮らしていますと間違いなく少なくとも3回の正月に出くわす、新暦の正月、春節、そして4月のタイ正月、これにイスラムの断食明けのハリラヤまで入れると4回、こちらは近くにムスリムが住んでいないせいか、余り実感としては無いのですが、間違いなく3回は訪れる。
この中で一番正月らしいというう物は、やはり4月のタイ正月ではないかと思います。交通機関も麻痺するし民族大移動といった感じでバンコクなどはもぬけの殻である。
それで旧正月の話ですが、タイ人には何ら関係はないのですが休んでしまう、そこはお祭り好きなタイ人、とそういう単純な問題ではなく、華僑が如何にタイに浸透しているか、一節には60から70%くらいは華僑の血が混ざっているのではないかと言われている。
そういう状態なので華僑の連中が休むと、必然的に全てが麻痺してしまう、商売や流通やその他、こうなって来れば関係ないタイ人も休まなければ仕方が無いという状態になってくる。おまけに春節は祝日ではなかったのであるが、首相が支那人のせいか、今年は祝日にしてしまった。
日本で昨今言われている「TPP」まさかこういう状態になるのでは?
相手国の都合で国全体が麻痺してしまう、それは商売に限らず文化や風俗民族までもが、タイにいるとしばしばそういうことに出くわす、国を代表する首相が支那人、日本人感覚で言うと有り得ない、すべての意見ではないが聞いたことがある。
「首相が支那人でなんとも思わないか?」
殆どの者は首相が支那人という感覚すら持ち合わせていないのである。
TPPには中国は入っていない、しかしアメリカだから、ましだとは全く思わない、戦後アメリカが遣ってきたことの総仕上げをやろうと思っているのではないか、ハロインを祝い、クリスマスを祝い、バレンタインデーを祝い復活祭を祝い、アメリカの祝日が日本の休みになる。
日本人はそんなものは似合わない。
アメリカが休めば仕方なく日本も休まなくてはならないという状況だけは避けたい。
2012年1月15日日曜日
アラカンの桜
「桜の花が咲いているぞ」
「いい加減にせい。ここはアラカン山系だぞ。お前、おふくろが恋しくて目が霞んできたな」
「上等兵殿のアレはほんとに桜ですか」
「うん、オレの目に狂いはないぞ」
「見たいな」
「よし、オレが取ってきてやろう」
純情で、母を恋しがり、望郷の念もひとしおだった甲藤は、「本当ですか」目を輝かせていた。
しかし約束は果たされぬままであった。私は彼亡き後でも約束を果たしたかった。桜と思われる木はフォートケアリにセリ取りに行った時チン人が侵入を拒んだ裏山に一本あるだけであった。
(インパール戦記、アラカンの桜より)
アラカン山系にも桜と思しきものがあるようです。
アラカンの桜とは関係ありませんがタイにもこれほど多くの桜が咲いているのは初めて観ました。時期が少々遅かったのでしょうかかなり花は落ちていましたが、まだ見れるものもありました、しかしタイで桜が見れるとは山奥で一人感動しておりました。
私は専門家ではありませんので果たしてこの花が桜なのかどうなのかはわかりません、地元の人に聞いてみますと間違いなく桜というのです、またこのドイメーサローンでは12月末から1月初頭にかけて毎年桜祭りをやっているということでした、うーん、あまり聞いたことがないのですが、例えあったとしても、近所の人は来るであろうがバンコクからは中々来ないでしょうね、チェンライ市内から山道を70キロほど登っていった所にあります。
このドイメーサローンは国民党の残党の村と言うことで有名です、残党の村は至るところにあるのですが、特に有名な村である。
村は旧正月に向けて至る所に漢字がずらっと並んでおりますし、小学校や中学校の名前や他には標識などは全て漢字です。
現在はお茶の生産で有名ですが以前はこの辺りはケシの栽培で有名でした。
ドイメーサローンまではちゃんとした舗装道路がありますが、ちょっと道を間違えますとこんなところに行ってしまいます。
私としては普段あまりバイクに乗り慣れていないので、この橋を渡ろうか渡るまいか躊躇していて子供たちに笑われている様子、縦揺れだけならまだしも横揺れもしてるんですよこの橋。
引き返すととんでもなくロスをするので、結局は渡ったんですけど。
1月12日チェンライを朝出発しまして、国境の町メーサイへ、ビルマ側はタチレクという街でここへは何回も来たことがあるのですが飛行場を利用するのは初めてです。
掘っ立て小屋みたいな空港で、予約もタチレクの国境の旅行社で飛ぶか飛ばないか確認しないと分からないという状況、こんな物を利用する人がいるのだろうかと思いましたが結構利用しているんですね、しかしながらタチレクーマンダレー間のチケットを受け取り、ようやく安心、しかしチケットを眺めてみると11時40分発の飛行機がマンダレー到着は4時になっている、「何で4時間もかかるんだよ」飛行機を見てみると双発のプロペラ機、いや其れにしても時間がかかりすぎる、職員に聞いてみるとへーホー経由だと言う、へーホー?何処かわからないが仕方ない。これに乗るしか無いのである。もうチョット合理的にやる手段があるのではと思いましたが、私が知らないのか、向こうが合理的でないのか、その辺は深く考え無い事にしました。
次の日にマンダレーからチンドウイン川の支流へ、熊本県護国神社より承りました神酒を持参いたしておりましたので(今回は没収はありませんでしたが)ボートで向こう岸の方へ行き、ボートの上で黙祷の後、君が代と海行かばをIPADで流しながら斉唱
後に神酒を川に流してきました、目頭を熱くしている私をボートの運転手はポカーンと眺めていました。
この後大急ぎでマンダレーに帰り、帰りの飛行機を予約いたしましてチケットはやはりへーホー経由4時間、もう二度とこの空港は利用しません。
インパール戦記ではアラカンの桜は何かの花と見間違えていると書いてありましたが、確かにインパール作戦は3月に始まっているので、もしこの地方で桜が咲くとしたらやはり12月もしくは1月なのではという気がします。しかしここタイで桜が咲くのならばアラカンでも勿論咲くでしょうし、インパールでも間違いなく咲くでしょう、アラカンやインパールはここよりずっと寒いのだから、と素人考えなのですが、、、、、、?
2012年1月14日土曜日
大使館からのお知らせ(バンコクにおけるテロ脅威)
タイ在留邦人の皆様へ
バンコクにおけるテロ脅威に関する注意喚起について
(2012年1月14日現在)
1 14日,タイ警察は,テロの危険性が高い場所として,イスラエル大使館(スクンビット19,オーシャンタワー2の25階に所在),カオサン通り,スクンビット22を挙げて警戒を強化している旨発表しました。
2 バンコクにおけるテロ脅威に関する注意喚起については,昨日,在タイ米国大使館も「多数の西側の観光客が集まる公共の場所を訪れる際には十分注意することが求められる。」旨の緊急メッセージを発出しております。
3 つきましては,在留邦人及び旅行者の皆様におかれては,引き続き,最新の情報を入手するように努めていただくとともに,大勢の人が集まる場所等においては周囲の状況に注意を払い,不審な状況を察知したら,速やかにその場を離れるなど十分注意を払ってください。
在タイ日本国大使館
○領事部
電話:(66-2)207-8502、(66-2)696-3002(邦人援護)
FAX :(66-2)207-8511
日本大使館もアメリカ大使館の情報を垂れ流すだけで、如何なものかと思うのですが、一般的に日本大使館は情報が無いと思われがちですが、情報は持っているんです、しかしその情報が何なのかが解っていないのです。
またこれをただ垂れ流すだけの日系メデイア、話になりませんね、日本の新聞と書いてることは全く同じだから、こんなものは信用できません。
タイ政府はこれに反論している、 タイ地元紙によると、チャルーム副首相は、国家警察本部が現在不審人物とされるヒズボラのレバノン人を拘束しており尋問中であるとし、警察の情報が正しければテロが発生することはないと語っている。正月前に情報を得ており、独自に捜査を進めていたとのこと。
また法務省特別捜査局(DSI)ターリット局長は、現時点でそのようなテロが行われる事態にはならないと大使館のテロ懸念を否定している。
これは別に政治的背景があるのだと思いますよ、レムチャバン港に先週空母リンカーンが入港しています、また2月5日からはコブラゴールド2012が開催されます、アメリカとしては今後アジア政策においてタイを重要拠点とし軍事政治共に睨みを効かせたい、ところが今の女首相は中国人であり、中国べったり政策をを取ろうとしており日本やアメリカなどは二の次なのです、ここに来てヒズボラのいい材料があり、アメリカお得意の大変だ大変だ商売の如きプロパガンダ、どちらが良いのかよくわかりませんが、テロというならばタイ深南部を何故に報道しないのか、今年にはいり既に何十人も死んでいるというのに?
バンコクにおけるテロ脅威に関する注意喚起について
(2012年1月14日現在)
1 14日,タイ警察は,テロの危険性が高い場所として,イスラエル大使館(スクンビット19,オーシャンタワー2の25階に所在),カオサン通り,スクンビット22を挙げて警戒を強化している旨発表しました。
2 バンコクにおけるテロ脅威に関する注意喚起については,昨日,在タイ米国大使館も「多数の西側の観光客が集まる公共の場所を訪れる際には十分注意することが求められる。」旨の緊急メッセージを発出しております。
3 つきましては,在留邦人及び旅行者の皆様におかれては,引き続き,最新の情報を入手するように努めていただくとともに,大勢の人が集まる場所等においては周囲の状況に注意を払い,不審な状況を察知したら,速やかにその場を離れるなど十分注意を払ってください。
在タイ日本国大使館
○領事部
電話:(66-2)207-8502、(66-2)696-3002(邦人援護)
FAX :(66-2)207-8511
日本大使館もアメリカ大使館の情報を垂れ流すだけで、如何なものかと思うのですが、一般的に日本大使館は情報が無いと思われがちですが、情報は持っているんです、しかしその情報が何なのかが解っていないのです。
またこれをただ垂れ流すだけの日系メデイア、話になりませんね、日本の新聞と書いてることは全く同じだから、こんなものは信用できません。
タイ政府はこれに反論している、 タイ地元紙によると、チャルーム副首相は、国家警察本部が現在不審人物とされるヒズボラのレバノン人を拘束しており尋問中であるとし、警察の情報が正しければテロが発生することはないと語っている。正月前に情報を得ており、独自に捜査を進めていたとのこと。
また法務省特別捜査局(DSI)ターリット局長は、現時点でそのようなテロが行われる事態にはならないと大使館のテロ懸念を否定している。
これは別に政治的背景があるのだと思いますよ、レムチャバン港に先週空母リンカーンが入港しています、また2月5日からはコブラゴールド2012が開催されます、アメリカとしては今後アジア政策においてタイを重要拠点とし軍事政治共に睨みを効かせたい、ところが今の女首相は中国人であり、中国べったり政策をを取ろうとしており日本やアメリカなどは二の次なのです、ここに来てヒズボラのいい材料があり、アメリカお得意の大変だ大変だ商売の如きプロパガンダ、どちらが良いのかよくわかりませんが、テロというならばタイ深南部を何故に報道しないのか、今年にはいり既に何十人も死んでいるというのに?
2012年1月8日日曜日
軍馬
War Horse軍馬という映画が日本でも3月2日より公開される、スピルバーグ監督の作品で1982年に出版された小説『War Horse』を題材に、第一次世界大戦下、イギリスの農村に暮らす少年アルバートの愛馬であるジョーイが軍馬として売られ、フランスの戦地に送られてしまう。アルバートは徴兵年齢に満たないにもかかわらず、ジョーイと会いたいがため激戦下のフランスへ旅立つ。とこのようにまさに軍馬の映画なのであるが事も有ろうに邦題は『戦火の馬』と言う事になっている。日本では映画界も左翼が牛耳っている為、この様なことになるのだろうか、あまりにも情けない。スピルバーグ監督が泣いてしまう。
タイ中部のナコンサワンという街がある、チャオプラヤー川の源流があり昨年の洪水では街全体が1-2メートル冠水した街である。昭和20年8月タイ国に駐屯していた日本軍は連合国に武装解除を命ぜられ各地を転々としていた、昭和21年2月ナコンサワン及びナコナヨーク、タイ全土にいた日本軍軍馬1000頭以上が武装解除と共に銃殺された、それも友軍の手により銃殺されたのだ、軍馬といえども戦友である殺す側も殺される側もどんなに辛かっただろうか、馬を世話していた兵隊は何とか殺さずにすむように連合国側に嘆願したらしい、日本に連れて帰ることが出来なければ、タイにこのまま置いて貰えないか、しかし連合国側の返事は日本軍が使用していたものは全て廃棄、また軍馬や軍犬は銃殺と言うものだった、ここで言う連合国はイギリス軍の事である。
昭和17年3月有色人種によって大英帝国が初めて無条件降伏により武装解除を命ぜられた積年の恨みがあったのだろう、しかしあまりにも不条理である。
実は昨年ここには来たかったのですが洪水で同仕様もない状況でしたので、今に至りました洪水の心配をしていまして案の定、慰霊碑があるお寺もかなりのところまで浸水していました。
井上朝義氏(軍医、階級大尉、慰霊碑を建立された方)はこの様に語っている。
THAILAND-JAPAN FRIENDSHIP MEMORIALより
http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/page055.html
インパールとコヒマの戦いで日本軍は大きな敗北をした。これが原因で各地の戦闘でも破れた。応援の部隊をいくら送り込んでも取り返すことの出来ないものだった。相手も認めた強い軍と兵だったが、高い山、深い谷、そしてジャングルに阻まれたのだ。
将校朝義氏は病気が治り、急いでチェンマイに向かった。メーホンソンからアンプーパイを通って、チェンマイ県に入ったところがメーテンのバンメーマライで、そしてメーリンのノンホーンにある大きな基地に着いた。そしてここで日本の敗戦を知った。
その後、ナコンサワンに行った。ここでは、世話する馬が30頭いた。日本兵は武装解除させられて捕虜となった。その後ナコーンナヨークに行くために、イギリス軍の命令で馬を殺した。大きな穴を掘って馬をいれて、頭を銃で撃った。
日本軍が使うものはすべて処分された。
馬を殺したことはとても悲しいことだった。自分は悪いことをしてしまった。自分が感謝しているものを殺してしまった。本当は助けてあげなければいけないのに。そのときの馬の泣き声とその目は、今でもまぶたに残っている。イギリス軍には、馬を逃がしてくれと強く嘆願した。しかし相手は冷たく断った。これは戦争のルールだと。当時ナコンナヨーク県のカオチャゴでは、1千頭を超える馬が同じやり方で殺された。日本の馬はタイの中に残さなかった。
馬の世話をしていた兵隊はとても心を痛めた。胸がしめつけられるような思いだった。馬とは長い時間をすごしてきた。そして苦しいとき楽しいときも一緒に、戦争を乗り越えてきた。馬は自分の子であり友であった。馬は人を覚えていた、その匂いも知っていた、命令も理解していた。食べるとき、寝るときも、戦争で一緒に苦労した仲間だった。馬も人を愛していた、人も馬を愛していた。
銃で一発一発、馬の頭を撃った。馬は驚いて叫んだ。そして馬は、互いに隣にいる馬の目を見て泣いた。自分を撃った人は、私が好きで信頼している人だ。もしもこのことが人間だったら許されることなのですかと。なぜ自分を殺すのか、自分は何を悪いことをしたのか、裏切り者と!叫びたい気持ちだったのではないのか。
馬は戦争に行ったとき爆弾の音、銃の音に驚くことはなかった。こんな馬たちだったが、このとき初めて銃の音に驚き、そして今までに聞いたことのないような叫び声をあげて泣いた。馬は自分が殺されることが分かったのだろう。このときの泣き声は、馬たちの本当に悲しい泣き声だった。このとき日本の兵隊はみんな泣いた。そのまま埋葬した。そして馬が天国にいけるように祈った。
戦後も、このときの馬の泣き声が心の中にあった。40年経ってナコンサワンに来て、馬の法要を行い、そして慰霊碑を建てた。馬の慰霊と自分の償いのために。
井上朝義氏の忘れられない思い出より
奥に見える2頭の馬の慰霊碑
ここまで水が来た
少々荒れてはいましたがこれがお寺だからこのくらいですんでいますが、何処とも知れない所に建立していたらもっと朽ち果てていたでしょう、日本人もほとんど来ることが無いので馬も泣いているのではと思い、熊本県護国神社より頂いた神酒を持参し、一様ロンポー(住職)にお酒をかけて良いですかとお伺いして(タイのお寺では酒の持ち込みや飲酒は厳禁)、許可をもらい神酒を上げてきました。
この後ロンポーが日本の馬は酒も飲むんだねと笑っていました。
タイ中部のナコンサワンという街がある、チャオプラヤー川の源流があり昨年の洪水では街全体が1-2メートル冠水した街である。昭和20年8月タイ国に駐屯していた日本軍は連合国に武装解除を命ぜられ各地を転々としていた、昭和21年2月ナコンサワン及びナコナヨーク、タイ全土にいた日本軍軍馬1000頭以上が武装解除と共に銃殺された、それも友軍の手により銃殺されたのだ、軍馬といえども戦友である殺す側も殺される側もどんなに辛かっただろうか、馬を世話していた兵隊は何とか殺さずにすむように連合国側に嘆願したらしい、日本に連れて帰ることが出来なければ、タイにこのまま置いて貰えないか、しかし連合国側の返事は日本軍が使用していたものは全て廃棄、また軍馬や軍犬は銃殺と言うものだった、ここで言う連合国はイギリス軍の事である。
昭和17年3月有色人種によって大英帝国が初めて無条件降伏により武装解除を命ぜられた積年の恨みがあったのだろう、しかしあまりにも不条理である。
実は昨年ここには来たかったのですが洪水で同仕様もない状況でしたので、今に至りました洪水の心配をしていまして案の定、慰霊碑があるお寺もかなりのところまで浸水していました。
井上朝義氏(軍医、階級大尉、慰霊碑を建立された方)はこの様に語っている。
THAILAND-JAPAN FRIENDSHIP MEMORIALより
http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/page055.html
インパールとコヒマの戦いで日本軍は大きな敗北をした。これが原因で各地の戦闘でも破れた。応援の部隊をいくら送り込んでも取り返すことの出来ないものだった。相手も認めた強い軍と兵だったが、高い山、深い谷、そしてジャングルに阻まれたのだ。
将校朝義氏は病気が治り、急いでチェンマイに向かった。メーホンソンからアンプーパイを通って、チェンマイ県に入ったところがメーテンのバンメーマライで、そしてメーリンのノンホーンにある大きな基地に着いた。そしてここで日本の敗戦を知った。
その後、ナコンサワンに行った。ここでは、世話する馬が30頭いた。日本兵は武装解除させられて捕虜となった。その後ナコーンナヨークに行くために、イギリス軍の命令で馬を殺した。大きな穴を掘って馬をいれて、頭を銃で撃った。
日本軍が使うものはすべて処分された。
馬を殺したことはとても悲しいことだった。自分は悪いことをしてしまった。自分が感謝しているものを殺してしまった。本当は助けてあげなければいけないのに。そのときの馬の泣き声とその目は、今でもまぶたに残っている。イギリス軍には、馬を逃がしてくれと強く嘆願した。しかし相手は冷たく断った。これは戦争のルールだと。当時ナコンナヨーク県のカオチャゴでは、1千頭を超える馬が同じやり方で殺された。日本の馬はタイの中に残さなかった。
馬の世話をしていた兵隊はとても心を痛めた。胸がしめつけられるような思いだった。馬とは長い時間をすごしてきた。そして苦しいとき楽しいときも一緒に、戦争を乗り越えてきた。馬は自分の子であり友であった。馬は人を覚えていた、その匂いも知っていた、命令も理解していた。食べるとき、寝るときも、戦争で一緒に苦労した仲間だった。馬も人を愛していた、人も馬を愛していた。
銃で一発一発、馬の頭を撃った。馬は驚いて叫んだ。そして馬は、互いに隣にいる馬の目を見て泣いた。自分を撃った人は、私が好きで信頼している人だ。もしもこのことが人間だったら許されることなのですかと。なぜ自分を殺すのか、自分は何を悪いことをしたのか、裏切り者と!叫びたい気持ちだったのではないのか。
馬は戦争に行ったとき爆弾の音、銃の音に驚くことはなかった。こんな馬たちだったが、このとき初めて銃の音に驚き、そして今までに聞いたことのないような叫び声をあげて泣いた。馬は自分が殺されることが分かったのだろう。このときの泣き声は、馬たちの本当に悲しい泣き声だった。このとき日本の兵隊はみんな泣いた。そのまま埋葬した。そして馬が天国にいけるように祈った。
戦後も、このときの馬の泣き声が心の中にあった。40年経ってナコンサワンに来て、馬の法要を行い、そして慰霊碑を建てた。馬の慰霊と自分の償いのために。
井上朝義氏の忘れられない思い出より
奥に見える2頭の馬の慰霊碑
ここまで水が来た
少々荒れてはいましたがこれがお寺だからこのくらいですんでいますが、何処とも知れない所に建立していたらもっと朽ち果てていたでしょう、日本人もほとんど来ることが無いので馬も泣いているのではと思い、熊本県護国神社より頂いた神酒を持参し、一様ロンポー(住職)にお酒をかけて良いですかとお伺いして(タイのお寺では酒の持ち込みや飲酒は厳禁)、許可をもらい神酒を上げてきました。
この後ロンポーが日本の馬は酒も飲むんだねと笑っていました。
2012年1月3日火曜日
新年
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