2012年5月29日火曜日

ネタジスバス・チャンドラ・ボース記念館



ネタジスバス・チャンドラ・ボース

昭和184月ドイツのUボートでマダガスカル沖へ、日本の潜水艦伊29潜も427日の夜季節風が吹き荒れる沖合で会合、そこで二人のインド人が移乗した、その内の一人こそドイツに亡命していたネタジ・スバス・チャンドラ・ボースでありました。

潜水艦を乗り継いだネタジは北スマトラを経由して516日空路東京へ到着。

永野修身軍令部総長、重光葵外務大臣等と次々と面談した、この時尽力したのが頭山満先生であり、或いは中村屋のビハリ・ボースなどで有った。またこの時二人のボースは東京で会談し、ビハリ・ボースは「インド独立連盟(IIL)」の全権をチャンドラ・ボースに委譲した。610日には東条英機首相と会談、東條首相は16日の議会にチャンドラボースを招いた。

日本の敗戦後、ネタジはソ連行きの飛行機を日本陸軍に要請、昭和20817日、用意された九七式重爆撃機でサイゴンを飛び立ち台北の松山飛行場に到着再び大連へ向けて離陸した直後エンジン故障で墜落ネタジは火だるまになり全身やけどで死亡した。



チャンドラ・ボースの発言

「印度にとりましては、英帝国主義に対する徹底的抗戦以外に途はないのであります。対英妥協は奴隷化との妥協を意味するものである。奴隷化との妥協は決して之(これ)を行わざる決意を有するものであります」

チャンドラ・ボースの出身地たるベンガルに関連した事件に限っても、英国の圧制たるや筆舌に尽し難いものがある。

一八五七年のベンガル軍の傭兵(セポイ)が口火を切った「セポイの反乱」において、英軍は史上稀に見る大量虐殺を行ない、一八五七年九月のデリー侵攻後は破壊、虐殺、掠奪の限りを尽した。


そしてボースはこんな事まで言きっている。

「個人の生死は関係ない、生き延びてインドの解放を目撃できるか否かなどは私の意に介するところではない、唯一の関心事はインドが英米から解放されるという事実である」



現在の日本ではネタジスバス・チャンドラ・ボースの名前すら知らない人がいると思いますがアジアの英雄であり、インドの国会議事堂正面にはチャンドラ・ボースガンジー、ネルーの肖像画が上げられています。
中央がチャンドラ・ボース、右がガンジー、左がネルーです、インド人にとって如何に偉大な存在かが分かります。

この記念館はチャンドラ・ボースがドイツに亡命する前日まで居た住居です。ガイドブックなどには余り載っていないので観光客は少ないですがコルカタを訪れた際は是非一度訪問して下さい。

名称:Netaji Research Bureau 
住所:Elgin Road , Lala Rajpat Rai Sarani
電話:2475 6139
開館時間:11時~16時30分
休館日:月曜日











2 件のコメント:

副長 さんのコメント...

お帰りなさい。
密命ご苦労様でした。

東郷デューク さんのコメント...

色々と情報も得られまして実のある旅でした。
皆さんお疲れの様子でした。
随時ブログの更新をして行きます。