インパール南方ロトパチン村では毎年5月20日慰霊祭が行われている。
昨年は7月に訪れたので参加することが出来なかった、今年は慰霊祭に合わせての訪問である、事前の調査では現在慰霊祭は行われていないという話を聞いていた。しかし参加者だけでやればいいじゃないかということで、参加者だけでやる事に決定。
しかし人数は少ないがちゃんと執り行われていたのである、一人でも慰霊祭は慰霊祭です。
ヒンドゥーモンク(僧侶)一人の慰霊祭、モンクに伺ってみたところ年々参加者の数が少なくなり今では一人が多いということだ、村の方は村の入り口に慰霊碑があっても世代が変われば、どんどん風化して行くのかも知れない。
清掃の後、我々も英霊に黙祷の後、海行かば 斉唱 終わるころには子供やら村の人やら結構人数が増えていました。
又チェンマイから送ってもらいバンコクに二週間ほど寝かせた櫻会の桜を植樹。
管理人に植えてもよいかと尋ねる。
管理人曰く”はい、何処にでも植えてください、と慰霊碑のまん前二箇所を指差す。
一箇所は何も植えてなかったが、左の方は何か植わっているのである。
が管理人曰く’それは捨てていいです。
そう言うわけにも行かず敷地内の隅のほうへ植えさせてもらうことにした。
慰霊碑も少々崩れている部分もあったので、次回来た時はペンキの塗り替えなどやりたい旨管理人に伝える。
あまりにも落書きが酷過ぎる。
慰霊碑横のインド平和公園に行く、管理人が一緒ということもあり、この周りに桜を植えることも約束。
この三つの石は日本、インド、イギリスという意味らしい?日本政府が立てたものでよく意味がわからない。
このロトパチン村から南方へ数キロ行ったところがビシュンプールである。
ビシュンプールの戦い
昨年は7月に訪れたので参加することが出来なかった、今年は慰霊祭に合わせての訪問である、事前の調査では現在慰霊祭は行われていないという話を聞いていた。しかし参加者だけでやればいいじゃないかということで、参加者だけでやる事に決定。
しかし人数は少ないがちゃんと執り行われていたのである、一人でも慰霊祭は慰霊祭です。
ヒンドゥーモンク(僧侶)一人の慰霊祭、モンクに伺ってみたところ年々参加者の数が少なくなり今では一人が多いということだ、村の方は村の入り口に慰霊碑があっても世代が変われば、どんどん風化して行くのかも知れない。
清掃の後、我々も英霊に黙祷の後、海行かば 斉唱 終わるころには子供やら村の人やら結構人数が増えていました。
又チェンマイから送ってもらいバンコクに二週間ほど寝かせた櫻会の桜を植樹。
管理人に植えてもよいかと尋ねる。
管理人曰く”はい、何処にでも植えてください、と慰霊碑のまん前二箇所を指差す。
一箇所は何も植えてなかったが、左の方は何か植わっているのである。
が管理人曰く’それは捨てていいです。
そう言うわけにも行かず敷地内の隅のほうへ植えさせてもらうことにした。
植樹をされる櫻会大西代表
かなり弱っていた上枝を三分の二程切ってしまったので、心配である。管理人にくれぐれも水をやって下さいとお願いしてきた。
慰霊碑も少々崩れている部分もあったので、次回来た時はペンキの塗り替えなどやりたい旨管理人に伝える。
あまりにも落書きが酷過ぎる。
慰霊碑横のインド平和公園に行く、管理人が一緒ということもあり、この周りに桜を植えることも約束。
この三つの石は日本、インド、イギリスという意味らしい?日本政府が立てたものでよく意味がわからない。
このロトパチン村から南方へ数キロ行ったところがビシュンプールである。
ビシュンプールの戦い
第33師団(弓)中突進隊(作間連隊) 歩兵第214連隊長 (作間 喬宜 大佐)
ビシェンプール.攻略
19年 5月19日
師団は「インパール」に突入するはずの作間連隊を急遽「ビシェンプール」の攻撃に振り向け、笹原連隊は「ガランジャール」の敵をはねかえし「ビシェンプール」に突入し、南道路の戦車第14連隊と配属歩兵大隊(兵・祭)は「トルブン」を突破し「ボッサンパン」の部隊と「ビシェンプール」に突入する作戦計画を立てた。
「作間連隊は急遽「ビシェンプール」を攻撃し、的の後方を遮断すべし」田中参謀長から 師団命令(牟田口軍司令官の命令)
作間連隊の「ビシェンプール」攻撃計画
第1大隊(森谷大尉)名は「ヌンガン」山稜から平地に下り、インパール南道を東に越え「ビシェンプール」の北端より「シルッチャール」分岐点を確保し、敵後方連絡を遮断する。(兵力380名 重機関銃2 軽機関銃5)
第2大隊(末田大尉)は「ヌンガン」より北東に下り、「ビシェンプール」北方2kmの「パレンバ」および北方8kmの2928高地を占領し、インパール南道の連絡を遮断する。 (540名 重機関銃3 軽機関銃6 山砲3門(6発/1日))
連隊本部は連隊長直轄部隊で「ヌンガン」山稜を確保する。
(150名 連隊本部、乗馬小隊その他) 4~5破甲爆雷・小銃弾120発/人・手榴弾1発/人 食糧3日分
19年 5月20日
02:00 第214連隊第1大隊第3中隊長(村松大尉)が敵のバリケードを排除し三叉路の敵兵舎を攻撃し、兵300名・馬300頭を捕獲したが、敵の逆襲に遭い捕獲した兵馬を放棄し三叉路確保に努めた。
19年 5月27日
第1大隊の安藤中尉(副官)が連隊本部に報告に来る。「大隊長(森谷大尉)以下5名「ビシェンプール」東北角の 豪にいます。」とまた、「昨日の山守隊の攻撃も気づきませんでした」と本部では疑問におもう。
第2大隊(末田大尉)から無線が入る「「パレンバ」を確保しあり、インパール南道眼下に見るも、重火器全滅せるた め、これを遮断するに能わず、40名になるも士気さかん」
午後、敵は「パレンバ」に徹底攻撃をしかけてきた。
第2大隊(末田大尉)以下38名「パレンバ」部落北方から無線が入る「敵の攻撃は激烈、大隊の位置は危険に瀕す。この連絡を最後に無線機を破壊す。連隊の健闘を祈る。万歳」
19年 5月28日
第1大隊長森谷大尉が「ブンテ」に戻って来て、連隊本部に連絡してきた。連隊長は「大隊長がみずから連絡に来るとは何ごとか」と追いかえした。
岡本師団参謀が撤退の意見具申し、連隊長の同意のもと師団に意見書を提出
師団から「攻撃をやめ撤退を許可する」無電で命令がきた
「ビシェンプール」攻撃は終わり、第1大隊380名のうち17名・第2大隊540名のうち37名が戻った。作間連隊は山砲・重軽機関銃はほとんど無く人数も120名足らずとなった。
ビシェンプール南方2926高地を攻めた第33師団(弓)歩兵第214聯隊第2大隊540名のうち生還は37名であった、この部隊が一番インパールに近ずいた部隊である、またこの2926高地を日本人が多く血を流したことで地元民がレッドヒルと名付け毎年5月20日慰霊祭を執り行っている。
4 件のコメント:
ご苦労様でした。
仙台の、おじいちゃんも行ってたんですか。
ありがとう御座いました。
はい、行かれてました、平澤さんが一番元気が良かったんではないでしょうか。
夜、酒が入るとエンジン全開でしたよ。
30年前から、年取ってません(笑。
今回行ったマニプール州とナガランド州は禁酒州で酒を持参するように言っていたのですが、それも早々になくなり、御禁制の酒を買われていましたよ。(笑
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