2012年6月5日火曜日

テグノパールの戦い


インパール方面作戦記録には、山本支隊は3月26日インドビルマ国境モレを突破と書いてある、其処からテグノパールまではさほど距離は無いが、3月下旬に20インド師団と戦っている、此処は峠の山々を英印軍が全て守っているので、かなり苦戦したと思われる。




テグノパールから見たビルマ方面果てしなく山の向こうがビルマ領


テグノパールの戦い



右突進隊(山本支隊) 第33師団歩兵団長 山本 募 少将                                
          (編成地水戸)歩兵第213連隊(温井 親光 大佐)                      
 テグノパール攻撃
 
19年 2月 25日 

          インパール作戦準備命令      弓作命甲(第33師団命令)
命令{右突進隊は極力企図を秘匿しつつx-7日主力を以て「モーレイ」北方地区より一部を以て「ヤザジョウ」付近    より行動を開始し当面の敵を撃破し「ウィトウ」「モレー」付近の敵を撃滅したる後「パレル」付近を経て「イン    パール」に向い突進すべし。}
         長 歩兵団長 山本募 少将 
               歩兵団司令部
               歩兵第213連隊
命令{歩兵1大隊を基幹とする部隊(第2大隊(砂子田大隊))を以て「ヤザジョウ」北方地区より「ムアビ」付近を経    て「インパール」南方に突進せしめ状況により「ヘンタム」方向突進し中突進隊方面の戦闘に協力せしむる     の準備にあたらしむべし}
          歩兵第215連隊 第5中隊
          戦車第14連隊(軽戦車4輌欠)
命令{企図秘匿のため戦車連隊の「チンドウィン」河西方地区への進出は3月1日以降とし其の
   昼間行動を禁止す}
          独立速射砲第1大隊
          山砲兵第33連隊第2大隊
          野戦重砲兵第3連隊(第2中隊、第2大隊および連隊段列2分の1欠)
          野戦重砲兵第18連隊第2大隊および連隊段列2分の1
          工兵第33連隊の1個中隊
          衛生隊3分の1

19年 3月20日

山本支隊           第15軍の直轄となり、牟田口司令官の指揮下に入る

19年 3月下旬 
    
山本支隊 、テグノパールで第20インド師団と衝突

19年 4月 8日

テグノパールの陣地を第213連隊第3大隊800名で攻撃を開始した
 英印軍の砲撃や飛行機の爆撃が激しく連日の激戦で80人の生き残りだけとなった。

19年 4月20日 
              
テグノパールの陣地は山の上にあり戦車は一本道を並んで敵の的になるだけで有ったが支隊の命令で攻撃に行ったが敵の砲撃され、上田連隊長はやもなく退却した。
  戦車用兵の無能な指揮の山本少将は上田連隊長を臆病者と怒鳴りつけたが、支隊司令部は遠く後方にあり、テグノパールの前線を視察もしたことがなかった。

19年 4月28日
               
歩兵第213連隊連隊長代理の伊藤少佐は攻撃を実行する兵力がないため攻撃命令を実行しなかった。

19年 5月 8日

歩兵第213連隊連隊長代理の伊藤少佐と戦車連隊長の上田中佐を解職となり、テグノパール敗戦の責任を押しつけられた。  
上田中佐はビルマ方面軍司令部付きに転任命令。
 戦車第一四連隊 連隊長が 上田中佐 から伊瀬大佐に代わった。

19年 5月11日
               
テグノパールの戦車第一四連隊は山本支隊を離れ、弓師団に配属となりビシェンプールの総攻撃に急行を命令されアラカン山岳地帯を南にUの字迂回約600km開始した。



テグノパールの丘、というよりも山のてっぺん、此処で日本軍が陣を構えたものと思われる、現在はテグノパール地区の墓園になっている。


3年前日本の遺骨収集団が捜索をした模様、日本軍の装備品は出たが遺骨は出なかったそうだ。

未だご帰還叶わぬご遺骨がこの地区だけでも相当あると思われる、一日も早いご帰還を願う。
又この地区の案内をしてもらった地区長さんにも情報があれば何時でも連絡をお願いしますと頼んで後にした。









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