3月30日
サンシャーク村の入り口
3月26日サンシャークを落とした宮崎支隊はコヒマの南約30kmのトヘマ(インパールとウクルルの分岐点)に進んだ。30日にはトヘマを占領しコヒマ~インパール間の道路遮断する。
このコヒマ~インパール間の道路遮断は、ウ号作戦の中で最も重要な作戦で、ビルマを15日に出発した宮崎支隊はここまで2週間ほどで作戦遂行をしている。そしてこの後一週間足らずで要衝の要コヒマを陥落させたのである。
宮崎支隊はコヒマ占領は 270Kmを20日間で所定の目標を達成した。
しかしながらこの時英印軍は増強軍の先頭161旅団がディマプールに到着して、コヒマへ向い進軍していた。4月には英印軍の161旅団はコヒマにはいり、さらに1個大隊はトヘマに進出した。
161旅団の中には第3大隊の左突進隊で山岳戦では世界最強部隊と言われるグルカ部隊も加わっていた、グルカ部隊とこの後2か月間宮崎支隊は激烈な戦いをすることになる。
現在のトヘマ近郊
この作戦の困難さを、吉川正治は次のように説明している。
現在のコヒマ
「この作戦が如何に無謀なものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。インパ-ルを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg - 60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば凡その想像は付く。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する」。
このように移動手段がもっぱら徒歩だった日本軍にとって、戦場に赴くまでが既に苦闘そのものであり、牛馬がこの峻厳な山地を越えられないことは明白だった。まして雨季になれば、豪雨が泥水となって斜面を洗う山地は進む事も退く事もできなくなり、河は増水して通行を遮断することになる。