2014年3月30日日曜日

コヒマ~インパール間の道路遮断

3月30日
サンシャーク村の入り口

3月26日サンシャークを落とした宮崎支隊はコヒマの南約30kmのトヘマ(インパールとウクルルの分岐点)に進んだ。30日にはトヘマを占領しコヒマ~インパール間の道路遮断する。
このコヒマ~インパール間の道路遮断は、ウ号作戦の中で最も重要な作戦で、ビルマを15日に出発した宮崎支隊はここまで2週間ほどで作戦遂行をしている。そしてこの後一週間足らずで要衝の要コヒマを陥落させたのである。
宮崎支隊はコヒマ占領は 270Km20日間で所定の目標を達成した。

しかしながらこの時英印軍は増強軍の先頭161旅団がディマプールに到着して、コヒマへ向い進軍していた。4月には英印軍の161旅団はコヒマにはいり、さらに1個大隊はトヘマに進出した。

161旅団の中には第3大隊の左突進隊で山岳戦では世界最強部隊と言われるグルカ部隊も加わっていた、グルカ部隊とこの後2か月間宮崎支隊は激烈な戦いをすることになる。
 現在のトヘマ近郊

この作戦の困難さを、吉川正治は次のように説明している。
現在のコヒマ

「この作戦が如何に無謀なものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。インパ-ルを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg - 60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば凡その想像は付く。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する」。

このように移動手段がもっぱら徒歩だった日本軍にとって、戦場に赴くまでが既に苦闘そのものであり、牛馬がこの峻厳な山地を越えられないことは明白だった。まして雨季になれば、豪雨が泥水となって斜面を洗う山地は進む事も退く事もできなくなり、河は増水して通行を遮断することになる。







2014年3月7日金曜日

チンドウィン河を越えて

アラカン山脈遥か彼方がビルマ

昭和19年3月8日 第33師団はチンドウイン河を越えた。第15、第31師団は3月15日に続き、各数縦隊に分かれてインパールに向けて進撃を開始した。

日本軍兵力4万8900人、輸送部隊3万6000人の大作戦です。
 日本軍の牟田口中将の作戦は次の通りでした。
(1)第31師団は、インパールの北100キロのコヒマに進撃する
(2)第15師団は、東北方面からインパールに進撃する
(3)第33師団の山本支隊は、パレルからインパールに進撃する
(4)第33師団主力は、トンザンを経て南西からインパールに進撃する
(5)第44師団・第45師団は、アキャブ攻撃の陽動作戦にチッタゴンを目標とする
(6)ボースのインド国民軍は、第33師団主力の南にあるチン高地のハカ・ファラム地区の守備につき、その側面を援助する。第44師団・第45師団の陽動作戦に呼応してチッタゴン方面に進撃する
(7)山中の移動のため、重砲や野砲を持たず、山砲や重機関銃も規定の半数とし、3週間でインパールを攻略するため、食糧は20日分とする。

結局作戦中止命令が出たのは7月4日でした。

3月5日、ウインゲート准将率いる2個旅団は輸送飛行機83機・グライダー80機を動員して、北部ビルマに進撃しました。その数は15万人に達していました。ビルマ方面軍の飛行機は100機で、大部分がウィンゲート部隊用だったので、インパール作戦の地上部隊用飛行機は殆どありませんでした。

烈師団激戦の地サンシャーク



ウ号作戦(インパール作戦)によるインド方面戦死者、烈師団は1万1500名、弓師団1万2500名、祭師団1万2300名、内1万名以上のご遺骨が未だご帰還叶わず現地に埋もれている。日本政府は本気で探す気があるのだろうか、時が経つのを待って有耶無耶にするつもりではなかろうか、日本人全ては考えなければならない「有耶無耶にしたならば日本人ではなくなるのである」現在の日本の繁栄は万斛の想いを胸に秘めて散った御英霊の下にあるのです。