2014年3月7日金曜日

チンドウィン河を越えて

アラカン山脈遥か彼方がビルマ

昭和19年3月8日 第33師団はチンドウイン河を越えた。第15、第31師団は3月15日に続き、各数縦隊に分かれてインパールに向けて進撃を開始した。

日本軍兵力4万8900人、輸送部隊3万6000人の大作戦です。
 日本軍の牟田口中将の作戦は次の通りでした。
(1)第31師団は、インパールの北100キロのコヒマに進撃する
(2)第15師団は、東北方面からインパールに進撃する
(3)第33師団の山本支隊は、パレルからインパールに進撃する
(4)第33師団主力は、トンザンを経て南西からインパールに進撃する
(5)第44師団・第45師団は、アキャブ攻撃の陽動作戦にチッタゴンを目標とする
(6)ボースのインド国民軍は、第33師団主力の南にあるチン高地のハカ・ファラム地区の守備につき、その側面を援助する。第44師団・第45師団の陽動作戦に呼応してチッタゴン方面に進撃する
(7)山中の移動のため、重砲や野砲を持たず、山砲や重機関銃も規定の半数とし、3週間でインパールを攻略するため、食糧は20日分とする。

結局作戦中止命令が出たのは7月4日でした。

3月5日、ウインゲート准将率いる2個旅団は輸送飛行機83機・グライダー80機を動員して、北部ビルマに進撃しました。その数は15万人に達していました。ビルマ方面軍の飛行機は100機で、大部分がウィンゲート部隊用だったので、インパール作戦の地上部隊用飛行機は殆どありませんでした。

烈師団激戦の地サンシャーク



ウ号作戦(インパール作戦)によるインド方面戦死者、烈師団は1万1500名、弓師団1万2500名、祭師団1万2300名、内1万名以上のご遺骨が未だご帰還叶わず現地に埋もれている。日本政府は本気で探す気があるのだろうか、時が経つのを待って有耶無耶にするつもりではなかろうか、日本人全ては考えなければならない「有耶無耶にしたならば日本人ではなくなるのである」現在の日本の繁栄は万斛の想いを胸に秘めて散った御英霊の下にあるのです。



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