3月8日の第15軍33師団に続いて3月15日15師団及び31師団はチンドウィン河を渡り其々15師団はインパール方面31師団はコヒマ方面へと進撃を開始した。
「この作戦が如何に無謀なものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。インパ-ルを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg - 60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば想像は付く。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する」。
このように移動手段がもっぱら徒歩だった日本軍にとって、戦場に赴くまでが既に苦闘そのものであり、牛馬がこの峻厳な山地を越えられないことは明白だった。まして雨季になれば、豪雨が泥水となって斜面を洗う山地は進む事も退く事もできなくなり、河は増水して通行を遮断することになる。
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戦後双方の作戦計画を読んでみると、無謀とは言えない部分もある、牟田口司令官が無謀だったと言う意見は戦後大半であるが、私はそうは思わない、英軍特殊部隊チンデット部隊が出来たことを日本軍にできない事は無かったはずだ、制空権の問題で制空権さえあれば問題は無かったはずだ、しかしその制空権は無かった。
作戦立案をした参謀の問題でもある、そして牟田口司令官は戦後切腹して責任を取ればよかったものを、のうのうと生き永らえたと言うのが大問題だったのだ。
忘れまじ
異國に散りし
戦友偲ぶ
面影若く
われ老けにけり
歩兵第五十六連隊
昭和16年12月、大東亜戦争開戦とともにマレー侵攻作戦に参加(コタバルに上陸)。
シンガポール攻略戦ではブキテマ高地、シンガポール島西方要塞攻撃を担当。
シンガポール陥落後は、反転してビルマに向かう。
マンダレーを経てメイミョウに至り、メイミョウの防衛に当る。
昭和18年10月からウ号作戦、九号作戦に参加し、北部ビルマ各地を転戦。
昭和19年6月、第一次断作戦に参加。
昭和20年、メイクテーラー会戦に参加し、甚大な損害を受ける。
メイクテーラー会戦後は、後退してシッタン方面の防衛に当りながら戦闘に参加。
ニャンカン附近を防衛中に終戦を迎える。