2015年3月8日日曜日

チンドウイン河を越えて


昭和19年3月8日 第33師団はチンドウイン河を越えた。第15、第31師団は3月15日に続き、各数縦隊に分かれてインパールに向けて進撃を開始した。日本軍兵力4万8900人、輸送部隊3万6000人の大作戦です。 日本軍の牟田口中将の作戦は次の通りでした。
(1)第31師団は、インパールの北100キロのコヒマに進撃する
(2)第15師団は、東北方面からインパールに進撃する 
(3)第33師団の山本支隊は、パレルからインパールに進撃する
(4)第33師団主力は、トンザンを経て南西からインパールに進す る 
(5)第44師団・第45師団は、アキャブ攻撃の陽動作戦にチッタゴンを目標とする 
(6)ボースのインド国民軍は、第33師団主力の南にあるチン高地のハカ・ファラム地区の守備につき、その側面を援助する。第44師団・第45師団の陽動作戦に呼応してチッタゴン方面に進撃する 
(7)山中の移動のため、重砲や野砲を持たず、山砲や重機関銃も規定の半数とし、3週間でインパールを攻略するため、食糧は20日分とする。

インパール作戦準備命令

インパール作戦の起案
 南方総軍司令部では、ビルマ・インド国境方面の敵は弱く防衛も手薄であり、この機に乗じて東部インドを占領する計画を立てた。この作戦を二十一号作戦として8月6日に決定し、大本営の同意許可を得た。
南方総軍は9月1日第15軍に二十一号作戦の準備を命令した。

この時牟田口将軍は「国境の山地には道が無く後方からの補給が続かなくなり、大兵団を動かせないので作戦の実施は困難」とインド進攻作戦に反対であった。 桜井省三中将はさらに強く反対であった。

しかしなぜ牟田口中将が作戦遂行に傾いていったのか、それは182月英軍ウィンゲート准将率いる、所謂チンデット部隊がチンドウィン河を渡り北ビルマに浸入した。これに33師団は交戦し、かなり戦死者を出した。
敵は、飛行機から補給を受け北部のミッチナ付近の鉄道道路を破壊しつつ、イラワジ河を渡り中央部まで現れた。チンデット部隊は約3000人の部隊で日本の防衛体制の破壊と奪回作戦の偵察が目的で4月になると分散し反転し国境を越えて去った。

これに牟田口将軍は、チンデット部隊の行動に刺激され、ビルマ北部国境は通れるのに通れないと判断して、作戦に反対した自分を恥じた、又二十一号作戦は大本営発令ではなく南方総軍の立案だと本人は思っていたが、実は大本営の立案と言う事を知りさらに本人は恥じた、そしてこの時、緬甸方面軍が新設され、飯田中将がビルマ方面軍司令官に転出され、15軍司令官に牟田口中将が新たに転出された。


ウ号作戦準備命令
 昭和18年8月7日大本営から総軍にインパール作戦の準備を伝えてきた。順に総軍はビルマ方面軍にそして、第15軍に命令された。
8月12日には第15軍久野村参謀長を方面軍に呼びインパール作戦の方面軍の考えを説明し、第15軍としては了解し、完全に一致した。


この時牟田口中将以外、各師団長及び参謀は無謀すぎると作戦にはのる気ではなかった。


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