2014年9月26日金曜日

ペナン刑務所


ペナン憲兵隊事件とは、陸軍第5師団大隊が戦時反逆の華僑ゲリラ掃討作戦を行い、約1,000名を逮捕した。その後の日本側処置内容は不明であるが、1,000名以上を虐殺したとされ、歩兵大隊ではなく偶々残留させられていた憲兵分隊員が逮捕、訴追された。

粛清事件の証人は華僑であったが、法廷で粛清事件の証言を求められ「一切知らない」と答えて、検察を慌てさせたそうである。

  急遽休廷して、再開後に同じ華僑証人が「毎日死体が運ばれ、その数1,000人以上」などと詳細に証言し、これが死刑の決め手となった。

同掃討作戦において逮捕・処刑されたゲリラは、戦時重罪の戦争犯罪者であり、日本軍と同じ状況にあれば、世界中の軍隊が同じ作戦を実施し、同じ処罰をしたであろう事から、冤罪以前に不当裁判である。

山下大将がそうであったように、イギリスのリンチ裁判としか言いようがない、この様に無実の罪で散っていったBC級戦犯の処刑者は1000人を超えている。

ここにペナン憲兵隊事件で散っていった江草忠義憲兵伍長の遺書を紹介する。

46/12/17
  遺 書
父上、母上大変御世話様になりました。
今迄の数々の不孝お許し下さいませ。
考えてみますと戦争犯罪等と名義付けられ戦争裁判等といふ実に形式的一方的宣伝本位の裁判で味噌も糞も無く死刑と決定付けられた事に付いては飽く迄も残念であります。
然し軍人としての本分を尽した事が敗戦の結果斯くの如き情況に到ったものでありまして決して破廉恥罪等の如き恥づべき事で殺されるのではありませんから此の点絶対に御安心下さい。
此処に散って逝くことは大君の為であり国家の為であります。
皇国の復興を残存者後継者に依頼し且霊魂の不滅を信じ清く従容と散って逝きます。
喜んで下さい。
「最後迄磨き続けん大和魂」にて今迄日を送って参りました。
又是から何日あるか分りませんが是で進んで行き断じて心の動揺は生じませんから御安心下さいませ。
 思へば幼少時代軟弱で常に御心配のみかけましたが学校時代は御陰様で十一年皆勤で通し、入隊以来二年四ヶ月間勤務を一日も休んだことはなく教習隊時代マラリヤで一回発熱致しましたが休みませんでした。
刑務所に於ても病気にはならず現在は誠に立派な身体であります。
是皆御蔭のことと感謝致して居ります。何卒御安心下さい。
 次に命日は本日にして頂いてよいと思います。
後日執行された日が分りましたら其の日に変更して頂けば結構と存じます。
では追々年も重なること必ず必ず無理をせられないで御長命をお保ち下さい祈って居ります。

   たらちねの父母よやすらげ
       己が身は誠尽して花と散りせば







2014年5月23日金曜日

大使館からのお知らせ

タイ在留邦人の皆様へ

国軍による全権掌握宣言(クーデター)に伴う注意喚起
(2014年5月22日現在)

平和・治安維持指令部(POMC)は,本日午後4時30分をもって,
タイ国内全土において統治権を掌握した旨を宣言しました。
今後,このような状況下では,治安維持のために様々な規制措置が執られ,
在留邦人の皆様の生活にも影響が及ぶ措置が執られる可能性もあります
既に,大使館は,タイ政府関係当局へ邦人の安全確保等の申し入れを行っておりますが,
不要不急の外出は可能な限り控えて,冷静に行動し大使館からのお知らせ等関連情報には
十分注意をお願いします。


(問い合わせ先)
○在タイ日本国大使館
  電話:(66-2207-8502696-3002
  FAX :(66-2207-8511




22日夜9時頃のサイアムスクエアーの様子




2014年5月20日火曜日

大使館からのお知らせ

タイ在留邦人の皆様へ


 タイ国内治安情勢
                  (2014年5月20日現在)

1 報道によれば,戒厳令の発令を受け,陸軍は,タイ国内の次の場所
等に部隊を展開配置しているとの情報があります。

  陸軍展開場所(区)(備考)
1 パトゥムワン区(サラデーンからラチャプラソン)
2 バンナー区(バンナー・トラッド通り)
3 サパーンスーン区(ラムカムヘン通りと有料道路の交差点)
4 バンクンティアン区(ラマ2世通りソイ80付近)
5 タウィーワッタナ区(UDD集会場周辺)
6 ラクシー区(警察クラブ(ウィパワディ・ランシット通り))
7 ノンダブリー県ムアンノンタブリー群(タイコム社)

2 平和・治安維持司令部は,20日現在,反政府勢力(PDRC)及び
政府支持勢力(UDD)に対し,様々な場所への移動を禁止する措置を
執っているものの,これまで集会拠点としていた場所に留まることは許可し
ていることから,両勢力は,引き続き以下の場所で集会を継続しています。
(1)人民民主主義革命委員会(PDRC)
場所:首相府及び国連ビル至近のラーチャダムヌーン通り
(2)反独裁民主戦線(UDD:通称「赤シャツ・グループ」)
場所:バンコク都タウィーワッタナ区
(ナコンパトム県とバンコク都の境界;アクサ路とプッタモントン4路との交差
点周辺)

3 引き続き,デモ会場周辺における不測の事態のみならず,陸軍部隊
配置場所周辺での不測の事態が発生する可能性も排除されません。
つきましては,不用意にこれらの場所に近づいたり,深夜早朝の外出につ
いては,極力,避けるようご注意下さい。

(問い合わせ先)
○在タイ日本国大使館領事部
  電話:(66-2207-8502 696-3002
 FAX :(66-2207-8511

2014年4月8日火曜日

コヒマ占領


第31師団(烈)宮崎支隊 左突進隊

19年 4月 6日
左突進隊長の宮崎繁三郎少将から佐藤師団長はコヒマ占領の報告を受け、第15軍司令部に報告した。

19年 4月 7日
コヒマ東方のチャカバマの渓谷の烈)師団司令部の佐藤師団長に左突進隊長(宮崎繁三郎少将)の連絡将校がきて、「コヒマ三叉路高地上に敵陣あり直ぐに処置します」の報告。

東条参謀総長・南方軍・ビルマ方面軍・第15軍から祝電が届いたが別に牟田口司令官から「直ちにディマプールに突入すべし」の命令が来たが、コヒマの戦闘が激しい状態であった。

19年 4月 8日
河辺方面軍司令官は牟田口軍司令官から烈)師団に「ただちにディマプールに突入せよ」と命令をだした報告をうけ、師団のディマプールに突入命令を撤回させた。

師団長に牟田口軍司令官から
  「1・天長節までにインパールを攻略せんとす。
   2・宮崎繁三郎少将の指揮する山砲大隊と歩兵3個大隊をインパール正面に転進せしむ。
   3・兵力の移動は捕獲した自動車によるべし」
 の命令だがコヒマ三叉路高地にて激戦している最中であった。
   佐藤師団長は「兵力の転用は不可能なり」と拒否した。

この時宮崎支隊はコヒマのガリソン高地の争奪に日に2万発と言う砲弾を英印軍から浴びせられていた。


右突進隊(山本支隊) 第33師団

19年 4月 8日
山本支隊 、テングノパールで第20インド師団と衝突
テングノパールの陣地を第213連隊第3大隊800名で攻撃を開始した
 英印軍の砲撃や飛行機の爆撃が激しく連日の激戦で80人の生き残りだけとなった。

左突進隊(笹原連隊)  歩兵第215連隊

19年 4月 6日

第1大隊はインパール南道38マイル標識の地点に出た。


2014年3月30日日曜日

コヒマ~インパール間の道路遮断

3月30日
サンシャーク村の入り口

3月26日サンシャークを落とした宮崎支隊はコヒマの南約30kmのトヘマ(インパールとウクルルの分岐点)に進んだ。30日にはトヘマを占領しコヒマ~インパール間の道路遮断する。
このコヒマ~インパール間の道路遮断は、ウ号作戦の中で最も重要な作戦で、ビルマを15日に出発した宮崎支隊はここまで2週間ほどで作戦遂行をしている。そしてこの後一週間足らずで要衝の要コヒマを陥落させたのである。
宮崎支隊はコヒマ占領は 270Km20日間で所定の目標を達成した。

しかしながらこの時英印軍は増強軍の先頭161旅団がディマプールに到着して、コヒマへ向い進軍していた。4月には英印軍の161旅団はコヒマにはいり、さらに1個大隊はトヘマに進出した。

161旅団の中には第3大隊の左突進隊で山岳戦では世界最強部隊と言われるグルカ部隊も加わっていた、グルカ部隊とこの後2か月間宮崎支隊は激烈な戦いをすることになる。
 現在のトヘマ近郊

この作戦の困難さを、吉川正治は次のように説明している。
現在のコヒマ

「この作戦が如何に無謀なものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。インパ-ルを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg - 60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば凡その想像は付く。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する」。

このように移動手段がもっぱら徒歩だった日本軍にとって、戦場に赴くまでが既に苦闘そのものであり、牛馬がこの峻厳な山地を越えられないことは明白だった。まして雨季になれば、豪雨が泥水となって斜面を洗う山地は進む事も退く事もできなくなり、河は増水して通行を遮断することになる。







2014年3月7日金曜日

チンドウィン河を越えて

アラカン山脈遥か彼方がビルマ

昭和19年3月8日 第33師団はチンドウイン河を越えた。第15、第31師団は3月15日に続き、各数縦隊に分かれてインパールに向けて進撃を開始した。

日本軍兵力4万8900人、輸送部隊3万6000人の大作戦です。
 日本軍の牟田口中将の作戦は次の通りでした。
(1)第31師団は、インパールの北100キロのコヒマに進撃する
(2)第15師団は、東北方面からインパールに進撃する
(3)第33師団の山本支隊は、パレルからインパールに進撃する
(4)第33師団主力は、トンザンを経て南西からインパールに進撃する
(5)第44師団・第45師団は、アキャブ攻撃の陽動作戦にチッタゴンを目標とする
(6)ボースのインド国民軍は、第33師団主力の南にあるチン高地のハカ・ファラム地区の守備につき、その側面を援助する。第44師団・第45師団の陽動作戦に呼応してチッタゴン方面に進撃する
(7)山中の移動のため、重砲や野砲を持たず、山砲や重機関銃も規定の半数とし、3週間でインパールを攻略するため、食糧は20日分とする。

結局作戦中止命令が出たのは7月4日でした。

3月5日、ウインゲート准将率いる2個旅団は輸送飛行機83機・グライダー80機を動員して、北部ビルマに進撃しました。その数は15万人に達していました。ビルマ方面軍の飛行機は100機で、大部分がウィンゲート部隊用だったので、インパール作戦の地上部隊用飛行機は殆どありませんでした。

烈師団激戦の地サンシャーク



ウ号作戦(インパール作戦)によるインド方面戦死者、烈師団は1万1500名、弓師団1万2500名、祭師団1万2300名、内1万名以上のご遺骨が未だご帰還叶わず現地に埋もれている。日本政府は本気で探す気があるのだろうか、時が経つのを待って有耶無耶にするつもりではなかろうか、日本人全ては考えなければならない「有耶無耶にしたならば日本人ではなくなるのである」現在の日本の繁栄は万斛の想いを胸に秘めて散った御英霊の下にあるのです。



2014年2月22日土曜日

竹島の日


〜竹島は日本の領土です〜
222日は「竹島の日」です。
2014年(平成26年)は竹島の島根県告示から109周年です。

韓国による不法占拠から61年目です。



日本政府への思い

「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば

            煙はうすし 桜島山」


平野国臣