2009年9月3日木曜日

ムルデカとスカルノ大統領


ムルデカスクウェア

 ご存知のように、インドネシヤはイスラム国家ですが、元は大乗仏教の国でした。15世紀になって、アラビヤの商人が入ってきて、イスラム教をもたらしたわけです。大乗仏教はきわめて上流社会の哲学的教えを説いたのに対して、イスラム教はきわめて庶民的な民衆の宗教であったことが広まった理由です。

こうして、スマトラからジャワにかけて、一世紀のあいだにイスラムが席捲してしまったわけです。 それまでの大乗仏教の遺跡は、あとかたもなく破壊されたのです。
 
  16世紀の大航海時代になると、スペインとポルトガルが世界中に植民地を作っていきます。スペインから独立したオランダと、新興勢力のイギリスとの間で激しい戦いがはじまります。1824年に協定ができて、イギリスはマレー、オランダは今のインドネシヤを植民地とすることとなります。以後、オランダは会社をつくってインドネシヤを搾取する経営を続けます。
 
 その後インドネシア人も黙っていたのではありません、スマトラのアチェ州というところで、内戦がかなり行なわれています。オランダ軍はスマトラに軽便鉄動をひいて、時間をかけながら植民地化してきたわけですが、その頃、極東では日露戦争が起こりました。マラッカ海峡を通るバルチック艦隊の偉容をみたインドネシヤの人は、日本艦隊は簡単に負けるだろうと思っていた。

ところが、実際は大国ロシヤの艦隊が日本海で負けてしまったのです。これで日本に対する評価が変わってきました。同じ有色人種としてインドネシヤが、日本によって開放されることをひそかに期待し始めたのです。
 
 1941年に大東亜戦争がはじまり、期待された日本の南進がはじまり、まずシンガポールが2月15日に陥落したわけです。ついでマレー半島のペナンを占領したのですが、藤原機関というのが、東亜の人を白人の圧政から解放するというのを目的として行動していました。次はインドネシアに侵攻するするから、住民は協力せよとラジオで放送したわけです。

3月1日、今村中将率いる第16軍が、インドネシヤのジャワ島に上陸しました。オランダ軍は抵抗しましたが、結局2週間後撤退しました。 近衛師団は、住民の大歓迎をうけて進駐しました。今村師団は、ジャカルタで軍政をしき師団司令部をおきました。

 日本が最初にやったのは、オランダ軍に拘束されていた独立運動指導者の開放でした。その代表者が、後の大統領スカルノであり、ハッタ博士だったのです。日本はスカルノを優遇し、潤沢な資金を与えて、独立運動を援助しました。オランダ統治時代オランダは、一部の貴族富裕階級の師弟のみを留学させて、統治の協力者とさせ、一般の教育を怠ったため、殆どの国民は文盲でした。日本軍は、オランダ語を公用語から外し、全国の学校でインドネシヤ語を教えて、国語の統一をはかりました。
 
  オランダは、貿易品として煙草やゴムの栽培だけを行なわせ、決して米を作らせなかったのですが、日本は米作を奨励して、食料の自給をは図りました。さらに、日本軍はインドネシヤの独立を図るため、インドネシヤ人による軍事力の強化を応援し、ナショナリズム高揚のため、義勇軍を募集したのです。現地の若者の中に、愛国心が一挙にたかまり、志願者が殺到し、ジャワに3万5千、スマトラに8千人の義勇兵が集まりました。

 兵器は、かっての宗主国オランダのものが使われ、日本軍の兵舎で補助業務を行なう兵補も募集されました。さらに、青年道場を作って日本中野学校出身の教官により、厳しい訓練が行なわれました。これらの動きが、ムルデカの発端となっていきます。オランダ人は徹底した愚民政策をとり、インドネシヤ人をなかば奴隷のように使っていました。

「ムルデカ」とはインドネシア語で「独立」を意味する。

ムルデカ 17805 インドネシア独立と日本軍兵士

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