2009年12月8日火曜日

12月8日は大東亜戦争開戦記念日

外国から見た大東亜戦争の評価
今から遡る事68年。昭和16(1941)年12月8日、日本は、「皇国の興廃」(国家の存亡)と、アジア諸地域(「アジア諸国」では無い点に注意)の 欧米植民地支配からの解放を賭して「大東亜戦争」に突入。そして、開戦から3年8ヶ月後の昭和20(1945)年8月15日、日本は、昭和天皇の御聖断に より連合国に対する軍事的敗北を受け入れ、広大なアジア・太平洋地域を戦場とした史上最大の戦争は終結しました。その後、日本は米国に国土を占領され、国 体(国家体制)・憲法・歴史観・文化習俗等多岐に渡る大変革を強要され、そして・・・「生まれ変わり」ました。その結果、 戦前の日本は「悪」の一言で括られ、日本がアジア解放を賭して戦った大戦争「大東亜戦争」も、米国によって「太平洋戦争」と改称され、日本の戦争目的その もの迄も改竄捏造されてしまいました。しかし、日本が「皇国の興廃」を賭して戦った「大東亜戦争」に対しては、戦勝国史観「日本の戦争」=「軍国主義・侵 略戦争」等では決して無かったと考えている旧連合国側識者も少なからず存在しました。と言う訳で、今回は、大東亜戦争開戦記念日に因んで、「外国から見た 大東亜戦争の評価」と題して、その一部を以下に紹介したいと思います。

米国戦略爆撃調査団の報告
「日本の指導部が、国家の存亡に関わる利益の為にと固く信じて、(今次の)戦争を始めた事 は明らかである。これに対して、アメリカ合衆国は、単に自分達の経済的優位と主義主張を押し付けようとしたのであって、国家の存亡に関わる安全保障の為に 戦ったのでは無いと、アメリカ合衆国人は信じていた。」

サンティン(オランダのアムステルダム市市長・内務大臣)
「あなた方の日本国は先の大戦で負けて、私共のオランダは勝ったのに大敗をしました。今日の日本国は世界で一、二位を争う経済大国になりました。私達オランダは、その間、屈辱の連続。即ち、勝った筈なのに、貧乏国になってしまいました。戦前は「アジア」に大きな植民地(オランダ領東インド(蘭印)=ほぼ現在のインドネシア)が有り、石油等の資源・産物で、本国は栄耀栄華を極めておりました。しかし今では、日本の九州と同じ広さの本国だけになってしまいました。あなた方の日本国は、「アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない。アジアの諸民族に大変迷惑をかけた」と、自らを蔑(さげす)み、ぺこぺこと謝罪していますが、これは間違いです。あなた方こそ、自らの血を流して、アジア民族を解放し、救い出すと言う人類最高の良い事をしたのです。

何故ならば、あなた方の国の人々は過去の真実の歴史を目隠しされて、先の大戦の目先 の事のみを取り上げ、或いは洗脳されて、悪い事をしたと自分で悪者になっていますが、ここで歴史を振り返って真相を見つめる必要があるでしょう。本当は、 私共白色人種が悪いのです。百年も二百年も前から、競って武力で東亜諸民族を征服し、自分の領土として勢力下に置いたのです。植民地・属領にされて、永い 間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想を掲げて、大東亜共栄権樹立という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だっ たはずでしょう。本当に悪いのは、侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は戦いに敗れましたが、東亜の解放は実現しました。即(すなわ)ち、日本軍は戦勝国の全てをアジアから追放して終わったのです。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成しました。日本の功績は偉大であり、血を流して戦ったあなた方こそ、最高の功労者です。自分を蔑む事を止(や)めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきであります。」

エリック=ホプスバウ博士(英国ロンドン大学教授)
「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動に依るものでは無く、日本軍とチャンドラ=ボースが率いるインド国民軍(INA)が協同して、ビルマ(現ミャンマー)を経由し、インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされたものである。」

ジョージ.S.カナヘレ博士(ハワイ・日本経済協議会事務局長)
「日本占領軍が、インドネシア民族主義の為に行った種々の訓練の中で、最も重要なものの一つは、インドネシアに正規軍及び準軍事組織を創設して(*PETA 参照:http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/peta.htm)、 それに訓練を与えた事であろう。この作業は、特にジャワ、バリ及びスマトラの各島で推し進められた。後に、インドネシア独立軍の将校や下士官となった者達 は、殆ど全て、及び何万と言う兵士達は、この訓練を経て、軍事技術を身に付け、日本の敗戦後に戻ってきたオランダ軍を相手に、独立(ムルデカ)戦争を戦ったのであっ た。もし、この訓練が無かったなら、そして日本の降伏後、インドネシア人の手に入った日本軍の武器や軍需資材が無かったなら、インドネシア独立戦争の行方 は違った方向に進んでいたかも知れない。こうして、日本の占領は、インドネシアの民族主義勢力を、権力の戸口まで導いた。(中略) (インドネシアの)民 族主義者にとって、日本の占領時代は、独立への、単なる序曲以上のものであったかも知れない。」


子孫のため、歴史を明確に正せ

1952年11月6日、博士は広島高裁における歓迎レセプションに臨まれて、「子孫のため歴史を明確にせよ」と次のように述べられた。

 「1950年のイギリスの国際情報調査局の発表によると、『東京裁判の判決は結論だけで理由も証拠もない』と書いてある。ニュルンベルクにおいては、裁 判が終わって三か月目に裁判の全貌を明らかにし、判決理由とその内容を発表した。しかるに東京裁判は、判決が終わって4年になるのにその発表がない。他の 判事は全部有罪と判定し、わたくし一人が無罪と判定した。わたくしはその無罪の理由と証拠を微細に説明した。しかるに他の判事らは、有罪の理由も証拠も何 ら明確にしていない。おそらく明確にできないのではないか。だから東京裁判の判決の全貌はいまだに発表されていない。これでは感情によって裁いたといわれ ても何ら抗弁できまい。」

 このように述べた後、博士はいちだんと語気を強めて、

 「要するに彼等(欧米)は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって自らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の過去 18年間のすべてを罪悪であると烙印し罪の意識を日本人の心に植えつけることが目的であったに違いがない。東京裁判の全貌が明らかにされぬ以上、後世の史 家はいずれが真なりや迷うであろう。歴史を明確にする時が来た。そのためには東京裁判の全貌が明らかにされなくてはならぬ。・・・これが諸君の子孫に負う ところの義務である。

 「わたしは1928年から45年までの18年間(東京裁判の審議期間)の歴史を2年8カ月かかって調べた。各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中 にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。それをわたくしは判決文の中に綴った。このわたくしの歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人で あることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略 の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。満州事変から大東亜戦争勃発にいたる事実の歴史を、どうかわたくしの判決文を通して充分研究していただきたい。日 本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、わたくしは見過ごして平然たるわけにはゆかない。彼らの戦時宣伝の偽瞞を払拭せよ。 誤れた歴史は書きかえられねばならない。」

1952年11月6日  ラダビノード・パール

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