2009年12月8日火曜日

未明の上陸

OO港の海は青かつた。油を流したやうに静かな海面であつた。海月が無数に漂つてゐた。空も青かつた。陽光が金色に眩しかつた。

 港いつぱいに無数の艦艇と輸送船が鳴りを静めてもうO日間碇泊してゐた。時々荒鷲の大編隊がぐわぐわと見たこともない早さで飛んでゆくほかは白雲悠然と棚引いて油絵を見るやうな美しさであつた。

 新しい輸送船がどこからともなく兵隊を満載して赤い喫水線で青い海を真白に割つて入つて来ては船団に加わつた。

 何日か前の夜、北斗七星の美しい闇の野つ原を、トラツクの上からOOの町の灯に別れを告げてひそやかに桟橋に運ばれた頃の夜風の寒さがもう遠い夢のやうに思はれた。勇士たちは船中で「マレー進軍歌」をつくつて練習しながらやつて来たが、その歌詞はもうみんな暗記してしまつた。乾パンと水筒をもつて深い船底から甲板へ駆け上がる訓練も幾度くり返したか知れなかつた。

 この港へ来てから、すでに山下最高振揮官は命令下達を終つて「お正月はシンガポールで」と言つて乾杯された。シンガポールの日本名を考へて置けといふので、私たちも海を見ながら「新南」とか「昭南」とかひねくり回してゐた。

 12月O日未明、船団はいよいよOO港をOOした。いずれもOOトン級の最優秀船団OO隻が二列縦陣をつくつて南へ南へと進んだ。大小O十余隻の蒙撞がそれを大きく取り囲んで威風堂々、南海をあつしてすすんだ。

 空が灰色にくもつたり、時々ザアーツとスコールが怖しい勢いで海面を叩きつけたり、忘れたやうに、カラリと晴れたりした。海鷲が船団の上空を低く雨雲を縫ひながら哨戒してゐた。波が高く風もかなり強い。

 船室の中はまるでうだるやうであつた。天井が低くて立てば頭がつかへる。敵機の来襲に備へて甲板へ出ることは禁止され、甲板上の合同体操や軍歌の練習も出来なくなつた。夜間はとくに燈火管制で船窓は密閉されるので全く蒸し風呂のやうであつた。うつかり扇子などを使ふとかへつて生ぬるい風がざわざわと動いて余計暑苦しい。

 白い魚が染まりさうな濃藍色だつた。二列縦陣の船団は船足をそろへてきつちりと隊列を整へたまま少しも離れない。山下将軍は船橋に出てこの壮大な進軍にじツと目を離さずにゐた。

 西南太平洋上では無言の戦ひが始まつてゐた。われわれの船団はいつ敵潜水艦、適飛行機の襲撃を受けるかも知れない。

 宣博班長からわれわれに注意が廻つて来た。

敵魚雷命中すれば本船は早ければO分間、遅くともO分間で沈没する。新聞記者は前部甲板第X号艇に乗るべし。乗艇の暇なき場合は救命胴衣をつけて海中へ飛び込むものとす。

 私は救命胴衣をもたない自分が不安になつた。余分の胴衣はどこにもなかつた。兵隊は夜寝るときでも胴衣を着けたまま、あるひは枕にして寝てゐた。私は同僚と甲板に板きれを見つけ、いざとなればそれを持つて飛び込むことにした。

 しかし敵は何と間抜けていたことであらう。まさかこの大船団が直接マレー半島に上陸するものとは思ひもかけなかつたのであらう。いよいよ八日未明上陸開始まで敵は我々の船団に際して一発の弾丸も射つてこなかつたのである。

 船室のマイクが昂奮した口調で“泊口進入用意”と繰り返し始めた。第一団上陸部隊の将兵が一せいに立ち上つた。ザワザワと室内が急に活気ずいた。装具の掏れる音,銃剣のかち合ふ音、ひそやかなざわめきのなかに無限の緊張が流れた。勇士の目がキリツと引き締つた。
 甲板のウインチが捻りはじめた。

 熱帯の月が出るのか、東の空が明るくなつてきた。星はいよいよ白く輝いた。暑い。汗がびつしょりだ。うねりがなほ高い。北航する船団の左舷に陸地が見えた。ほのぼのと月光に濡れたマレー半島の山々であつた。甲板に並んだ勇士らが鉄兜を光らせながら「マレーですね」と短く言つてまた固く口を噤んだ。船団はすべての燈火を滅して粛々として進んだ。

 シンゴラの灯りがみえた。いつもの如くあかあかとともつてゐる町の灯であつた。敵は何事も知らなかつた。

 歴史を作る投鐘の号笛が鳴つた。八日午前三時、熱帯の海は青い月光にふくらんでみえた。乳色の靄の彼方に消えてゆく第一陣上陸部隊の勇士を乗せた舟艇の蔭を、うねりの高いシンゴラ湾の中に見送つた私は、次の上陸までに時間があるので船室へ下りて横になつたが、さまざまの想念と盛り上がりの高まる感激とにどうしても眠れなかつた。この歴史的な十二月八日の朝大東亜戦争>の全戦線を通じて敵前上陸に従事し得たのは同じ船に乗つてゐた同僚二名と私とたつた三名きりであつた。私はこの瞬間に死んでもいいと思つた。

 夜が明けるまでに第一陣部隊はシンゴラの街を確保し、更にマレー国境に向かつて九進撃を開始した。つずいて第二陣部隊も上陸共同防衛条約に本ずくタイ國軍隊も出て来て荷揚げ作業を手伝ひ、軍用トラックにタイ國旗をひるがえして皇軍に協力したのである

68年前の今日十二月八日真珠湾攻撃の2時間前の事であった。

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