1990年代初めのイタリアでは、コーザ・ノストラ(シチリアマフィア)と国家が密約書を交わしていたと言う話が、最近まで、まこと密やかに囁かれていた のですが…。
当時、父子共にマフィア側につき、その密約書に関わっていた…と言う人物が、当の密約書のコピーを始めとする諸々の証拠をたずさえながら、びっくり証言の 数々を小出しにしております。
今回はやっと、ベルルスコーニ首相と共に政党を立ち上げたと言う大物議員の関与が出てきましたが…。
取りあえず、主要人物はざっと次のとおり。
ヴィート・チャンチミーノ(78才没):元パレルモ市長であり、コーザ・ノストラ(シチリアマフィア)組織員。′84 年に逮捕され、懲役13年の判決。2002年11月死亡。
マッシモ・チャンチミーノ(46才):ヴィート・チャンチミーノ元市長の息子。実業家。1990年初め、父と共にコー ザ・ノストラに協力していたが、現在は司法協力者として『コーザ・ノストラと国家の密約書』について暴露している。
サルヴァトーレ(愛称トト)・リーナ(78才):コーザ・ノストラの最後の首領。‘93年に逮捕され、終身刑で収監 中。
ベルナルド・プロヴェンツァーノ(75才):サルヴァトーレ・リーナの相談役、後継者。‘06年に逮捕、終身刑で収監 中。
パレルモ 『マフィアと国家の交渉を引き継いだのはデッルートリ議員だ』
「1992〜93年に行われたマフィアと国家の交渉は1回きりではありませんでした。」
パレルモ裁判所のシェルター法廷(訳者注:特別防備が施された法廷。マフィア関連等の危険事態が発生しかねない裁判に使用される)内で、ロス・マリオ・ モーリ元将官がベルナルド・プロヴェンツァーノへの逃亡幇助容疑で訴えられている中、マッシモ・チャンチミーノ(訳者注:パレルモ元市長のヴィート・チャ ンチミーノの息子)による証言が始まった。
「1992年の12月のある時点で、私の父ヴィート・チャンチミーノが逮捕されました。父は警察にはめられたものと思っていました。我々の仲介により警察 はプロヴェンツァーノから、トト・リイナ逮捕に向けての切り札を得ていたんです。父はよく、交渉はまだ続いているって言っていました。マルチェッロ・デッ ルートリ(訳者注:ベルルスコーニ首相と共に『Forza Italia』党を創設。現在はPDL党所属の上院議員)の名前を挙げながらね。」
マルチェッロ・デッルートリの名前は、これまでの数ヶ月間にマッシモ・チャンチミーノがパレルモ検察に提出した密書の中に出てきている。マッシモ・ チャンチミーノの証言は次のとおり。
「プロヴェンツァーノは父に宛てた密書の中で、《我らが友人の“上院”さん》について良く書いていました。当時、デッルートリはまだ上院議員ではなかった ので、父は良くこう言ってたものです。“しょっちゅう上院議員って書いてくるところをみると、プロヴェンツァーノは頭がごちゃごちゃになってるんだ な。”って。」
そして証言はこう続く。
「プロヴェンツァーノから父は、マルチェッロ・デッルートリと直接関係を持っていることを聞かされていました。」
チャンチミーノが運んだ密書にはマフィアのための『温情プロジェクト』について書かれていた。
「プロヴェンツァーノは友人である上院議員を通じて、それに興味を抱いていたんですよ。プロヴェンツァーノはよく父に宛てて、マルチェッロ・デッルートリ だけではなく《我らが知事殿》についても書いていました。もちろん、シチリア州の新知事サルヴァトーレ・クッファロ(訳者注:州知事の在任期間は2001 年7月〜2008年1月)のことで、未決済の債券をどうにかしようとしていたんです。」
マッシモ・チャンチミーノが2日目に行った証言では、特にトト・リイナの逮捕について触れられている。
「ダメリオ通り事件(訳者注:1992年7月、パオロ・ボルセリーノ検事が実母宅の前で爆殺される)の後、私は父から再び警察や、特別警察隊のモーリ大 佐、デ・ドンノ隊長とコンタクトを取るよう言われました。
私達はローマのスペイン広場近くにある父のマンションで、8月25〜26日に会うよう警察と約束をしました。この約束に関しては証拠となる書類を持ってい ます。
この際、父と警察との間で交わされた内容は、当初の交渉内容とは完全に異なったものでした。ダメリオ通り事件によりコーザ・ノストラ(シチリアマフィア) の残虐性が明らかになった時でしたから、父はトト・リイナとの関係をあらゆる方面において断とうと考えていたんです。
そして、警察側はプロヴェンツァーノではなくリイナの方を捕まえたいと言ってきたんですよ。警察はプロヴェンツァーノと父が特別に通じ合っていると言うこ とを知っていましたから。リイナ逮捕には私の父が必要だと言うことを知っていたんです。」
ニーノ・ディ・マッテオ検察官が、
「トト・リイナ逮捕に向けて、あなたの父親がプロヴェンツァーノとの関係を保たなければならなかったのだと、警察には知らせていたのですか?」と質問する と、マッシモ・チャンチミーノは次のように答えている。
「ええ。それに父はトト・リイナの居場所をはっきりとは知りませんでしたから。もう随分前から会っていなかったんです。」
マッテオ検察官の質問は続く。
「あなたの父親が、リイナ逮捕のためにプロヴェンツァーノと会っていたのだと、警察は知っていたのですか?」
マッシモ・チャンチミーノの答えは、
「もちろんです。父はすぐにこう言ったんです。逃亡中のリイナを捕まえるには、ある種の道を切り開いていかねばならないって。」
検察官:「警察からプロヴェンツァーノ逮捕を要請されることは全くなかったのですか?」
マッシモ:「ええ、一度もありませんでした。」
ダメリオ事件後に警察と何回か会った際(1992年8月25日〜11月の間)、ヴィート・チャンチミーノは警察に向かって、2回目の交渉についての ルチアーノ・ヴィオランテが何か情報を得ているかどうかを訊ねていたらしい。ルチアーノ・ヴィオランテとは、当時、マフィア対策委員会の会長に就任した人 物だった。
「父は、ヴィオランテがこの件に加わっているのではないかと訊ねていました。ヴィオランテは司法に近い立場でしたし、特に共産党系の裁判官と近しくしてい ましたから。」
マッシモ・チャンチミーノの供述によれば、パレルモの地図がプロヴェンツァーノの側近に渡されていたと言う。
「A3サイズのもので、黄色い筒2本に入れられていました。私が仲介して、警察へと渡したんです。その地図は、ある区域が丸印で囲まれていて、電話や水 道、ガスの利用についても印が付けられていました。」
その後、ヴィート・チャンチミーノは警察に、プロヴェンツァーノとドイツで会えるよう偽造パスポートを作ってくれるよう依頼している。しかし12月 19日、ヴィート・チャンチミーノは残りの罪を償うために逮捕される。
「父は私にこう言いました。これは警察の罠で、リイナ逮捕の切り札が手に入ったものだから、自分は用なしにされたんだと。」
ヴィート・チャンチミーノ親子は後に刑務所内で、トト・リイナの逮捕劇についてこんな風に語っていた。
「リイナの隠れ家の捜査がされなかったのは、マフィアのボスに対し敬意を込め情けがかけられたのだとうと、リイナ本人は考えていました。」
「父はこう言っていました。リイナはよく“この紙っ切れでイタリアを潰すことだってできるんだ”と言って自慢していたと。
父は、リイナなき後、警察との交渉を進めていた人物がいることを確信していました。それがマルチェッロ・デッルートリなんです。」
短い休憩の後、マッシモ・チャンチミーノへはアントニオ・イングロリア検察官による質問が続けられた。この数ヶ月の間にマッシモ・チャンチミーノが パレルモ検察へ提出した7通の密書について触れられている。
「全てプロヴェンツァーノからのものです。私が直接本人から受け取ったり、プロヴェンツァーノに協力していた別の人間から受け取ったり。いつも封筒に入っ ていて、ちゃんと封もされていました。父は指紋が残らないようゴム製の手袋をはめて開封し、それからコピーを取っていました。」
これらの密書と、それから、いわゆる『マフィアと国家の密約書』のコピーは、マッシモ・チャンチミーノが2006年5月にスイスの貸金庫に保管した と言う。これについてマッシモは、次のように裁判官に話した。
「その1年前には、それらの書類をモンデッロ市にある自宅の子供部屋に備え付けた金庫の中に保管していたんです。警察がそこの家宅捜査をすると言う通達を 受けた時、私はパリにいました。それで 知人に、金庫の鍵を出しておくよう頼んでおきました。しかし、警察の方からは何も言ってこなかったんです。そこに 金庫があることは明らかなのにですよ。」
その家宅捜査を指揮していた人物の名を検察官から問われると、マッシモはこう答えた。
「アンジェリとか言う人でしたが。」(2010 年2月2日 La Repubblica)
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