吉田松陰
(教学局編纂「日本精神叢書 十」紀平正美執筆『吉田松陰の留魂録』昭和15年7月発行。昭和16年6月5刷 による)
留魂録
身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂
十月念五日 二十一回猛士
(第一項)
一。余去年以来心蹟百変挙て数へ難し就中趙の貫高を希ひ楚の屈平を仰く諸知友の知る所なり故に子遠が送別の句に燕趙多士一貫高荊楚深憂只屈平と云も此の事なり然るに五月十一日関東の行を聞しよりは又一の誠字に工夫を付たり時に子遠死字を贈る余是を用ゐす一白綿布を求て孟子至誠而不動者未之有也の一句を書し手巾へ縫付携て江戸に来り是を評諚所に留め置くも吾志を表する也去年来の事恐多くも 天朝幕府の間誠意相孚せさる所あり天苟も吾か区々の悃誠を諒し給はゝ幕吏必吾説を是とせんと志を立たれとも蚊虻負山の喩終に事をなすこと不能今日に至る亦吾徳の菲薄なるによれは今将誰をか尤め且怨んや
(第二項)
一。七月九日初て評諚所呼出あり三奉行出座尋鞠の件両条あり一曰梅田源次郎長門下向の節面会したる由何の密議をなせしや二曰御所内に落文あり其手跡汝に似たりと源次郎其外申立る者あり覚ありや此二条のみ夫梅田は素より奸骨あれば余与に志を語ることを欲せさる所なり何の密議をなさんや吾性公明正大なることを好む豈落文なんとの隠昧の事をなさんや余是に於て六年間幽囚中の苦心する所を陳し終に大原公の西下を請ひ鯖江侯を要する等の事を自首す鯖江侯の事に因て終に下獄とはなれり
(第三項)
一。吾性激烈怒罵に短し務て時勢に従ひ人情に適するを主とす是を以て吏に対して幕府違勅の已むを得さるを陳し然る後当今的当の処置に及ふ其説常に講究する所にして具に対策に載するか如し是を以て幕吏と雖甚怒罵すること不能直に曰く汝陳白する所悉く的当とも思はれす且卑賤の身にして国家の大事を議すること不届なり余亦深く抗せす是を以て罪を獲るは常々辞せさる所なりと云て已みぬ幕府の三尺布衣国を憂ることを許さす其是非吾曾て弁争せさるなり聞く薩の日下部以三次は対吏の日当今政治の欠失を歴詆し如是にては往先三五年の無事も保し難と云て鞠吏を激怒せしめ乃曰是を以死凄を得ると雖とも悔さるなりと是吾の及さる所なり子遠の死を以て吾に責むるも亦此意なるへし唐の段秀実郭●(「田」+「羲」)に於ては彼か如くの誠悃朱●(サンズイ+「此」)に於ては彼か如くの激烈然らは則英雄自ら時措の宜しきあり要内省不疾にあり抑亦人を知り幾を見ることを尊ふ吾の得失当さに葢棺の後を待て議すへきのみ
(第四項)
一。此回の口書甚草々なり七月九日一通り申立たる後九月五日十月五日再度の呼出も差たる鞠問もなくして十月十六日に至り口書読聞せありて直に書判せよとの事なり余か苦心せし墨使応接航海雄略等の論一も書載せす唯数ケ所開港の事を程克申延て国力充実の後御打払可然なと吾心にも非さる迂腐の論を書付て口書とす吾言て益なきを知る故に敢て云はす不満の甚しき也甲寅の歳航海一条の口書に比する時は雲泥の違と云ふへし
(第五項)
一。七月九日一通り大原公の事鯖江要駕の事等申立たり初意らく是等の事幕にも諜知すへけれは明白に申立たる方却て宜しきなりと已にして逐一口を開きしに幕にて一円知らざるに似たり因て意らく幕にて知らぬ所を強て申立て多人数に株連蔓延せは善類を傷ふこと少なからす毛を吹て瘡を求むるに斉しと是に於て鯖江要撃の事も要諫とは云替たり又京師往来諸友の姓名連判諸士の姓名等可成丈は隠して具白せす是吾後起人の為めにする区々の婆心なり而して幕裁して吾一人を罰して一人も他に連及なきは実に大慶と云ふへし同志の諸友深く考思せよ
(第六項)
一。要諫一条に付事不遂時は鯖項と刺違て死し警衛の者要蔽する時は切払へきとの事実に吾か云はさる所なり然るに三奉行強て書載して誣服せしめんと欲す誣服は吾肯て受んや是を以て十六日書判の席に臨て石谷池田の両奉行と大に争弁す吾肯て一死を惜まんや両奉行の権詐に伏せさるなり是より先九月五日十月五日両度の吟味に吟味役まて具に申立たるは死を決して要諫す必しも刺違切払等の策あるに非すと吟味役具に是を諾して而も且口書に書載するは権詐に非すや然とも事已に爰に至りて刺違切払の両事を受けさるは却て激烈を欠き同志の諸友亦惜むなるへし吾と云とも亦惜しまさるに非す然とも反復是を思へは成仁の一死区々一言の得失に非す今日義卿奸権の為めに死す天地神明照鑑上にあり何惜むことかあらん
(第七項)
一。吾此回初め素より生を謀らす又死を必せす唯誠の通塞を以て天命の自然に委したるなり七月九日に至ては略一死を期す故に其詩に云継盛唯当甘市戮倉公復望生還其後九月五日十月五日吟味の寛容なるに欺かれ又必生を期す亦頗る慶幸の心あり此心吾此身を惜しむ為めに発するに非す抑故あり去臘大晦朝議已に幕府に貸す今春三月五日吾公の駕已に萩府を発す吾策是に於て尽果たれは死を求むること極て急なり六月の末江戸に来るに及んて夷人の情態を見聞し七月九日獄に来り天下の形勢を考察し神国の事猶なすへきものあるを悟り初て生を幸とするの念勃勃たり吾若し死せすんは勃々たるもの決して汨没せさるなり然とも十六日の口書三奉行の権詐者を死地に措んとするを知りてより更に生を幸の心なし是亦平生学問の得力然るなり
(第八項)
一。今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり蓋し彼禾稼を見るに春種し夏苗し秋苅冬蔵す秋冬に至れは人皆其歳功の成るを悦ひ酒を造り醴を為り村野歓声あり未た曾て西成に臨て歳功の終るを哀しむものを聞かす吾行年三十一事成ることなくして死して禾稼の未た秀てす実らさるに似たるは惜しむへきに似たり然とも義卿の身を以て云へは是亦秀実の時なり何そ必しも哀まん何となれは人事は定りなし禾稼の必す四時を経る如きに非す十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり二十は自ら二十の四時あり三十は自ら三十の四時あり五十百は自ら五十百の四時あり十歳を以て短とするは●(ムシヘン+「惠」)蛄をして霊椿たらしめんと欲するなり百歳を以て長しとするは霊椿をして●蛄たらしめんと欲するなり斉しく命に達せすとす義卿三十四時已備亦秀亦実其秕たると其粟たると吾か知る所に非す若し同志の士其微衷を憐み継紹の人あらは乃ち後来の種子未た絶えす自ら禾稼の有年に恥さるなり同志其是を考思せよ
(第九項)
一。東口揚屋に居る水戸の郷士堀江克之助余未た一面なしと雖とも真に知己なり真に益友なり余に謂て曰昔し矢部駿州は桑名侯へ御預けの日より絶食して敵讐を詛て死し果して敵讐を退けたり今足下も自ら一死を期するからは祈念を籠て内外の敵を払はれよ一心を残置て給はれよと丁寧に告戒せり吾誠に此言に感服す又鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す余に告て曰今足下の御沙汰も未た測られす小子は海外に赴けは天下の事総て天命に付せんのみ但し天下の益となるべき事は同志に託し後輩に残し度ことなりと此言大に吾志を得たり吾の祈念を籠る所は同志の士甲斐々々しく吾志を継紹して尊攘の大功を建てよかしなり吾死すとも堀鮎二子の如きは海外に在とも獄中に在とも吾か同志たらん者願くは交を結へかし又本所亀沢町に山口三●(クルマヘン+「酋」)と云医者あり義を好む人と見へて堀鮎二子の事なと外間に在て大に周旋せり尤も及ふへからさるは未た一面もなき小林民部の事二子より申遣たれは小林の為めにも亦大に周旋せり此人想ふに不凡ならん且三子への通路は此三●老に託すへし
(第十項)
一。堀江常に神通を崇め天皇を尊ひ大道を天下に明白にし異端邪説を排せんと欲す謂らく天朝より教書を開版して天下に頒示するに如かすと余謂らく教書を開版するに一策なかるへからす京師に於て大学校を興し上天朝の御学風を天下に示し又天下の奇材異能を京都に貢し然る後天下古今の正論確議を輯集して書となし天朝御教習の余を天下に分つときは天下の人心自ら一定すへしと因て平生子遠と密議する所の尊攘堂の議と合せ堀江に謀り是を子遠に任することに決す子遠若し能く同志と謀り内外志を協へ此事をして少しく端緒あらしめは吾の志とする所も亦荒せすと云ふへし去年勅諚綸旨等の事一跌すと雖とも尊皇攘夷苟も已むへきに非れは又善術を設け前緒を継紹せすんはあるへからす京師学校の論亦奇ならすや
(第十一項)
一。小林民部云京師の学習院は定日ありて百姓町人に至るまて出席して講釈を聴聞することを許さる講日には公卿方出座にて講師菅家清家及ひ地下の儒者相混するなり然らは此基に因て更に斟酌を加へは幾等も妙策あるへし又懐徳堂には霊元上皇宸筆勅額あり此基に因り更に一党を興すも亦妙なりと小林は鷹司家の諸大夫にて此度遠島の罪科に処せらる京師諸人中罪責極て置し其人多材多芸唯文学に深からす処事の才ある人と見ゆ西奥揚屋にて余と同居す後東口に移る京師にて吉田の鈴鹿石州同筑州別て知弓の由亦山口三●も小林の為めに大に周旋したれは鈴鹿か山口かの手を以て海外まても吾同志の士通信をなすへし京師の事に就ては後来必す力を得る所あらん
(第十二項)
一。讃の高松の藩士長谷川宗右衛門年来主君を諫め宗藩水家と親睦の事に付て苦心せし人なり東奥揚屋にあり其子速水余と西奥に同居す此父子の罪科何如未た知るへからす同志の諸友切に記念せよ余初て長谷川翁を一見せしとき獄吏左右に林立す法隻語を交ることを得す翁独語するものゝ如くして曰寧為玉砕勿為瓦全と吾甚た其意に感す同志其之を察せよ
(第十三項)
一。右数条余徒に書するに非す天下の事を成すは天下有志の士と志を通するに非れは得す而して右数人余今回新に得たる所の人なるを以て是を同志に告示すなり又勝野保三郎早已に出牢す就て其詳を問知すへし藤野の父豊作今潜伏すと雖とも有志の士と聞けり他日事平くを待て物色すへし今日の事同志の諸士戦敗の余傷残の同志を問訊する如くすへし一敗乃挫折する豈勇士の事ならんや切に嘱す切に嘱す
(第十四項)
一。越前の橋本左内二十六歳にして誅せらる実に十月七日なり左内東奥に座すること五六日のみ勝保同居せり後勝保西奥に来り余と同居す勝保の談を聞て益々左内と半面なきを嘆す左内幽囚邸居中資治通鑑を読み註を作り漢紀を終る又獄中教学工作等の事を論せし由勝保予が為めに是を語る獄の論大に吾意を得たり予益々左内を起して一議を発せんことを思ふ嗟夫清狂の護国論及ひ吟稿口羽の詩稿天下同志の士に寄示したし故に余是を水人鮎沢伊太夫に贈ることを許す同志其吾に代て此言を踐まは幸甚なり
(第十五項)
一。同志諸友の内小田村中谷久保久坂子遠兄弟等の事鮎沢堀江長谷川小林勝野等へ告知し置く又村塾の事須佐阿月等の事も告置けり飯田尾寺高杉及ひ利輔の事も諸人に告置しなり是皆吾か苟も是をなすに非す
かきつけ終りて後
心なることの種々かき置ぬ思のこせることなかりけり
呼たしの声まつ外に今の世に待へき事のなかりける哉
討れたる吾をあわれと見む人は君をあかめて夷払へよ
愚なるわれをも友とめつ人はわかとも友とめてよ人々
七たひも生かへりつゝ夷をそ攘はむこゝろ吾忘れめや
十月二十六日黄昏書 二十一回猛士
安政六年十月二十七日朝、松陰は死罪の申し渡しを受け、四ツ時又は九ツ時伝馬町の露と消える三十歳(満二十九歳)
政治家やその他売国企業家などが、龍馬人気もあって現在をよく幕末に例えるものがいるが、現在と幕末では決定的な違いがひとつだけある、幕末は倒幕であれ佐幕であれ全ての人が尊皇であったということです。
この一点が違えば例えることも出来ないということであります。
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