前四海幫幫主 蔡冠倫 5月3日心筋梗塞のため死亡16日葬儀が執り行なわれた。
四海幫の主要活動地域は台灣北部及び中國大陸及アメリカ南カリフォルニア等
極道のドンの葬式で少年25人を確保
極道として60年近く活躍した四海派の元リーダー、蔡冠倫の公開葬式が16日に行われた。式場におよそ1500人の極道が集まり、なかには香港や日本から来た者もいたという。
場内に馬英九総統や呉敦義・行政院長からの花かごもあった。警察側は200人を動員して、少年25人と容疑者2人の身柄を確保したという。
タイニュースクリップ
タクシン元首相の妹を首相候補に、タイ最大野党が総選挙に向け
タクシン元首相派の野党プアタイは16日、党の比例代表名簿1位にタクシン・チナワット元首相の妹のインラク・チナワット氏(43)を選出した。インラク氏はプアタイの首相候補となり、7月3日投票の下院選でプアタイが勝利した場合、タイ初の女性首相となる。インラク氏は選出後の演説で、「兄(タクシン氏)を信頼したように、私にチャンスを下さい」「女性であること生かし、国家の和解を進めたい」などと述べた。
次期下院(定数500)選では反タクシン派のアピシット首相率いる与党民主党とプアタイがそれぞれ200議席前後を獲得する見通し。ただ、プアタイは反タイ王室というイメージがあり、王室守護を掲げる特権階級・タイ軍主流派との関係が悪い。現状では特権階級との衝突を嫌う中小政党との連立政権樹立は困難で、単独過半数も難しく、中小政党を自陣に引き込んだ民主党に対し、やや分が悪いとみられている。
国外逃亡中のタクシン氏はこうした状況の中、プアタイの首相候補として、ベテラン政治家のチャワリット元首相(元陸軍司令官)、チャルーム元内相、党内で頭角を現してきたミンクワン元商務相(元トヨタ・タイ法人幹部)らを検討したが、いずれも力不足と判断。2008年のタクシン派サマック政権で操り人形のはずのサマック首相(当時)のコントロールが利かなくなった苦い経験もあり、最終的に、信頼が置ける血縁者で、フレッシュな「タクシン」色を前面に打ち出せるインラク氏を選んだ。
インラク氏は1967年生まれで、9人兄弟の末っ子。タイ国立チェンマイ大学政治・行政学部卒、米ケンタッキー州立大学経営学修士。タクシン氏が創業したタイ携帯電話サービス最大手アドバンスド・インフォ・サービス(AIS)、チナワット財閥の不動産会社SCアセットなどの社長を務めた。政治経験はほとんどない。事実婚で子供が1人いる。
プアタイの16日の会合には、新たに党に加わったサノ元内相、バントゥーン元予算局長、プラパット元首都電車公社総裁らも姿を見せた。サノ氏は1990年代にキングメーカーとして君臨。2001年の第1次タクシン政権発足にも貢献したが、その後、サノ氏を必要としなくなったタクシン氏とたもとを分かった。2007年の総選挙では自ら設立したプラチャーラート党が9議席を獲得したものの、野党暮らしを余儀なくされた。プラチャーラートはサノ氏がプアタイに参加した後も存続し、プアタイが選挙違反などで解党された場合の受け皿とみられている。
一方、与党民主党も16日、比例代表名簿の1―10位を公表した。1位はアピシット首相で、2位は1990年代に2度首相を務めたチュワン党顧問会長、3位はバンヤット前党首。若手では5位にジュリン保健相、6位にコーン財務相、8位にアピラック前バンコク都知事が入った。
タイの過去3回の下院選を振り返ると、2001年は地方・貧困層へのばらまき政策、社会保障政策を掲げたタクシン派政党が単独過半数に迫り第1党となり、第1次タクシン政権が発足した。2005年は1期目で成果を挙げたタクシン派が議席の75%を占め圧勝し、2期目へ。タクシン氏は特権階級との権力闘争に破れ、2006年の軍事クーデターで追放されたが、クーデター政権下で行われた2007年末の総選挙ではタクシン派政党が480議席中230議席を占め第1党となり、政権に復帰した。しかし、特権階級の指示で軍がタクシン派政権と距離を置き、防備の手薄な首相府や空港を反タクシン派のデモ隊が占拠。さらに、2008年末、「司法クーデター」と呼ばれた憲法裁判所によるタクシン派与党の解党で、政権が崩壊した。混乱の中、民主党とタクシン派の一部が軍基地内で密談し、連立政権発足に合意、現在のアピシット政権が誕生した。
これに対しタクシン派は2010年4月、タクシン氏の巨額の資産の大半が裁判所命令で国庫に没収されたことを機に、支持基盤である地方住民、低所得者層を動員してバンコク都心部を占拠。同年5月19日、タクシン派の占拠地域に治安部隊が突入し、デモ隊を強制排除した。デモ隊と治安部隊の衝突による死者はデモ参加者、兵士、ロイター通信カメラマンの村本博之さんら90人以上、負傷者は1400人以上に上る。
アピシット首相は混乱収束後、行政・司法などのダブルスタンダード(二重基準)廃止、低所得者支援などによる国家和解をうたったが、進展はみられず、持てる者(反タクシン派)と持たざる者(タクシン派)の対立が解けないまま、今年5月10日に下院が解散された。
〈タクシン・チナワット〉
1949年、タイ北部チェンマイ生まれの客家系華人。中国名は丘達新。警察士官学校を卒業後、米国に国費留学し、刑法学博士号を取得。帰国後、警察に勤務するかたわら、官公庁へのコンピュータリース、不動産開発などを手がけ、1987年に警察中佐で退職。その後、携帯電話サービス、通信衛星などを展開するタイ通信最大手シン・グループを育て上げた。
1995年に政界に転じ、1998年に政党を設立。地方、貧困層へのばらまき政策を掲げ2001年の総選挙で大勝し首相。2005年2月の総選挙も圧勝、首相に再選されたが、2006年9月の軍事クーデターで失脚し、公職追放処分を受けた。2007年末の総選挙でタクシン派が勝利したため、2008年2月に帰国。 8月に出国し、不在中の10月、首相在任中に妻が国有地を競売で購入したことで懲役2年の実刑判決を受けた。その後はタイに帰国せず、主にドバイに滞在している。
タクシン派与党は2008年12月に選挙違反で解党され、これに伴い、タクシン派政権からネーウィン元首相府相派と中小連立4党が野党・民主党に寝返り、民主党連立政権が誕生した。
チナワット家のタイ国内の資産約760億バーツはクーデター後に凍結され、タイ最高裁が2010年2月26日、不正蓄財だとして、このうち464億バーツの国庫没収を命じた。
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