プラバーン仏(黄金の仏陀)とプラケオ.モラゴット仏(エメラルド仏陀)
黄金製といわれるプラバーン仏も、タイのプラケオモラゴット仏同様その取り合いを巡って数奇な運命に翻弄された。1353年ムアンサワーに最初の統一王朝、ラーンサーン王国を築いたファーグム王は、クメール帝国アンコールトムで教育を受けクメール王妃を娶って、帰国。こうした事から1358年上座仏教を広めるため,クメール王から仏教使節が送られた。高僧と大勢の僧侶、仏典、天文学者に、寺院建築工や仏師に加えてプラバーン仏も含まれていた。黄金のプラバーン仏は、大きな守護の力を持つと言われ、此れを持つ事は国の繁栄に繋がると言われていた。送られた当初はワットケオに収められていた。プラバーン仏のおかげでファーグム王冶世の終わりまでには上座仏教は定着した。1489年にワットカン、1502年にはワットマノーロムに移された。1512年にワットウィスンナラートが創建されると、その本尊として招き入れられた。プラバーン仏の安住の地として、以後194年間此処に安置された。この間のラーンサ-ン王国の繁栄は言うまでもない。通商は隆盛、仏教研究は奨励され、多くに寺院が健立された。東南アジアでも有数の国になって行った。此れも皆、プラバーン仏のお陰だ。所がラオスの事だ、何時もの事だが、王位を巡った内戦が10年も続き、ついに1707年3分裂してしまった。ラーンサーン王国は、ルアンプラバーン王国、ウィァンチャン王国チャムパサック王国に分裂してしまったのだ。プラバーン仏は最も勢力の強かったウィァンチャン王国へ移されてしまった。
その後のプラバーン仏は目まぐるしく変る。
1777年ウィァンチャン王国はシャム王国に攻撃され、敢え無く占領されてしまう。翌1778年には戦利品としてプラケオ仏と共にトンブリー(シャム王国トンブリ王朝)ヘ持ち去られてしまう。プラケオ仏とプラバーン仏の2体の守護仏によって、シャムは繁栄の極みに達したかと思いきや、政治的動乱の嵐が巻き起こってしまった。何事も他人の所為にするのが得意なタイ人の事。皆は此れは守護力の強い仏陀が接近して置かれたことで、2体の仏陀が反目し、不幸が訪れたのだ、と考えた。事もあろうにプラバーン仏を“厄介者”としたのだ。お陰で、シャムとウィァンチャンがまだ戦争さなかにもかかわらず、ウィァンチャンへ突き返してきたのだ。
プラバーン仏の戻ったウィァンチャンは目覚しく発展した。嘗めては一寒村に過ぎなかった村は、今やメコン川沿い最大の都市までになった。ところが、アヌウォン王、何を思ったのか、調子に乗ったのか、1827年、兵をクルンテープへ進めてしまった。案の定、ナコーンラチャシマで総崩れ、逆にウィァンチャンは壊滅的な破壊を受けシャムの領土となってしまった。おまけに“厄介者”とされたプラバーン仏までも。1828年再びシャムへ持ち去られてしまう。所がまたまた、1867年突き返される。今度はルアンプラバーンへ。
ルアンプラバーンでは先ず王宮へ、そして安住の地ワットウィスンナラートへ戻ってきた。しかし今回はシャムで守護力が落とされてしまったのか、安泰とはいかなかった。1887年ホー族の襲撃だ。幸いにホー族が、来る前にプラバーン仏は非難し無事だった。ワットウィスンナラートは消失し安住の住み家を失ってしまった。1894年7年ぶりに香しい姿を現した。ワット マイ スワンナプーム アハーンで。そして安全のため1947年からは。王宮内のホープラバーンに移され現在では普段は目にする事は出来ない。一年に一度だけピーマイラーオに、ワットマイに移される。水掛儀式のため町中を行列のあと多くの人に参拝される。
プラケオ仏、日ごろは表情が少なく,穏やかなラオス人も,プラケオ仏の話になると、いきり立つラオス政府は今でもタイ政府に対して。プラケオ仏を戻すように要求している。
世界遺産のルアンプラバの近代化が懸念される
町並み歴史的文化的、遺跡保護の観点から1995年にユネスコによって町全体が世界遺産に指定された。このほどユネスコが使節団を派遣し、世界遺産後10年が過ぎ町並みを調査した結果その変化に懸念を示したという。
私も行った事があるが、今やインターネットカフェやら西洋式カフェやらとんでもない事になってきている、アンコールワットの様になってはおしまいの様な気もするが、しかし何も発しないでいたら、ただの田舎町で終わってしまうような気もする、どちらが良いのか、ラオス人が決める事だ、しかし決定はするのは皆外国人、此れで良いのか?
バリ島でCOP13が行われている、来年あたりから、航空業界では今までのオイルサーチャージに加え、炭素サーチャージも加えるそうだ、一体どの様な値段になってくるのやら?
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