2010年2月2日火曜日
タイ国王、裁判官に訓示
タイの新任裁判官168人が1日、プミポン国王の前で就任宣誓を行った。国王は裁判官への訓示で、最高裁判所の重要性について触れ、裁判官はガウン を着ているときだけでなく、公正さにおいて常に尊敬される存在でなくてはならないなどと述べた。
タイ最高裁は2月26日にタクシン元首相の国内資産約760億バーツの没収をめぐる裁判の判決を下す予定。資産没収の場合、タクシン氏の復権への 道は閉ざされるとみられ、タクシン派は没収を避けるため、様々な働きかけを行っているとされる。
国王は肺の炎症などで昨年9月からバンコク都内のシリラート病院に入院中で、就任宣誓式は同病院で行われた。国王はスーツ姿で椅子に座り、原稿な しで訓示を与え、昨年末に比べ体調が回復しているという印象を与えた。
〈プミポン・アドゥンヤデート国王〉
1927年、米国マサチューセッツ州ケンブリッジ生まれ。父はタイの現王朝の中興の祖である5代目、チュラロンコン大王の数多い息子の1人だったマヒド ン皇太子、母は中国系の一般女性。
タイの絶対王政を廃した1932年の立憲革命とその後の第2次世界大戦の影響で、1934年から1952年まで主にスイスに滞在し、同国のローザンヌ大 学で政治学、法学などを学んだ。
スイスで共に暮らした兄が8代目の王に即位した直後に変死したため、1946年に9代目の王に即位。タイ帰国後は全国で数千の農業プロジェクトを手が け、遠隔地の視察、低農薬農業や代替燃料の開発などにも取り組んだ。王室の再興にも力を尽くし、王室の儀礼・用語の復活、資金力回復を成し遂げた。
米経済誌フォーブスがまとめた2008年の世界の王族資産番付では、推定資産350億ドルと、産油国の王族を退け、1位に輝いた。タイ外務省はフォーブ スに対し、資産内容・額が事実と異なるとして反論している。
「微笑みの国」と呼ばれるタイの国王でありながらほとんど笑顔を見せず、峻厳なイメージがある。一方、社会的弱者の救済に熱心とされ、国民からは 「ポー(お父さん)」と呼ばれ、国父として深く敬愛されている。英語の評伝が2冊あるが、いずれもタイでは発禁。
1950年に結婚した王族のシリキット王妃との間に、ワチラロンコン皇太子、ウボンラット王女、シリントン王女、チュラポン王女の1男3女。
クーデター説再浮上、タイ政局緊迫
タクシン元首相のタイ国内の資産約760億バーツの没収をめぐる裁判の判決が2月26日に迫り、タクシン派による反政府集会、タイ陸軍本部での手 りゅう弾爆発、カンボジアとの国境紛争など、様々な局面でタクシン派と反タクシン派の抗争が激化している。こうした中、反タクシン派のアピシット政権は元 タクシン派の連立パートナー5党と憲法改正をめぐり衝突。混乱回避のため反タクシン派が自家クーデターを図るといううわさが流れるなど、タイ政局は緊迫の 度を増してきた。
タクシン氏は携帯電話、通信衛星などの事業で富豪となった後、政界に転じ、首相在任中の2006年、自ら創業した企業グループの株式をシンガポー ル政府の投資会社に売却、巨額の現金を得た。検察はタクシン氏の富は権力乱用による不正蓄財と主張しており、これが認められると、資産のすべて、もしくは 一部が没収される。
タイの司法はタクシン下ろしの動きが本格化した2006年以降、タクシン派が勝利した2006年の総選挙の無効化、2007年と2008年のタク シン派政党解党、2008年のタクシン派サマック首相の解任、汚職によるタクシン氏への有罪判決など、一貫してタクシン派に不利な判決を下しており、今回 の裁判もタクシン氏不利と予想されている。資産が全額没収された場合、タクシン氏の影響力、求心力は大きく低下し、政権復帰はほぼ不可能になるとみられ る。
追い詰められたタクシン派はタイ国王の諮問機関である枢密院、軍主流派、アピシット政権といった反タクシン派への攻勢を強め、1月18日には前代 未聞という枢密院前での抗議集会を強行。さらに、プミポン国王が入院中のシリラート病院とスワンナプーム空港でも集会を行う方針を明らかにしたが、後に撤 回した。25日にはチェンマイ市の警察本部に数十人が押し入り、警官隊と衝突した。
14日にはバンコク都内の陸軍本部で手りゅう弾が爆発した。アヌポン陸軍司令官の居室を狙ってグレネードランチャーで撃ち込まれたとみられ、建物 の一部が破損。警察はこの事件で、タクシン派の陸軍少将の運転手宅で手りゅう弾、グレネードランチャーなどを押収し、少将の取り調べを進めている。
24日には東北部の国境係争地域でタイ軍とカンボジア軍が衝突し、双方の兵士数十人が銃火を交えた。カンボジアのフン・セン首相はタクシン氏と組 んでアピシット政権と対立し、昨年11月には両国が大使を召還。タクシン氏は国外逃亡中で主にドバイに滞在しているが、昨年11、12月にカンボジアを訪 れ、今年1月20日にもカンボジアに1泊した。
一方、タイ連立政権の中核であるタイ民主党は1月26日、連立パートナー5党が要求している選挙制度変更などの改憲に反対する方針を決めた。連立 パートナー幹部はこれに強く反発し、「民主党が改憲は政府ではなく国会の案件というなら、わが党は内閣不信任案も国会の案件と言わせてもらおう」(プーム ジャイタイ党党首のチャワラット内相)、「政権崩壊まで秒読み段階」(チャートタイパタナー党のソムサック顧問)など、政権離脱もありうるという姿勢を見 せている。
クーデターのうわさはこうした中、浮上した。タクシン派は反タクシン派の中核である特権階級がプラユット陸軍副司令官を使いクーデターを画策し、 アヌポン陸軍司令官が国外出張する2月4―14日が危険だと主張。タイの新聞の多くもクーデターの可能性に触れている。
〈タクシン・チナワット〉
1949年、タイ北部チェンマイ生まれの客家系華人。中国名は丘達新。警察士官学校を卒業後、米国に国費留学し、刑法学博士号を取得。帰国後、警察に勤 務するかたわら、官公庁へのコンピュータ・リース、不動産開発などを手がけ、1987年に警察中佐で退職。その後、携帯電話サービス、通信衛星などを展開 するタイ通信最大手シン・グループを育て上げた。
1995年に政界に転じ、1998年にタイラックタイ(タイ人はタイ人を愛する)党を創設。地方、貧困層へのバラマキ政策を掲げ2001年の総選挙で大 勝し首相。2005年2月の総選挙も圧勝、首相に再選されたが、保守派との対立から、2006年9月の軍事クーデターで失脚し、公職追放処分を受けた。 2007年末の総選挙でタクシン派が勝利したため、2008年2月に帰国。 8月に出国し、不在中の10月、首相在任中に妻が国有地を競売で購入したことで懲役2年の実刑判決を受けた。その後はタイに帰国せず、主にドバイに滞在し ている。
タクシン派与党は2008年12月に選挙違反で解党され、これに伴い、タクシン派政権からネーウィン元首相府相派と中小連立4党が野党・民主党に寝返 り、民主党連立政権が誕生した。チナワット家のタイ国内の資産約760億バーツは凍結され、裁判で没収される可能性が浮上している。
タイの隣国のカンボジアは10月、タクシン氏を政府の経済顧問に任命。これを受け、タクシン氏は11月10―14日にカンボジアを訪問した。タイ政府は タクシン氏の身柄引き渡しをカンボジア政府に要求したが、カンボジア側は「タクシン氏は政治犯」だとして拒否。こうした事態を受け、両国は相互に大使を召 還、一等書記官を国外退去処分にするなど、亀裂を深めている。
タクシン氏はまた、カンボジア入り直前に英タイムズ紙のインタビューに応じ、タイの立憲君主制の問題に踏み込む発言も行い、タイ国内で強い反発を招い た。
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