2012年5月30日水曜日

二十一号作戦


二十一号作戦

ビルマ進攻

 昭和17年2月17日に第十五軍司令官飯田祥二郎中将がビルマ進攻作戦を開始した。
隷下にあった第十八師団の師団長は牟田口廉也中将であった。5月1日に第十八師団はビルマの古都マンダレーを攻略し、ビルマにいた英国軍はインド領に中国軍は雲南に退却した。ビルマは雨季には入り第15軍では北部山間部での作戦は不可能と考えていた。 

インパール作戦の起案

 南方総軍司令部では、ビルマ・インド国境方面の敵は弱く防衛も手薄であり、この機に乗じて東部インドを占領する計画を立てた。この作戦を二十一号作戦として8月6日に決定し、大本営の同意許可を得た。
南方総軍は9月1日第15軍に二十一号作戦の準備を命令した。

牟田口中将の作戦反対

 司令官飯田祥二郎中将は第十五軍の兵力でできる作戦ではないと思い、十八師団の牟田口師団長と第三十三師団の師団長桜井省三中将に意見を求めた。
 牟田口廉也中将は「国境の山地には道が無く後方からの補給が続かなくなり、大兵団を動かせないので作戦の実施は困難」とインド進攻作戦に反対であった。 桜井省三中将はさらに強く反対であった。
第十五軍のとして総軍に再考をうながした。おりから、ガダルカナル島・ニューギニヤ方面の戦況が悪化しつづけ、ビルマ方面では英国軍がアキャブ方面から反攻の兆しがあり、参謀本部は11月23日に作戦準備中止を南方総軍に伝えた。

英軍ウィンゲート准将の反攻

 昭和18年2月16日英軍部隊がチンドウィン河を渡り北ビルマに浸入した。
 19日には行軍中の三十三師団の一個大隊長が英軍と交戦し戦死し多くの損害をだした。
 敵は、飛行機から補給を受け北部のミッチナ付近の鉄道道路を破壊しつつ、イラワジ河を渡り中央部まで現れた。英軍ウィンゲート挺身隊は約3000人の部隊で日本の防衛体制の破壊と奪回作戦の偵察が目的で4月になると分散し反転し国境を越えて去った。

日本軍上層部の考え

 連合軍の反攻計画に対して、インパールを先に占領することは、大切な枢軸を押さえることになる、日本がインドを武力占領するのはムリであるとしても、インドで革命をおこさせたいと考えた。
インドの反英運動の指導者でチャンドラ・ボースに日本軍の援助で自由インド仮政府(インド国民軍)を与えられた。チャンドラ・ボースは東条首相にインド国内の領地を要求してきた。日本軍も革命を起こさせるのにインパールが適当と見ていた。

牟田口軍司令官の考え

 英軍ウィンゲート挺身隊の行動に刺激され、牟田口廉也中将は北部国境山地は通れることを確信した。(通れるのに通れないと作戦を反対したのを悔やむ)
 第15軍の司令官になり、反対した二十一号作戦(インド進攻作戦)は15軍の発案では無く、大本営の指示であることをしり、大本営にそむいたことは天皇陛下にそむいたこと、自分の戦意を疑われる出世に響くなど、武勲を立てて功名を上げねばと思う。
武号作戦の立案(ウィンゲート挺身隊を追撃し、第一戦をチンドウィン河の西岸、まで進める)

ウ号作戦準備命令

 8月7日大本営から総軍にインパール作戦の準備を伝えてきた。順に総軍はビルマ方面軍にそして、第15軍に命令された。
  8月12日には第15軍久野村参謀長を方面軍に呼びインパール作戦の方面軍の考えを説明し、第15軍としては了解し、完全に一致した

第15軍配属師団は作戦不可能と考えていた

 第15軍に配属した師団長3人は牟田口軍司令官と性格が合わない人たちが無謀な軍事行政のために配属になっていた。それは東条首相兼陸相の性格偏狭で人の好き嫌いが強く人心操縦にたけた冨永恭次中将を陸軍次官にし識見のない無謀人事が第15軍の人間関係を危険なものにした。(此処では皇道派 統制派の確執と言った方がいいかも知れません)

第三十三師団(弓)の柳田元三中将は始めからインパール作戦は不可能と反対し中止すべき意見を持っていた。 柳田師団長は学識豊かな教育者型で「わけのわからん軍司令官はどうにもならん」と、また牟田口軍司令官は「弱虫はどうにもならん」と思っていた。

 第十五師団(祭)の山内正文中将も、線の細い知識人型で「通常の考えでは実施不可能な作戦」と判断していた。師団が移動している間は南方総軍の直轄となり、チェンマイ道路構築に部隊が使われていた。

 第三十一師団(烈)の佐藤幸徳中将は猛将型であり、激しい気性なので強情な牟田口軍司令官と衝突したら治まりが着かない状態が予想できた。


インパール作戦準備命令 
     弓作命甲(第33師団命令)

命令{師団は極力企図を秘匿しつつ作戦準備を整備強化しx-7日一斉に行動を開始し一部を以て「ヤザジョウ」=「タム」=「パレル」道に沿う地区を主力を以て「トンザン」=「チッカ」=「インパール」道に沿う地区を「インパール」に向い突進せんとす。}

   師団歩兵司令部
     長 山砲兵第33連隊長  福家政男 大佐
       山砲兵第33連隊本部および臨時編成段列  
   砲兵隊
     長 野戦重砲兵第18連隊長   真山 勝 大佐
       野戦重砲兵第18連隊(第2大隊及び連隊段列2分の1 欠)
       野戦重砲兵第3連隊の1個中隊
   通信隊・輜重兵連隊(独立輜重兵第52中隊の1小隊)・第1第2野戦病院
    第105兵站病院第1第2患者療養所 他

師団歩兵司令部長 山砲兵第33連隊長  福家政男(ふけ まさお) 大佐の慰霊碑
マニプール州インパール南方ロトパチン村
47ミリ速射砲


昭和16年製もしくは17年製大阪までしか見えません。

時系列に見てみますと昭和17年まではビルマ山間部では作戦不可能と考えていた。しかし18年の英軍ウィンゲート空挺団の進行により山間部でも作戦遂行可能と考えが変化している、又其処にチャンドラボースの日本への亡命大本営への進言により作戦遂行に傾いた、しかし作戦遂行の3個師団の師団長は山を知り尽くしており、到底無理だとの考えは変わらなかった、あの山と川を見れば到底作戦遂行は無理だとの考えは火を見るよりも明らかであったはずだ。

現在の我々よりも間違いなく体格などは劣っていたはずだ、食生活も行き届いていなかったはずだ、何があの大河チンドイン河を越えて、二千メートル級の幾重にも連なるアラカン山脈を越え戦う事が出来たのだろうか、精神力、メンタル以外の何者でもないと思うのである到底我々には及びもつかないほどの精神力を持っていたに違いないのである。たかだか六十数年前の話である、日本人の忘れてしまった精神力、日本復活の鍵はここにあるのだと思うのである。(日本は自滅しているわけではないのですが)








1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

作戦は戦闘力だけでは遂行できず。

精神力だけでも勝てず。

その両方の力に、天候と兵站、人員の補充が兼ね備えられて、初めて遂行できる。

しかしやってみなければ判らない。

戦争に、タラレバは無い。

全ては、神のみぞ知る。