2012年6月7日木曜日

皇太子殿下のタイ国,カンボジア国及びラオス国御訪問について


タイ,カンボジア及びラオスご訪問(平成24年)

平成2465

閣議了解

この度,タイ国政府,カンボジア国政府及びラオス国政府から,それぞれ,皇太子殿下を招待したい旨の申出があった。
ついては,我が国とこれら3か国との友好関係に鑑み,殿下に各国を御訪問願うことといたしたい。

御日程は,625日御出発,71日御帰国の予定である。

御日程の概要

日程     内容
625日(月)          東京 御発
バンコク 御着(タイ国)

626日(火)          同地御滞在
627日(水)          同地 御発
プノンペン 御着(カンボジア国)

628日(木)          シアムリアップ 御着
プノンペン 御着

629日(金)          同地 御発
ビエンチャン 御着(ラオス国)

630日(土)          ルアンパバーン 御着
ビエンチャン 御着

71日(日)             同地 御発
東京 御着



                             大使館からのお知らせ

反独裁民主戦線(UDD)によるデモ集会について
(6月6日現在)

1.治安当局等によれば,反独裁民主戦線(UDD:通称「赤シャツ・グループ」)
は,憲法裁判所裁判官の罷免を求め,以下のとおりデモ集会を行う模様です。

●日  時:6月7日(木)午前9時頃~6月8日(金)国会会議終了時
●場  所:国会議事堂前(別添地図参照)。
●人  数:5,000人以上が参集する可能性有。


2.つきましては,上記1.のとおり,UDDによるデモ集会の影響により,同集会が
実施される周辺においては交通渋滞や人の混雑が予想されますので,報道等か
ら最新情報の入手に努めるとともに,同集会が実施される周辺に近づく場合には,
十分に注意を払ってください。


(問い合わせ先)

○在タイ日本国大使館領事部
 電話:(66-2207-8502696-3002(邦人援護)
 FAX :(66-2207-8511



2012年6月6日水曜日

奉悼

奉悼 寛仁親王殿下薨去

寛仁親王殿下薨去の報に接し、心より哀悼の意を表します

2012年6月5日火曜日

テグノパールの戦い


インパール方面作戦記録には、山本支隊は3月26日インドビルマ国境モレを突破と書いてある、其処からテグノパールまではさほど距離は無いが、3月下旬に20インド師団と戦っている、此処は峠の山々を英印軍が全て守っているので、かなり苦戦したと思われる。




テグノパールから見たビルマ方面果てしなく山の向こうがビルマ領


テグノパールの戦い



右突進隊(山本支隊) 第33師団歩兵団長 山本 募 少将                                
          (編成地水戸)歩兵第213連隊(温井 親光 大佐)                      
 テグノパール攻撃
 
19年 2月 25日 

          インパール作戦準備命令      弓作命甲(第33師団命令)
命令{右突進隊は極力企図を秘匿しつつx-7日主力を以て「モーレイ」北方地区より一部を以て「ヤザジョウ」付近    より行動を開始し当面の敵を撃破し「ウィトウ」「モレー」付近の敵を撃滅したる後「パレル」付近を経て「イン    パール」に向い突進すべし。}
         長 歩兵団長 山本募 少将 
               歩兵団司令部
               歩兵第213連隊
命令{歩兵1大隊を基幹とする部隊(第2大隊(砂子田大隊))を以て「ヤザジョウ」北方地区より「ムアビ」付近を経    て「インパール」南方に突進せしめ状況により「ヘンタム」方向突進し中突進隊方面の戦闘に協力せしむる     の準備にあたらしむべし}
          歩兵第215連隊 第5中隊
          戦車第14連隊(軽戦車4輌欠)
命令{企図秘匿のため戦車連隊の「チンドウィン」河西方地区への進出は3月1日以降とし其の
   昼間行動を禁止す}
          独立速射砲第1大隊
          山砲兵第33連隊第2大隊
          野戦重砲兵第3連隊(第2中隊、第2大隊および連隊段列2分の1欠)
          野戦重砲兵第18連隊第2大隊および連隊段列2分の1
          工兵第33連隊の1個中隊
          衛生隊3分の1

19年 3月20日

山本支隊           第15軍の直轄となり、牟田口司令官の指揮下に入る

19年 3月下旬 
    
山本支隊 、テグノパールで第20インド師団と衝突

19年 4月 8日

テグノパールの陣地を第213連隊第3大隊800名で攻撃を開始した
 英印軍の砲撃や飛行機の爆撃が激しく連日の激戦で80人の生き残りだけとなった。

19年 4月20日 
              
テグノパールの陣地は山の上にあり戦車は一本道を並んで敵の的になるだけで有ったが支隊の命令で攻撃に行ったが敵の砲撃され、上田連隊長はやもなく退却した。
  戦車用兵の無能な指揮の山本少将は上田連隊長を臆病者と怒鳴りつけたが、支隊司令部は遠く後方にあり、テグノパールの前線を視察もしたことがなかった。

19年 4月28日
               
歩兵第213連隊連隊長代理の伊藤少佐は攻撃を実行する兵力がないため攻撃命令を実行しなかった。

19年 5月 8日

歩兵第213連隊連隊長代理の伊藤少佐と戦車連隊長の上田中佐を解職となり、テグノパール敗戦の責任を押しつけられた。  
上田中佐はビルマ方面軍司令部付きに転任命令。
 戦車第一四連隊 連隊長が 上田中佐 から伊瀬大佐に代わった。

19年 5月11日
               
テグノパールの戦車第一四連隊は山本支隊を離れ、弓師団に配属となりビシェンプールの総攻撃に急行を命令されアラカン山岳地帯を南にUの字迂回約600km開始した。



テグノパールの丘、というよりも山のてっぺん、此処で日本軍が陣を構えたものと思われる、現在はテグノパール地区の墓園になっている。


3年前日本の遺骨収集団が捜索をした模様、日本軍の装備品は出たが遺骨は出なかったそうだ。

未だご帰還叶わぬご遺骨がこの地区だけでも相当あると思われる、一日も早いご帰還を願う。
又この地区の案内をしてもらった地区長さんにも情報があれば何時でも連絡をお願いしますと頼んで後にした。









2012年6月4日月曜日

ウィサカブチャー(仏誕節)


6月4日は仏事でタイは祝日です。



お寺ではありませんが、ワットロンクン(チェンライ)

陰暦6月の満月の日で、釈迦の誕生日です。ウィサーカブーチャーの日は、釈迦が生誕、大悟、入滅した仏教的に重要な意味のある日であるとされており、同日に起こった3つの奇跡へ想いを馳せ、釈迦の徳に対して礼拝するための儀式が行われています。

タイ仏暦では生誕がBC623年、大悟が35歳のBC588年、そして入滅が80歳のBC543年となるわけです。

プラケオモラコット

仏教とは

   仏教は、2500年前のインドに起源を持つ哲学、道徳規範、宗教的信条です。その教えは人類の苦悩の解明や個人のための苦悩の解決策であり、またその道徳規範は慈悲心と非暴力に基づいており、瞑想を通して内観へ到達する道を説いています。つまり、仏教は「実態の本質」のより深い理解に到達するための道を啓示して人々を内観へ導きながらも、人々の日常生活等に結びついた実用的な教えを提供しているのです。今日、世界で5億人の人々が仏教の教えに従っていると推定されています。

仏陀の誕生からタイ仏教まで

仏教は、2500年前に仏陀によって創設されました。仏陀はインド(現在のネパール)のカピラヴァスツの王スッドーダナとマーヤ夫人の間に生まれ、シッダールタと名付けられました(仏陀という名前は釈迦が悟りを開いた後に自らを呼んだ名前で「真理を悟った者」を意味しています)。
仏陀はヤショーダラーという女性と結婚して、一子を授かりラーフラと名付けました。しかし、仏陀は日々の快適な生活により心が満たされることはなく、全てのものは滅びる運命にあり人生は苦しみで満ちていると感じていました。そして29歳になった年のある晩、彼は王宮を抜け出して、人生の苦悩を解決する道を見出すため修行の旅に出ました。そして6年の修行の末、35歳になった仏陀はある満月の夜、ネランジャナー川のほとりにあるアシュヴァッタの樹(菩提樹)の下で大悟しました。その後仏陀は「四諦(4つの真理)」を弟子達に説き始め、さらに弟子達により当時の人々へその教えが広められました。仏教はこうして時が経つに連れて各地へ広く伝道されてゆき、仏陀が80歳で入滅する頃までに、インドで定着するに至りました。

   インドの王の中で最も深く仏教に帰依したのはアショーカ王で、周辺の国々まで広く布教活動を行いました。このようにしてスワンナプーム(現在のタイ)の地に仏教が伝わり、タイの人々の間にも仏教が定着してゆきました。その後、スコータイ王朝のラムカムヘーン王により仏教はタイの国教として定められ、タイは仏教の拠点の一つとなりました。そのため仏教のタイの人々への影響は大きく、その影響によりタイ人は平和を愛し、異なる民族や文化に対して無類の寛容さと歓迎する心を持ち合わせた国民となったのです。



2012年6月3日日曜日

インドービルマ国境 モレータム

今年の一月ディマプールーヤンゴン往復5000キロラリーが開催された、初めての国際ラリーだ。
此処の国境は外国人を通さないので、ミゾラム州の国境を通るのではないかと思っていたが、此処を通って行ったらしい。
昨年同じところを行った身としては、よくもまああんな道を通っていくものだと思っていた。
この道はアジアンハイウェイ一号線(AH-1)にもなっていてビルマもこれに加盟しているので将来的には国際ハイウェイとして使われることは間違いありませんが、何時になったらハイウェイになるのだろうか、しかし3月のインパール新聞に、モレからディマプール間でスーパーハイウェイを通すと書いてあった、少々期待してはいたが、やはり一緒だった。


今から山道ですよと、麓の町これから山道が続く

スーパー陸橋おそらく日本軍もこの橋を渡ってきた
1943年製
マニプール州唯一のインドビルマ国境、このほかにインドビルマ国境はミゾラム州に一箇所ナガランド州に一箇所のみ、しかし外国人が通れないのは此処だけ。


国境商店街
そしてこれがスーパーハイウエイ


アジアンハイウエイ予想図

アジアハイウェイ(Asian Highway Network

AH-1(延長:20,710km
東京(Tokyo・起点)、福岡(Fukuoka)、釜山(Busan)、ソウル(Seoul)、平壌(Pyongyang)、北京(Beijing)、長沙(Changsha)、広東(Gangdong)、ハノイ(Hanoi)、ホーチミン(Ho Chi Minh City)、プノンペン(Phnom Penh)、バンコク(Bangkok)、ヤンゴン(Yangon)、インパール(Imphal)、ダッカ(Dhaka)、コルカタ(Calcutta)、ニューデリー(New Delhi)、イスラマバード(Islamabad)、カブール(Kabul)、テヘラン(Tehran)、アンカラ(Ankara)、イスタンブル(Istanbul)、カプクレ(トルコ、ブルガリア国境・終点

2012年6月2日土曜日

平成24年度遠洋練習航海について


大使館からのお知らせ

タイ在留邦人の皆様へ


市民民主化同盟(PAD)による抗議集会について

(6月1日現在)
1.報道等によれば,1日,市民民主化同盟(PAD:通称「黄シャツ・グループ」)の代表者は,今後とも継続して国民和解法案に反対するための抗議集会を国会議事堂周辺で実施する旨を発表しております。

2.つきましては,抗議集会が実施される場合には同周辺においては交通渋滞や人の混雑が予想されますので,報道等から最新情報の入手に努めるとともに,抗議集会が実施される周辺に近づく場合には,十分に注意を払ってください。

(問い合わせ先)
在タイ日本国大使館領事部
 電話:(66-2207-8502696-3002(邦人援護)
 FAX :(66-2207-8511



















海上自衛隊の艦艇3隻が6月7―10日、バンコク港に寄港する。練習艦「かしま」(4050トン)、練習艦「しまゆき」(3050トン)、護衛艦「まつゆき」(3050トン)で、乗員は約700人。


8日9日の午後13―17時に一般公開される。


平成24年度遠洋練習航海について

期間
平成24522日(火)~1022日(月)(154日間)

■派遣部隊
練習艦隊司令部
練習艦隊司令官:海将補 淵之上 英寿(ふちのうえ ひでとし)
実習幹部:約190名(うち女性20名、タイ王国海軍少尉1名)
練習艦「かしま」  :艦長 1等海佐 佐々木 輝幸
練習艦「しまゆき」 :艦長 2等海佐 柳原 誠
護衛艦「まつゆき」:艦長 2等海佐 石田 徹
合計 約760

■訪問国(寄港順)
フィリピン(マニラ)
タ   イ(バンコク)
イ ン ド(ムンバイ)
モルディブ(マレ)
ジ ブ チ(ジブチ)
サウジアラビア(ジッダ)
ト ル コ(マルマリス)
ジ ブ チ(ジブチ)
タンザニア(ダルエスサラーム)
セーシェル(ビクトリア)
オマーン(サラーラ)
パキスタン(カラチ)
スリランカ(コロンボ)
バングラデシュ(チッタゴン)
カンボジア(シアヌークビル)

総航程:約48,000km

海上自衛隊 舞鶴基地 護衛艦『まつゆき』出港





2012年6月1日金曜日

慰霊祭と植樹

インパール南方ロトパチン村では毎年5月20日慰霊祭が行われている。
昨年は7月に訪れたので参加することが出来なかった、今年は慰霊祭に合わせての訪問である、事前の調査では現在慰霊祭は行われていないという話を聞いていた。しかし参加者だけでやればいいじゃないかということで、参加者だけでやる事に決定。

しかし人数は少ないがちゃんと執り行われていたのである、一人でも慰霊祭は慰霊祭です。
ヒンドゥーモンク(僧侶)一人の慰霊祭、モンクに伺ってみたところ年々参加者の数が少なくなり今では一人が多いということだ、村の方は村の入り口に慰霊碑があっても世代が変われば、どんどん風化して行くのかも知れない。






清掃の後、我々も英霊に黙祷の後、海行かば 斉唱 終わるころには子供やら村の人やら結構人数が増えていました。



又チェンマイから送ってもらいバンコクに二週間ほど寝かせた櫻会の桜を植樹。

管理人に植えてもよいかと尋ねる。

管理人曰く”はい、何処にでも植えてください、と慰霊碑のまん前二箇所を指差す。

一箇所は何も植えてなかったが、左の方は何か植わっているのである。

が管理人曰く’それは捨てていいです。

そう言うわけにも行かず敷地内の隅のほうへ植えさせてもらうことにした。

植樹をされる櫻会大西代表

かなり弱っていた上枝を三分の二程切ってしまったので、心配である。管理人にくれぐれも水をやって下さいとお願いしてきた。




慰霊碑も少々崩れている部分もあったので、次回来た時はペンキの塗り替えなどやりたい旨管理人に伝える。
あまりにも落書きが酷過ぎる。



慰霊碑横のインド平和公園に行く、管理人が一緒ということもあり、この周りに桜を植えることも約束。




この三つの石は日本、インド、イギリスという意味らしい?日本政府が立てたものでよく意味がわからない。

このロトパチン村から南方へ数キロ行ったところがビシュンプールである。

ビシュンプールの戦い


第33師団(弓)中突進隊(作間連隊) 歩兵第214連隊長 (作間 喬宜 大佐)                             
ビシェンプール.攻略

19年 5月19日

師団は「インパール」に突入するはずの作間連隊を急遽「ビシェンプール」の攻撃に振り向け、笹原連隊は「ガランジャール」の敵をはねかえし「ビシェンプール」に突入し、南道路の戦車第14連隊と配属歩兵大隊(兵・祭)は「トルブン」を突破し「ボッサンパン」の部隊と「ビシェンプール」に突入する作戦計画を立てた。

「作間連隊は急遽「ビシェンプール」を攻撃し、的の後方を遮断すべし」田中参謀長から 師団命令(牟田口軍司令官の命令) 

作間連隊の「ビシェンプール」攻撃計画

  第1大隊(森谷大尉)名は「ヌンガン」山稜から平地に下り、インパール南道を東に越え「ビシェンプール」の北端より「シルッチャール」分岐点を確保し、敵後方連絡を遮断する。(兵力380名 重機関銃2 軽機関銃5)

  第2大隊(末田大尉)は「ヌンガン」より北東に下り、「ビシェンプール」北方2kmの「パレンバ」および北方8km2928高地を占領し、インパール南道の連絡を遮断する。 540名 重機関銃3 軽機関銃6 山砲3門(6発/1日))

  連隊本部は連隊長直轄部隊で「ヌンガン」山稜を確保する。
150名 連隊本部、乗馬小隊その他) 4~5破甲爆雷・小銃弾120発/人・手榴弾1発/人 食糧3日分

19年 5月20日

02:00 第214連隊第1大隊第3中隊長(村松大尉)が敵のバリケードを排除し三叉路の敵兵舎を攻撃し、兵300名・馬300頭を捕獲したが、敵の逆襲に遭い捕獲した兵馬を放棄し三叉路確保に努めた。
英軍との戦闘が激しかった三叉路。右へ行けば5846高地、其処から三つこぶ高地へつながる道

19年 5月27日

第1大隊の安藤中尉(副官)が連隊本部に報告に来る。「大隊長(森谷大尉)以下5名「ビシェンプール」東北角の    豪にいます。」とまた、「昨日の山守隊の攻撃も気づきませんでした」と本部では疑問におもう。
第2大隊(末田大尉)から無線が入る「「パレンバ」を確保しあり、インパール南道眼下に見るも、重火器全滅せるた   め、これを遮断するに能わず、40名になるも士気さかん」
午後、敵は「パレンバ」に徹底攻撃をしかけてきた。

第2大隊(末田大尉)以下38名「パレンバ」部落北方から無線が入る「敵の攻撃は激烈、大隊の位置は危険に瀕す。この連絡を最後に無線機を破壊す。連隊の健闘を祈る。万歳」

19年 5月28日

第1大隊長森谷大尉が「ブンテ」に戻って来て、連隊本部に連絡してきた。連隊長は「大隊長がみずから連絡に来るとは何ごとか」と追いかえした。
 岡本師団参謀が撤退の意見具申し、連隊長の同意のもと師団に意見書を提出

師団から「攻撃をやめ撤退を許可する」無電で命令がきた
 「ビシェンプール」攻撃は終わり、第1大隊380名のうち17名・第2大隊540名のうち37名が戻った。作間連隊は山砲・重軽機関銃はほとんど無く人数も120名足らずとなった。

ビシェンプール南方2926高地を攻めた第33師団(弓)歩兵第214聯隊第2大隊540名のうち生還は37名であった、この部隊が一番インパールに近ずいた部隊である、またこの2926高地を日本人が多く血を流したことで地元民がレッドヒルと名付け毎年5月20日慰霊祭を執り行っている。