本年も乱雑な本ブログのご愛顧ありがとうございます。
来る年が皆様にとって良い年であることを願います。
For the New Year Coming I Wishing yous Best Year,Good Health, wealth and happiness throughout 2012 and forever.
私はこの様なミーハーなイベントには参加しませんが、一往書いておきます。
■バンコク
イベント名: Toyota Prius presents”Bangkok Countdown2012 @ CentralWorld"
日時:12月31日
場所: セントラルワールド前
出演:Tatoo color、Slur、The Richman Toy、パーミー、PARADOX 、 Nologo、ETC、ゴルフ・ピチャヤ、ナット・サクダートン
イベント名: Make a Wish Countdown
日時:12月31日
場所: サイアムパラゴン
イベント名: Ploenchit Happiness
日時:12月31日
場所: プルーンチット通りとチットロム通り
イベント名: New Year Festival at Bang Nam Pheung Floating Marke
日時:12月31日
場所: サムットプラカン県
バンコクではこの他にもカオサン通り、ラマ8世橋付近、リバーシテイー及びチャオプラヤ川沿いなどでも花火の打ち上げやカウントダウンがあります。と言うよりも何処もかしこもといった方が良いかもしれませんね。
■コンケーン
イベント名: Amazing Fantasy World
日時:12月31日
場所: Si Chan 通り
■ハジャイ
イベント名: Night Paradise Hat Yai Countdown:
日時:12月30-31日
場所: Odeon Fashion Mall
■プーケット
イベント名: Colorful Phuket Countdown:
日時:12月29-31日
場所: Sanamchai Ground
イベント名: Phuket Electronic Music and Dance Festival
日時:12月30-31日
場所: カロンビーチ
■チェンマイ&チェンライ
イベント名: Chaing Mai Countdown
日時:12月31日
場所: Chalermprakiat Hall
イベント名: New Year’s Eve and Happy New Year
日時:12月31日-1月1日
場所: Chiang Saen(チェンセーン)
■パタヤ
イベント名: Pattaya Countdown 2012
日時:12月25-31日
場所: バリハイ桟橋など
2011年12月29日木曜日
2011年12月27日火曜日
イスラム金融が一番進んでいる日本
トルコの新聞から
トルコの新聞で東京雑記という記事を見つけた、東京滞在中トルコ人が今の日本について面白いことを書いている。
イスラム金融が一番実践されているのは日本、日本の銀行は怠慢なところだらけですが、しかし他の国へ行けばそんなことは可愛いものです。イスラム金融で一番肝心なのはイスラム法(=シャリア)ですが、これを忠実に実践しているのは日本なのでは?
アメリカや先進国は銭儲け至上主義といいますか、日本も近頃はそのような者が多いような気がしますが。
何も日本がイスラム金融を真似しているわけではありません。
16世紀なかばに来日したフランシスコザビエルは「日本人は貧しいことを恥ずかしがらない。武士は町人より貧しいのに尊敬されている」と驚いた。武士は刀を持っていたから尊敬されていたのではない。高い倫理道徳ゆえである。日本ほど金銭至上主義と縁遠い国は、少なくとも欧米にはなかったと思う。(愚かなり、市場原理信奉者より)
歴史と伝統がある日本国においてはイスラム法をも網羅してしまうのです。しかしそれが崩れて来ているのは現実です。
簡単にご紹介いたしますとシャリア法では利子の受取が教典「コーラン」で禁じられているから金利という概念を用いない。取引相手等の当事者が教義に反する事業(豚肉、アルコール、武器、賭博、ポルノ等)に関わっていないことも、イスラム金融取引の大きな特徴です。
実際金利としてではなく違う方法を用いることが多い、例えばリース契約にするだとか、色々とあります。
Melih Aratの東京雑記
2011年12月25日付 Zaman紙
私はこの記事を、東京のホテルの部屋で書いている。
私は東京で何を見たか?日本では高額な買い物以外ではクレジットカードは使われないか、使われたとしても稀である。完全に現金に基づいたシステムとなっている。私は、欧米諸国を旅行するときは、様々な理由から現金を持ち歩くのがあまり好きではない。
買い物はクレジットカードでする。
世界で二番目に発展した国で、一部の順位では世界一位に来るような国で、クレジットカードが使われていない。トルコの銀行家は怒らないように。小売業者は一銭も銀行に取られることはない。
例えばあなたがあるレストランに行ったとしよう。このレストランであなたは食事をする。その後会計をする。この過程で銀行があなたか、またはレストランに直接行ったサービスがないにも関わらず、最後には銀行に2~5%の割合で手数料を支払う。この手数料は誰が払っているのか?
通常は業者が払っていると考えるだろうが、これは常に、客のポケットから出る金である。日本ではこれがない。こうしたことが利子をなくしまたはとても低く抑えているため、日本人はイスラム的な金銭感覚で生きているのかと考えずにいられなかった。
なぜなら、銀行の仲介が行われないことが、自動的に利子のシステムが入りこむのを防いでいるからだ。クレジットカードは90年代に日本に普及したという。しかしトルコや他の欧米諸国のように、人々はクレジットカードで過度に消費し、物価を上昇させ、90年代半ばにバブルがはじけた。アメリカで2008年に起こった財政危機が、日本では90年代半ばに起こり、徹底的な改革が行われた。現在すべての日本人は支払いに現金を使っているので、どれほど使ったのかを完全に分かっている。日本人は、一人当たりの貯蓄額が世界で最も多い。
世界の国々の多くの首都で、歩行者の交通違反が見られる。歩行者は大都市や首都で、ある程度の混雑に直面すると、自分たちのためにある赤信号を無視して横断歩道を渡る。
ニューヨーク、イスタンブル、ロンドン、パリ、その他の多くの首都で、道路に車がいないのを見た歩行者が、青信号を待たずに道路を渡る。世界で、私がちゃんと待つ人を見た最初の国民は、ベルリンのドイツ人で、二番目は日本人である。この二つの国民には共通の特徴がある。世界で最高の車を作っていることだ。ドイツはBMW、アウディ、メルセデスを、日本は世界の自動車業界のリーダーであるホンダと、トヨタを擁す。
社会という観点から見た、赤信号で止まることの重要性は、つまり社会のシステムや規則を身につけているということである。彼らはそれを自分たちの個人的な利益のために無視したりしない。
日本社会に関して、数多くの例が挙げられて語られうる特徴は、うらやむほどの規則社会、システム社会であるということだ。
世界のどこにでもあるように、日本にもトルコ人学校、トルコ語教室がある。これらに関して情報をくれた経営者と教師から、あることを聞いたのだが、それは日本に関して私が今まで知っていたことの中で最も驚いたことであった。
つまり日本の学校では、生徒が自ら掃除を行っているのだ。トイレ掃除以外の掃除をするための用務員はいない。
すべての生徒が自分たちで教室を掃除し、廊下を班ごとに拭き、ぴかぴかにしている。
学校の生徒に集団責任の考えを教えることほどいい教育はない。
日本にあるバハールエデュケーション株式会社のムスタファ・アスラン代表取締役から、津波で被害を受けた地域を支援するために被災地で支援物資を配っている時のことを聞き、私は驚きを隠せなかった。
支援を行ったすべての場所で日本人は、一定の量(ほとんどの場合は十分とは言えない物資を受け取った後、「私たちはこれで十分です。どうか残りをまだ支援が行き届いていない地域の人たちに届けてください」と言って、残りの支援物資を返したというのだ。これはなんという集団意識であろうか!彼らは危機のときでさえ、自分たちのことよりも他の人たちのことを考えているのである。
(翻訳者:菱山湧人)
この記事の原文はこちら
トルコの新聞で東京雑記という記事を見つけた、東京滞在中トルコ人が今の日本について面白いことを書いている。
イスラム金融が一番実践されているのは日本、日本の銀行は怠慢なところだらけですが、しかし他の国へ行けばそんなことは可愛いものです。イスラム金融で一番肝心なのはイスラム法(=シャリア)ですが、これを忠実に実践しているのは日本なのでは?
アメリカや先進国は銭儲け至上主義といいますか、日本も近頃はそのような者が多いような気がしますが。
何も日本がイスラム金融を真似しているわけではありません。
16世紀なかばに来日したフランシスコザビエルは「日本人は貧しいことを恥ずかしがらない。武士は町人より貧しいのに尊敬されている」と驚いた。武士は刀を持っていたから尊敬されていたのではない。高い倫理道徳ゆえである。日本ほど金銭至上主義と縁遠い国は、少なくとも欧米にはなかったと思う。(愚かなり、市場原理信奉者より)
歴史と伝統がある日本国においてはイスラム法をも網羅してしまうのです。しかしそれが崩れて来ているのは現実です。
簡単にご紹介いたしますとシャリア法では利子の受取が教典「コーラン」で禁じられているから金利という概念を用いない。取引相手等の当事者が教義に反する事業(豚肉、アルコール、武器、賭博、ポルノ等)に関わっていないことも、イスラム金融取引の大きな特徴です。
実際金利としてではなく違う方法を用いることが多い、例えばリース契約にするだとか、色々とあります。
Melih Aratの東京雑記
2011年12月25日付 Zaman紙
私はこの記事を、東京のホテルの部屋で書いている。
私は東京で何を見たか?日本では高額な買い物以外ではクレジットカードは使われないか、使われたとしても稀である。完全に現金に基づいたシステムとなっている。私は、欧米諸国を旅行するときは、様々な理由から現金を持ち歩くのがあまり好きではない。
買い物はクレジットカードでする。
世界で二番目に発展した国で、一部の順位では世界一位に来るような国で、クレジットカードが使われていない。トルコの銀行家は怒らないように。小売業者は一銭も銀行に取られることはない。
例えばあなたがあるレストランに行ったとしよう。このレストランであなたは食事をする。その後会計をする。この過程で銀行があなたか、またはレストランに直接行ったサービスがないにも関わらず、最後には銀行に2~5%の割合で手数料を支払う。この手数料は誰が払っているのか?
通常は業者が払っていると考えるだろうが、これは常に、客のポケットから出る金である。日本ではこれがない。こうしたことが利子をなくしまたはとても低く抑えているため、日本人はイスラム的な金銭感覚で生きているのかと考えずにいられなかった。
なぜなら、銀行の仲介が行われないことが、自動的に利子のシステムが入りこむのを防いでいるからだ。クレジットカードは90年代に日本に普及したという。しかしトルコや他の欧米諸国のように、人々はクレジットカードで過度に消費し、物価を上昇させ、90年代半ばにバブルがはじけた。アメリカで2008年に起こった財政危機が、日本では90年代半ばに起こり、徹底的な改革が行われた。現在すべての日本人は支払いに現金を使っているので、どれほど使ったのかを完全に分かっている。日本人は、一人当たりの貯蓄額が世界で最も多い。
世界の国々の多くの首都で、歩行者の交通違反が見られる。歩行者は大都市や首都で、ある程度の混雑に直面すると、自分たちのためにある赤信号を無視して横断歩道を渡る。
ニューヨーク、イスタンブル、ロンドン、パリ、その他の多くの首都で、道路に車がいないのを見た歩行者が、青信号を待たずに道路を渡る。世界で、私がちゃんと待つ人を見た最初の国民は、ベルリンのドイツ人で、二番目は日本人である。この二つの国民には共通の特徴がある。世界で最高の車を作っていることだ。ドイツはBMW、アウディ、メルセデスを、日本は世界の自動車業界のリーダーであるホンダと、トヨタを擁す。
社会という観点から見た、赤信号で止まることの重要性は、つまり社会のシステムや規則を身につけているということである。彼らはそれを自分たちの個人的な利益のために無視したりしない。
日本社会に関して、数多くの例が挙げられて語られうる特徴は、うらやむほどの規則社会、システム社会であるということだ。
世界のどこにでもあるように、日本にもトルコ人学校、トルコ語教室がある。これらに関して情報をくれた経営者と教師から、あることを聞いたのだが、それは日本に関して私が今まで知っていたことの中で最も驚いたことであった。
つまり日本の学校では、生徒が自ら掃除を行っているのだ。トイレ掃除以外の掃除をするための用務員はいない。
すべての生徒が自分たちで教室を掃除し、廊下を班ごとに拭き、ぴかぴかにしている。
学校の生徒に集団責任の考えを教えることほどいい教育はない。
日本にあるバハールエデュケーション株式会社のムスタファ・アスラン代表取締役から、津波で被害を受けた地域を支援するために被災地で支援物資を配っている時のことを聞き、私は驚きを隠せなかった。
支援を行ったすべての場所で日本人は、一定の量(ほとんどの場合は十分とは言えない物資を受け取った後、「私たちはこれで十分です。どうか残りをまだ支援が行き届いていない地域の人たちに届けてください」と言って、残りの支援物資を返したというのだ。これはなんという集団意識であろうか!彼らは危機のときでさえ、自分たちのことよりも他の人たちのことを考えているのである。
(翻訳者:菱山湧人)
この記事の原文はこちら
2011年12月26日月曜日
大使館からのお知らせ
タイ在留邦人の皆様へ
バンコク都内東部における爆発未遂事件の発生について
(2011年12月26日現在)
1 報道などによれば,タイ警察は12月16日,下記のバンコク都内東部3カ所に計6個の時限式手製爆弾を仕掛けたタイ人男性を逮捕しました。爆弾はすべてタイ警察の爆発物処理部隊により未然に不発処理されたため被害には至りませんでした。逮捕された同男性は政治的な理由で犯行に及んだと自供していると報じられています。タイ政府は,年末年始にかけて騒動を狙った事件が発生することを防止するため,バンコクの治安要員の配置を増強するとしています。
(1)ラックラバン区スクンビット通りソイ77のバンコク銀行付近
(2)ラックラバン区ノンプレー橋付近
(3)プラウェート区カンチャナピセーク通りソイ89
2 つきましては,年末年始期間中バンコクに渡航・滞在を予定している皆様は,不測の事態に巻き込まれることのないよう,最新の関連情報を入手するように努めてください。また,大勢の人数が集まる場所等においては周囲の状況に注意を払い,不審な状況を察知したら,速やかにその場を離れるなど安全確保に十分注意を払ってください。さらに,緊急事態に備え,連絡先を家族等に伝える等連絡手段を常時確保するように心がけるとともに,爆弾事件や不測の事態が発生した場合の対応策を再点検し,状況に応じて適切な安全対策が講じられるよう心がけてください。
3 なお,タイに対しては,上記のバンコク都を含め「危険情報」が発出されていますので,その内容にもご留意ください。
在タイ日本国大使館
○領事部
電話:(66-2)207-8502、(66-2)696-3002(邦人援護)
FAX :(66-2)207-8511
そう言えばハートロッカーみたいな格好をした爆弾処理班の映像が出ていたな
Bangkok bomb scares raise some tricky questions for govt
バンコク都内東部における爆発未遂事件の発生について
(2011年12月26日現在)
1 報道などによれば,タイ警察は12月16日,下記のバンコク都内東部3カ所に計6個の時限式手製爆弾を仕掛けたタイ人男性を逮捕しました。爆弾はすべてタイ警察の爆発物処理部隊により未然に不発処理されたため被害には至りませんでした。逮捕された同男性は政治的な理由で犯行に及んだと自供していると報じられています。タイ政府は,年末年始にかけて騒動を狙った事件が発生することを防止するため,バンコクの治安要員の配置を増強するとしています。
(1)ラックラバン区スクンビット通りソイ77のバンコク銀行付近
(2)ラックラバン区ノンプレー橋付近
(3)プラウェート区カンチャナピセーク通りソイ89
2 つきましては,年末年始期間中バンコクに渡航・滞在を予定している皆様は,不測の事態に巻き込まれることのないよう,最新の関連情報を入手するように努めてください。また,大勢の人数が集まる場所等においては周囲の状況に注意を払い,不審な状況を察知したら,速やかにその場を離れるなど安全確保に十分注意を払ってください。さらに,緊急事態に備え,連絡先を家族等に伝える等連絡手段を常時確保するように心がけるとともに,爆弾事件や不測の事態が発生した場合の対応策を再点検し,状況に応じて適切な安全対策が講じられるよう心がけてください。
3 なお,タイに対しては,上記のバンコク都を含め「危険情報」が発出されていますので,その内容にもご留意ください。
在タイ日本国大使館
○領事部
電話:(66-2)207-8502、(66-2)696-3002(邦人援護)
FAX :(66-2)207-8511
そう言えばハートロッカーみたいな格好をした爆弾処理班の映像が出ていたな
Bangkok bomb scares raise some tricky questions for govt
2011年12月23日金曜日
天皇陛下お誕生日に際し(平成23年)
天皇陛下のご感想
先月マイコプラズマによる感染症を患い,入院を余儀なくされたことから,多くの人々に心配を掛けました。私の健康を気遣ってくれた人々の気持ちに対し,謝意を表します。退院から日もたち,皇太子に委任していた国事行為も再開することができるようになり,体調も今では発病前の状態と変わらないように感じています。今後とも健康に十分気を付けながら新年にかけての行事を務めていきたいと思っています。
3月11日に起こった東日本大震災は,今から88年前の大正12年,10万人以上の死者を出した関東大震災以来の大きな災害で,死者,行方不明者数は2万人近くに上りました。更に後日この地震に誘発された地震が長野県の栄村を始めとして各地で起こり,犠牲者が出たところもありました。家族や親しい人を亡くした人々の悲しみはいかばかりかと察しています。また住まいや生活の場を失った人々,原発の事故で住んでいた地域に住めなくなった人々のことが深く案じられます。震災発生以後,皇后と共に被災地や各地に設けられた被災者のための避難所を訪れ,被災者を見舞ってきましたが,これらの訪問を通して,被災者が様々な悲しみや苦しみを抱えつつも,決して取り乱すことなく,強い連帯感を持ち,互いに助け合って困難を乗り越えようとしていることが感じられ,そのことを非常に心強く思いました。また日本各地で,人々が被災者のために支援活動を始めたり,何らかの形でこれに携わろうとしていることも心強いことでした。
厳しい環境の下,我が身の危険も顧みず,専心救援活動に当たった自衛隊,警察,消防,海上保安庁を始めとする国や地方自治体関係者,また原発事故の対応に当たった,東京電力及びその関係者の献身的努力に深く感謝しています。
諸外国からも救援の人々が来日し,日本の救援活動を助けてくれました。また駐日外国大使等日本に住んでいる外国人を始め,災害発生後日本を訪れた多くの外国人も,被災地を訪れ被災者を励まされていることに感謝しています。震災に際して頂いた外国元首からのお見舞いの電報の多くに,自分たちは被災者と共にある,という言葉が添えられていたことが思い起こされます。
歴史を振り返ると,我が国は,今回の地震津波災害とほぼ同じ犠牲者数を記録した明治29年の「三陸地震」を始めとし,これまでにも幾度となく地震や津波による災害を蒙(こうむ)ってきました。しかし,時の経過と共に,次第にその記憶や認識が薄れてきてしまっていたように思います。私が津波の恐ろしさに接したのは,平成5年「北海道南西沖地震」のお見舞いに皇后と共に奥尻島を訪れたときのことです。島は地震と津波で大きな被害を受けており,200人以上の死者,行方不明者が生じていました。少しの地形の違いでも,津波の高さは場所によりかなり違うこと,自動車で逃げようとした人が渋滞で助からず,歩いて高台に上がった人が助かった等と聞いたことが記憶に残っています。記録には津波の高さは青苗の市街地で10メートルを超えた所があると書かれていますから,もしこの度の被災地域の人が,奥尻島の津波災害の状況を更につまびらかに知っていたならば,一刻も早く避難することにもっと力を注ぎ,より多くの人が助かっていたのではないかと残念に思われてなりません。この度の津波災害においても,避難訓練と津波教育が十分行われていたところほど被害者が少なかったと聞き,施設面の充実と共に,今後も避難訓練と津波教育が十分に行われ,災害に当たり少しでも多くの人が危険から守られるよう願っています。
私どもの住む日本は,四方に海を持ち,山や川も多く,風光に恵まれた島国です。一方,我が国はいくつものプレートが重なり合う所に位置し,地震が多く,火山や急峻(しゅん)な山川,日頃は人々に幸を与えてくれる海も,時に荒れ,多大な被害をもたらします。この厳しい現実を認識し,災害時における人々の悲しみを記憶から消すことなく,常に工夫と訓練を重ね,将来起こるべきことに備えていかなければならないと思います。
今,被災地には再び厳しい寒さが訪れようとしています。住環境が十分でない所に住む被災者,殊に高齢者の健康が心配です。寒い冬を皆が少しでも健康に過ごすことができるよう願っています。
今年は豪雨による災害も,7月には新潟県と福島県で,9月には和歌山県,奈良県他で起こりました。9月に和歌山県等で起こった台風12号による豪雨災害では,森林に覆われた斜面がえぐり取られる深層崩壊というこれまで耳にしたことのない恐ろしい現象が起こりました。こうした災害により100人以上の生命が失われたことは本当に残念なことでした。ただ注目したいのは,7月に新潟県を襲った豪雨災害では,7年前に同地域が受けた豪雨災害時の雨量より更に多くの降雨量があったにもかかわらず,前回に比べ犠牲者の数が少なかったことです。これは前回の災害を教訓として治水や住民の避難に対し,様々な対策が講じられた成果であり,防災に力を注ぐことがいかに生命を守ることになるかを教えてくれます。
水害はタイ王国でも起こりました。国王陛下は長らく御入院中で,この水害にお心を痛めていらっしゃることとお案じしています。タイの水害は日本の産業にも影響を与え,タイにおいて日系企業が行っていた操業が不能となり,生産に携わっていたタイ人の少なからぬ人数を日本に呼び,生産を再開することになりました。言葉や生活習慣の異なるタイ人が日本での生活をつつがなく過ごすことができるよう願っています。この度の日本における災害及びタイの水害は,改めて今日の世界が様々な国の人々と共に生きる社会であることを感じさせるものでした。
今年は先の戦争が始まって70年になります。この戦争における死者はおびただしい数に上り,戦後,こうした戦争の惨禍を再び繰り返すことのないよう,日本の人々は,真摯に過去を学びつつ,戦後の厳しい困難に耐え,営々と国づくりに励み,今日の日本を築き上げました。戦争の記憶が薄れようとしている今日,皆が日本がたどった歴史を繰り返し学び,平和に思いを致すことは極めて重要なことと思います。
振り返ると,今年は災害に明け暮れた心の重い年でした。しかし,被災地の人々が,厳しい避難生活の中で,我慢強く耐え,多くの人々がボランティアとして被災者を支援したことは本当に心強いことでした。日本人全体がこの震災に向き合い,被災者のために何かの役に立とうとしていることを感じています。本年もあと僅かになりました。新しい年も被災者に心を寄せつつ過ごしていきたいと思っています。来る年が少しでも良い年となるよう願っています。
Press Conference on the occasion of His Majesty's Birthday (2011)
Reflections by His Majesty the Emperor on the Occasion of His Majesty's Birthday (2011) and the Activities of His Majesty the Emperor Over the Past Year
Reflections by His Majesty the Emperor on the Occasion of His Majesty's Birthday
I would like to express my gratitude to all the people for their concern and compassion regarding my health when I was hospitalized last month for mycoplasma infection. It has now been several weeks since I left hospital and I have been able to resume the official state duties that I had entrusted to the Crown Prince and I now feel that my physical condition is back to how it was prior to my hospitalization. I shall take good care of my health as I resume my works from now on through various events related to the coming of the New Year.
The Great East Japan Earthquake, which struck the country on 11th March, resulted in close to 20,000 dead or missing and was the biggest disaster since the 1923 Great Kanto Earthquake 88 years ago, which claimed more than 100,000 lives. The earthquake also triggered earthquakes in many other areas, including Sakae village in Nagano prefecture, resulting in casualties in some places. My thoughts go out to the people who lost members of their families and loved ones. Their sorrow must be truly heart-rending. My heart goes out to those who lost their homes and livelihoods and those who can no longer live in the places they used to live because of the nuclear plant accident. In the aftermath of the disaster, the Empress and I visited the areas afflicted by the disasters and the evacuation centres for the victims in many areas to offer comfort and encouragement to them. On all of these visits we were most touched to see that, in spite of the sadness and hardships they must be facing, the people never seemed to lose their composure and, with a strong sense of solidarity, they were trying to overcome their hardships by helping each other. We were also much heartened to see that many people around the country have launched efforts to support the victims and are trying to take part in those activities in various ways.
I am deeply grateful to the members of the Self-Defense Forces, the police, the firefighters, the Japan Coast Guard and other members of the central government and local municipalities who carried out relief operations under most severe conditions, without regard for the danger they were facing. My gratitude also goes to people related to TEPCO who dedicatedly attempted to contain the damage of the nuclear power accident.
Many people from overseas also came to help Japan's relief efforts. I am grateful to the ambassadors posted to Japan, the non-Japanese residents in Japan as well as many foreigners who came to Japan after the disaster, for their visit to the afflicted areas for the purpose of offering comfort and encouragement to the survivors. In many of the cables of sympathy I received from the foreign heads of state, I recall reading the words, "Our hearts are with the afflicted people."
On looking back on history, our country has been struck by disasters time and again, including the Meiji Sanriku Earthquake of 1896, which claimed roughly the same number of lives as the recent earthquake. However, it seems that with the passing of time, our memories and awareness of these disasters has faded. It was when I went to Okushiri Island with the Empress to express our condolence following the Hokkaido Southwest Offshore Earthquake of 1993 that I grasped the true horror of tsunami. The island had suffered massive damage from the earthquake and tsunami, with over 200 people dead or missing. I remember being told that even with only a slight difference in topography, the height of the tsunami can be significantly different in different locations, and that in some cases, those who tried to flee by car were caught in traffic jams and did not survive while those who fled on foot to higher ground survived. Records show that the tsunami reached higher than 10 meters in the town of Aonae in Okushiri. So I find it most regrettable that, had the people living in the areas afflicted in the March 11th earthquake been aware of the details of the tsunami damage in Okushiri in 1993, they might have known that they should try to evacuate as quickly as possible, and many more lives might have been saved. In the last earthquake, I heard that in places where thorough evacuation training and tsunami education had been implemented, there were more survivors, so it is my hope that in the future, not only the improvement of tsunami related facilities but also comprehensive evacuation training and tsunami education will be promoted so that in case of a disaster as many people as possible will be protected from danger.
Japan is an island nation surrounded by the ocean, with many mountains and rivers, and blessed with scenic beauty. However, the country is located where multiple tectonic plates meet each other, thereby causing many earthquakes. The volcanoes, the steep mountains and rivers, as well as the ocean that usually offers us so many blessings, can also sometimes suddenly turn violent and wreak huge damage. This is the harsh reality we must be fully aware, and while we must never forget the deep sorrow that people have experienced at the time of past disasters, we must be ready for any disasters that can occur in the future by always being prepared with various plans and training.
The afflicted areas will soon be facing a bitter cold winter. I am concerned about the health of the survivors, especially the elderly, who live under inadequate living conditions. It is my sincere hope that they will remain in good health through the cold winter.
This year torrential rains also caused disasters in Niigata and Fukushima prefectures in July and in Wakayama, Nara and other prefectures in September. The torrential rain in Wakayama and other prefectures caused by Typhoon #12 (Talas) triggered a terrifying phenomenon referred to as "deep-seated landslide," an unfamiliar term. This refers to the gouging of slopes that had been covered by forest. It was truly distressful that more than 100 lives were lost in these disasters. However, in the case of the disaster caused by torrential rains that struck Niigata prefecture in July, in spite of the fact that the precipitation was much greater than in the previous disaster in the same area seven years ago, the number of casualties was lower compared with that of the previous disaster. This was made possible because, as a result of lessons learned from the previous disaster, various measures for flood control and evacuation of the residents were taken in advance. It teaches us how placing importance on disaster prevention and management can help save many lives.
Floods occurred in the Kingdom of Thailand as well. My heart goes out to His Majesty the King, who has long been hospitalized and who must be so pained by the floods. These floods are affecting Japanese industry as well. As many Japanese companies were forced to cease their operations in Thailand, a number of Thais who were working at these production sites were brought over to Japan to resume production in Japan. I sincerely hope that the Thai people, coming from a country with a different language and customs, will be able to live and work here in Japan without too much difficulty. The disasters in Japan and the floods in Thailand remind us once again that we live in a world today in which our lives are closely linked with the lives of peoples of other countries.
Seventy years have passed since the outbreak of the prior war. As the war caused immense casualties, the Japanese people became determined never to repeat the ravages of war. Sincerely learning lessons from the past, they endured the harsh difficulties of the postwar years and strove diligently to build today's Japan. Now that the memories of the war have started to fade, I think it is extremely important for everyone to study time and again the course of history Japan has followed and to reflect on peace.
Looking back on this year, I must say this has been a truly distressing year, dominated by disasters. However it has been encouraging to note that the people in the afflicted areas are enduring the harsh conditions in evacuation and that many people are volunteering to support the victims. I feel that the Japanese people have come together as a nation to squarely face the disaster and do what they can to be of help for the victims.
Only days remain before the end of the year. My heart will be always with the afflicted people in the coming new year as has been the case thus far.
I sincerely hope that the coming year will be a better year for everyone.
この1年のご動静
今年3月11日,東日本大震災が発生し東北地方を始めとする広範な地域に甚大な被害をもたらしました。陛下は震災発生直後にビデオメッセージを発表されたほか,震災後間もなく皇后陛下とご一緒に被災地や避難所をご訪問になるとともに,状況把握のため多くの関係者からご説明を受けられました。例年のお仕事に加え,数多くの災害関連のお務めを果たされ,極めてお忙しくかつご心労の多い年でした。陛下はこの1年も国事行為としてほぼ毎週2回のご執務を行われ,内閣よりの上奏書類等957件にご署名やご押印をされました。儀式や行事としては,内閣総理大臣の親任式,認証官任命式(国務大臣始め109名),新任外国大使の信任状捧呈式(34名),勲章親授式(大綬章,文化勲章)及び勲章受章者の拝謁などに臨まれました。また,皇后陛下とご一緒に各界優績者の拝謁のほか,午餐や茶会など多くの行事に臨まれました。これらの行事は主として宮殿で行われましたが,東日本大震災に伴い発生した福島第一原発事故等に起因する節電要請に応えるべく,従来宮殿で行われている行事の一部は御所で行われました。そのほか,御所で恒例の日本学士院会員,日本芸術院会員,文部科学省研究振興局長とその推薦する研究者,青年海外協力隊帰国隊員及び青年・シニアの海外ボランティア・日系社会ボランティア代表,国際交流基金賞受賞者などと両陛下でお会いになったほか,定例の外務省総合外交政策局長によるご進講や各種行事に関するご説明などが合わせて54回ありました。これに加え,東日本大震災に関し,諸分野の関係者や専門家より33回にわたりご説明を受けられました。このほか勤労奉仕団,賢所奉仕団や新嘗祭のための献穀者に対し53回のご会釈がありました。
今年は外国へのご訪問はありませんでしたが,来日した各国からの賓客を宮殿や御所で接遇されました。元首としては,ウクライナ,ウズベキスタン,セルビア,フィリピン,ドイツ,コスタリカ,パキスタン,トーゴ,インドネシア,コロンビアからの訪問があり,訪日の形式に従って午餐やご会見の場を持たれました。このほか,首相又は国会議長としては,オーストラリア,インド,ベトナム,モンゴルがあり,王国からはトンガ,ブータン(注:王妹殿下),ルクセンブルク,デンマークからの賓客へのご接遇がありました。また,アメリカ合衆国から来日した旧知のヒラリー・クリントン国務長官,ダニエル・イノウエ連邦議会上院仮議長夫妻の接遇もありました。新任の外国大使夫妻を招かれてのお茶,日本滞在が3年を超える外国大使夫妻のための午餐,離任する大使夫妻のご引見は例年どおり行われました。一方,日本から外国に赴任する大使夫妻にもその都度,皇后陛下と共にお会いになっており,また,赴任先から帰国した大使夫妻も全員お茶に招かれ,任地の話をお聞きになりました。なお,11月にブータン国国王王妃両陛下が国賓として来日の折には,後述のとおり,陛下ご不例のため皇太子殿下がご名代として諸行事を執り行われました。
都内及び近郊へのお出ましとしては,陛下は国会開会式に臨まれ,また,両陛下にて全国戦没者追悼式を始め,毎年ご臨席になっている日本芸術院賞,日本学士院賞などの授賞式のほか,今年も数多く行われた各種周年記念式典などへのご臨席があり,節目の年の式典ではお言葉を述べられました。また,ご即位20年に当たり天皇陛下からのご下賜金を受けて創設された育志賞の第1回授賞式及び記念茶会が2月に開催され,ご臨席になりました。今年も5月のこどもの日,9月の敬老の日にちなんで,関連施設をご訪問になり,関係者を励まされました。なお,例年12月に行われている障害者週間のご訪問は,陛下ご不例のため来春に延期されました。また,11月29日,陛下ご退院後間もなく,ご体調も万全ではない中,東日本大震災消防殉職者等全国慰霊祭にご臨席になり,殉職者を追悼され,遺族に心を寄せられました。都内及び近郊へのお出ましは合計37回でした。
例年ご臨席になっている日本学術会議主催の国際会議としては,9月に北海道で行われた国際微生物学連合2011会議記念式典にご臨席になりました。(皇后陛下は頸椎(けいつい)症性神経根症の症状がお出になったため,ご同伴をお取りやめになりました。なお,皇后陛下が地方への公式行事でご同伴をお取りやめになったのは平成5年以来2度目,18年ぶりのことでした。)
今年の公的な地方行幸啓は先述の北海道を含め12道県(神奈川,埼玉,千葉,茨城,宮城,岩手,福島,和歌山,群馬,北海道,山口,鳥取)にわたりました。全国植樹祭(和歌山),国民体育大会(山口),全国豊かな海づくり大会(鳥取)などの式典にご臨席になり,併せて,地方の文化,福祉,産業の事情をご視察になり,ご訪問先や沿道,沿線でお迎えする大勢の人々の歓迎にお応えになりました。東日本大震災関係では避難者・被災者をお見舞いのため3月から5月にかけ,7週連続でお出ましになり,避難所としては東京武道館(3/30)及び埼玉県加須市(4/8)を,また被災地としては千葉県旭市(4/14),茨城県北茨城市(4/22),宮城県(4/27),岩手県(5/6),福島県(5/11)をご訪問になり被災者をお見舞いになりました。その後,8月,9月にも都内及び千葉県東金市に出向かれ,被災者やその世話に当たる人々を労われました。この1年に公的に地方行幸啓先でご訪問になった市町村数は24市,5町,1村になります。
今年は那須御用邸に7月下旬にお出ましになりましたが,その途次,御料牧場にお立ち寄りになり地震による被災状況をご視察になった後,那須町では東日本大震災に伴う福島県からの避難者をお見舞いになったほか,例年どおり農家をご訪問されました。また,那須御用邸用地から環境省に移管され,今年5月から一般公開された「那須平成の森」のフィールドセンターが開館し遊歩道が整備されたのでおいでになり,同所を訪れていた人々と共に自然を楽しまれました。
宮中祭祀は,陛下は恒例の祭典のほか,一條天皇千年式年祭など21回の祭典にお出ましになりました。なお,新嘗祭は,陛下はご不例のためご欠席になり,掌典長によるご代拝となりました。また,毎月一日の旬祭は5月と10月(今年は山口県へ行幸啓中につきご代拝)以外はご代拝により行われています。
「日本産魚類検索-全種の同定」には,陛下はその第一版(平成5年)からハゼ類の項目に関わってこられましたが,今年も昨年同様に,その第三版の改訂の作業が行われており,皇居内生物学研究所で,月に3回ほど編集者の中坊徹次京都大学教授と生物学研究所の職員らを交えて,ハゼの分類の検討を行っていらっしゃいます。月に1度の魚類分類研究会は今年4月までは国立科学博物館分館で行われておりましたが,5月からは上野にある同博物館本館に移り,今年は分館1回,本館3回計4回ご出席になりました。
陛下は今年も例年どおり,皇居内生物学研究所の田で種籾(たねもみ)のお手まき,お田植えをなさり,お手刈りをなさいました。また,陸稲と粟(あわ)をお子様及びお孫様方とご一緒に種をまかれ,刈り取られ,粟は新嘗祭の折,お手刈りになった水稲と共にその一部をお供えになりました。また,神嘗祭に際しては,お手植えになった根付きの稲を神宮にお供えになりました。
陛下は今年1月にお受けになった心機能検査の結果を踏まえ,2月に東大病院にて動脈カテーテルによる冠動脈造影検査をお受けになったところ,冠動脈全体にある程度の動脈硬化が確認され,冠動脈狭窄(きょうさく)も認められました。ご治療として薬物ご内服を続けていただき,無理のない範囲で運動をお続けいただきながら,従来どおりの日常生活をお過ごしいただいてきました。また,11月初めより気管支炎による発熱が見られたため,大事を取って11月6日夜から東大病院にご入院になりました。ご入院中に,お咳とお熱が悪化し,軽度の気管支肺炎と診断されました。この原因はマイコプラズマであったことが,後に確認されています。その後ご症状が回復したため,11月24日にご退院になりましたが,ご退院後もしばらくの間,御所にてご療養いただきました。病院・御所でご療養の間,11月7日から12月6日まで,皇太子殿下に国事行為臨時代行を委任され,また,国賓を始め幾つかの行事にご名代としてご差遣になりました。また,平成15年の前立腺がんのご手術以降,再発に対するご治療としてお続けいただいているホルモン療法の副作用として骨密度の低下による骨粗鬆症(こつそしょうしょう)発症の予防を始めご健康維持のため,ご運動に努めていらっしゃいます。早朝には御所の近くを,また日曜日の朝には東御苑をご散策になり,ご公務のない週末や休日にはテニスなどのご運動に努めていらっしゃいます。このところ,震災やご入院等でほとんどテニスはおできになっていらっしゃいませんが,早期にご健康を回復され,皇后陛下とご一緒のお元気なお姿をテニスコートで拝見するのを心待ちにしています。
天皇陛下は12月23日,78歳のお誕生日をお迎えになります。
当日は,午前は御所で侍従職職員から祝賀をお受けになった後,宮殿で皇族方を始めとし,5回にわたり祝賀をお受けになり,また皇族方とお祝酒を共にされます。なお,この間3回にわたり長和殿ベランダに立たれ国民の参賀にお応えになります。午後は三権の長,閣僚,各界の代表との祝宴に臨まれ,その後,外交団を招かれての茶会,次いで元側近奉仕者等との茶会に臨まれます。夕刻には,この日の最後の行事であるご進講者,ご関係者との茶会に臨まれた後,お孫様方のご挨拶を受けられ,皇后陛下,お子様方とのお祝御膳をおとりになります。
宮内庁:
〒100-8111 東京都千代田区千代田1-1[所在地]
電話:03-3213-1111(代表)
先月マイコプラズマによる感染症を患い,入院を余儀なくされたことから,多くの人々に心配を掛けました。私の健康を気遣ってくれた人々の気持ちに対し,謝意を表します。退院から日もたち,皇太子に委任していた国事行為も再開することができるようになり,体調も今では発病前の状態と変わらないように感じています。今後とも健康に十分気を付けながら新年にかけての行事を務めていきたいと思っています。
3月11日に起こった東日本大震災は,今から88年前の大正12年,10万人以上の死者を出した関東大震災以来の大きな災害で,死者,行方不明者数は2万人近くに上りました。更に後日この地震に誘発された地震が長野県の栄村を始めとして各地で起こり,犠牲者が出たところもありました。家族や親しい人を亡くした人々の悲しみはいかばかりかと察しています。また住まいや生活の場を失った人々,原発の事故で住んでいた地域に住めなくなった人々のことが深く案じられます。震災発生以後,皇后と共に被災地や各地に設けられた被災者のための避難所を訪れ,被災者を見舞ってきましたが,これらの訪問を通して,被災者が様々な悲しみや苦しみを抱えつつも,決して取り乱すことなく,強い連帯感を持ち,互いに助け合って困難を乗り越えようとしていることが感じられ,そのことを非常に心強く思いました。また日本各地で,人々が被災者のために支援活動を始めたり,何らかの形でこれに携わろうとしていることも心強いことでした。
厳しい環境の下,我が身の危険も顧みず,専心救援活動に当たった自衛隊,警察,消防,海上保安庁を始めとする国や地方自治体関係者,また原発事故の対応に当たった,東京電力及びその関係者の献身的努力に深く感謝しています。
諸外国からも救援の人々が来日し,日本の救援活動を助けてくれました。また駐日外国大使等日本に住んでいる外国人を始め,災害発生後日本を訪れた多くの外国人も,被災地を訪れ被災者を励まされていることに感謝しています。震災に際して頂いた外国元首からのお見舞いの電報の多くに,自分たちは被災者と共にある,という言葉が添えられていたことが思い起こされます。
歴史を振り返ると,我が国は,今回の地震津波災害とほぼ同じ犠牲者数を記録した明治29年の「三陸地震」を始めとし,これまでにも幾度となく地震や津波による災害を蒙(こうむ)ってきました。しかし,時の経過と共に,次第にその記憶や認識が薄れてきてしまっていたように思います。私が津波の恐ろしさに接したのは,平成5年「北海道南西沖地震」のお見舞いに皇后と共に奥尻島を訪れたときのことです。島は地震と津波で大きな被害を受けており,200人以上の死者,行方不明者が生じていました。少しの地形の違いでも,津波の高さは場所によりかなり違うこと,自動車で逃げようとした人が渋滞で助からず,歩いて高台に上がった人が助かった等と聞いたことが記憶に残っています。記録には津波の高さは青苗の市街地で10メートルを超えた所があると書かれていますから,もしこの度の被災地域の人が,奥尻島の津波災害の状況を更につまびらかに知っていたならば,一刻も早く避難することにもっと力を注ぎ,より多くの人が助かっていたのではないかと残念に思われてなりません。この度の津波災害においても,避難訓練と津波教育が十分行われていたところほど被害者が少なかったと聞き,施設面の充実と共に,今後も避難訓練と津波教育が十分に行われ,災害に当たり少しでも多くの人が危険から守られるよう願っています。
私どもの住む日本は,四方に海を持ち,山や川も多く,風光に恵まれた島国です。一方,我が国はいくつものプレートが重なり合う所に位置し,地震が多く,火山や急峻(しゅん)な山川,日頃は人々に幸を与えてくれる海も,時に荒れ,多大な被害をもたらします。この厳しい現実を認識し,災害時における人々の悲しみを記憶から消すことなく,常に工夫と訓練を重ね,将来起こるべきことに備えていかなければならないと思います。
今,被災地には再び厳しい寒さが訪れようとしています。住環境が十分でない所に住む被災者,殊に高齢者の健康が心配です。寒い冬を皆が少しでも健康に過ごすことができるよう願っています。
今年は豪雨による災害も,7月には新潟県と福島県で,9月には和歌山県,奈良県他で起こりました。9月に和歌山県等で起こった台風12号による豪雨災害では,森林に覆われた斜面がえぐり取られる深層崩壊というこれまで耳にしたことのない恐ろしい現象が起こりました。こうした災害により100人以上の生命が失われたことは本当に残念なことでした。ただ注目したいのは,7月に新潟県を襲った豪雨災害では,7年前に同地域が受けた豪雨災害時の雨量より更に多くの降雨量があったにもかかわらず,前回に比べ犠牲者の数が少なかったことです。これは前回の災害を教訓として治水や住民の避難に対し,様々な対策が講じられた成果であり,防災に力を注ぐことがいかに生命を守ることになるかを教えてくれます。
水害はタイ王国でも起こりました。国王陛下は長らく御入院中で,この水害にお心を痛めていらっしゃることとお案じしています。タイの水害は日本の産業にも影響を与え,タイにおいて日系企業が行っていた操業が不能となり,生産に携わっていたタイ人の少なからぬ人数を日本に呼び,生産を再開することになりました。言葉や生活習慣の異なるタイ人が日本での生活をつつがなく過ごすことができるよう願っています。この度の日本における災害及びタイの水害は,改めて今日の世界が様々な国の人々と共に生きる社会であることを感じさせるものでした。
今年は先の戦争が始まって70年になります。この戦争における死者はおびただしい数に上り,戦後,こうした戦争の惨禍を再び繰り返すことのないよう,日本の人々は,真摯に過去を学びつつ,戦後の厳しい困難に耐え,営々と国づくりに励み,今日の日本を築き上げました。戦争の記憶が薄れようとしている今日,皆が日本がたどった歴史を繰り返し学び,平和に思いを致すことは極めて重要なことと思います。
振り返ると,今年は災害に明け暮れた心の重い年でした。しかし,被災地の人々が,厳しい避難生活の中で,我慢強く耐え,多くの人々がボランティアとして被災者を支援したことは本当に心強いことでした。日本人全体がこの震災に向き合い,被災者のために何かの役に立とうとしていることを感じています。本年もあと僅かになりました。新しい年も被災者に心を寄せつつ過ごしていきたいと思っています。来る年が少しでも良い年となるよう願っています。
Press Conference on the occasion of His Majesty's Birthday (2011)
Reflections by His Majesty the Emperor on the Occasion of His Majesty's Birthday (2011) and the Activities of His Majesty the Emperor Over the Past Year
Reflections by His Majesty the Emperor on the Occasion of His Majesty's Birthday
I would like to express my gratitude to all the people for their concern and compassion regarding my health when I was hospitalized last month for mycoplasma infection. It has now been several weeks since I left hospital and I have been able to resume the official state duties that I had entrusted to the Crown Prince and I now feel that my physical condition is back to how it was prior to my hospitalization. I shall take good care of my health as I resume my works from now on through various events related to the coming of the New Year.
The Great East Japan Earthquake, which struck the country on 11th March, resulted in close to 20,000 dead or missing and was the biggest disaster since the 1923 Great Kanto Earthquake 88 years ago, which claimed more than 100,000 lives. The earthquake also triggered earthquakes in many other areas, including Sakae village in Nagano prefecture, resulting in casualties in some places. My thoughts go out to the people who lost members of their families and loved ones. Their sorrow must be truly heart-rending. My heart goes out to those who lost their homes and livelihoods and those who can no longer live in the places they used to live because of the nuclear plant accident. In the aftermath of the disaster, the Empress and I visited the areas afflicted by the disasters and the evacuation centres for the victims in many areas to offer comfort and encouragement to them. On all of these visits we were most touched to see that, in spite of the sadness and hardships they must be facing, the people never seemed to lose their composure and, with a strong sense of solidarity, they were trying to overcome their hardships by helping each other. We were also much heartened to see that many people around the country have launched efforts to support the victims and are trying to take part in those activities in various ways.
I am deeply grateful to the members of the Self-Defense Forces, the police, the firefighters, the Japan Coast Guard and other members of the central government and local municipalities who carried out relief operations under most severe conditions, without regard for the danger they were facing. My gratitude also goes to people related to TEPCO who dedicatedly attempted to contain the damage of the nuclear power accident.
Many people from overseas also came to help Japan's relief efforts. I am grateful to the ambassadors posted to Japan, the non-Japanese residents in Japan as well as many foreigners who came to Japan after the disaster, for their visit to the afflicted areas for the purpose of offering comfort and encouragement to the survivors. In many of the cables of sympathy I received from the foreign heads of state, I recall reading the words, "Our hearts are with the afflicted people."
On looking back on history, our country has been struck by disasters time and again, including the Meiji Sanriku Earthquake of 1896, which claimed roughly the same number of lives as the recent earthquake. However, it seems that with the passing of time, our memories and awareness of these disasters has faded. It was when I went to Okushiri Island with the Empress to express our condolence following the Hokkaido Southwest Offshore Earthquake of 1993 that I grasped the true horror of tsunami. The island had suffered massive damage from the earthquake and tsunami, with over 200 people dead or missing. I remember being told that even with only a slight difference in topography, the height of the tsunami can be significantly different in different locations, and that in some cases, those who tried to flee by car were caught in traffic jams and did not survive while those who fled on foot to higher ground survived. Records show that the tsunami reached higher than 10 meters in the town of Aonae in Okushiri. So I find it most regrettable that, had the people living in the areas afflicted in the March 11th earthquake been aware of the details of the tsunami damage in Okushiri in 1993, they might have known that they should try to evacuate as quickly as possible, and many more lives might have been saved. In the last earthquake, I heard that in places where thorough evacuation training and tsunami education had been implemented, there were more survivors, so it is my hope that in the future, not only the improvement of tsunami related facilities but also comprehensive evacuation training and tsunami education will be promoted so that in case of a disaster as many people as possible will be protected from danger.
Japan is an island nation surrounded by the ocean, with many mountains and rivers, and blessed with scenic beauty. However, the country is located where multiple tectonic plates meet each other, thereby causing many earthquakes. The volcanoes, the steep mountains and rivers, as well as the ocean that usually offers us so many blessings, can also sometimes suddenly turn violent and wreak huge damage. This is the harsh reality we must be fully aware, and while we must never forget the deep sorrow that people have experienced at the time of past disasters, we must be ready for any disasters that can occur in the future by always being prepared with various plans and training.
The afflicted areas will soon be facing a bitter cold winter. I am concerned about the health of the survivors, especially the elderly, who live under inadequate living conditions. It is my sincere hope that they will remain in good health through the cold winter.
This year torrential rains also caused disasters in Niigata and Fukushima prefectures in July and in Wakayama, Nara and other prefectures in September. The torrential rain in Wakayama and other prefectures caused by Typhoon #12 (Talas) triggered a terrifying phenomenon referred to as "deep-seated landslide," an unfamiliar term. This refers to the gouging of slopes that had been covered by forest. It was truly distressful that more than 100 lives were lost in these disasters. However, in the case of the disaster caused by torrential rains that struck Niigata prefecture in July, in spite of the fact that the precipitation was much greater than in the previous disaster in the same area seven years ago, the number of casualties was lower compared with that of the previous disaster. This was made possible because, as a result of lessons learned from the previous disaster, various measures for flood control and evacuation of the residents were taken in advance. It teaches us how placing importance on disaster prevention and management can help save many lives.
Floods occurred in the Kingdom of Thailand as well. My heart goes out to His Majesty the King, who has long been hospitalized and who must be so pained by the floods. These floods are affecting Japanese industry as well. As many Japanese companies were forced to cease their operations in Thailand, a number of Thais who were working at these production sites were brought over to Japan to resume production in Japan. I sincerely hope that the Thai people, coming from a country with a different language and customs, will be able to live and work here in Japan without too much difficulty. The disasters in Japan and the floods in Thailand remind us once again that we live in a world today in which our lives are closely linked with the lives of peoples of other countries.
Seventy years have passed since the outbreak of the prior war. As the war caused immense casualties, the Japanese people became determined never to repeat the ravages of war. Sincerely learning lessons from the past, they endured the harsh difficulties of the postwar years and strove diligently to build today's Japan. Now that the memories of the war have started to fade, I think it is extremely important for everyone to study time and again the course of history Japan has followed and to reflect on peace.
Looking back on this year, I must say this has been a truly distressing year, dominated by disasters. However it has been encouraging to note that the people in the afflicted areas are enduring the harsh conditions in evacuation and that many people are volunteering to support the victims. I feel that the Japanese people have come together as a nation to squarely face the disaster and do what they can to be of help for the victims.
Only days remain before the end of the year. My heart will be always with the afflicted people in the coming new year as has been the case thus far.
I sincerely hope that the coming year will be a better year for everyone.
この1年のご動静
今年3月11日,東日本大震災が発生し東北地方を始めとする広範な地域に甚大な被害をもたらしました。陛下は震災発生直後にビデオメッセージを発表されたほか,震災後間もなく皇后陛下とご一緒に被災地や避難所をご訪問になるとともに,状況把握のため多くの関係者からご説明を受けられました。例年のお仕事に加え,数多くの災害関連のお務めを果たされ,極めてお忙しくかつご心労の多い年でした。陛下はこの1年も国事行為としてほぼ毎週2回のご執務を行われ,内閣よりの上奏書類等957件にご署名やご押印をされました。儀式や行事としては,内閣総理大臣の親任式,認証官任命式(国務大臣始め109名),新任外国大使の信任状捧呈式(34名),勲章親授式(大綬章,文化勲章)及び勲章受章者の拝謁などに臨まれました。また,皇后陛下とご一緒に各界優績者の拝謁のほか,午餐や茶会など多くの行事に臨まれました。これらの行事は主として宮殿で行われましたが,東日本大震災に伴い発生した福島第一原発事故等に起因する節電要請に応えるべく,従来宮殿で行われている行事の一部は御所で行われました。そのほか,御所で恒例の日本学士院会員,日本芸術院会員,文部科学省研究振興局長とその推薦する研究者,青年海外協力隊帰国隊員及び青年・シニアの海外ボランティア・日系社会ボランティア代表,国際交流基金賞受賞者などと両陛下でお会いになったほか,定例の外務省総合外交政策局長によるご進講や各種行事に関するご説明などが合わせて54回ありました。これに加え,東日本大震災に関し,諸分野の関係者や専門家より33回にわたりご説明を受けられました。このほか勤労奉仕団,賢所奉仕団や新嘗祭のための献穀者に対し53回のご会釈がありました。
今年は外国へのご訪問はありませんでしたが,来日した各国からの賓客を宮殿や御所で接遇されました。元首としては,ウクライナ,ウズベキスタン,セルビア,フィリピン,ドイツ,コスタリカ,パキスタン,トーゴ,インドネシア,コロンビアからの訪問があり,訪日の形式に従って午餐やご会見の場を持たれました。このほか,首相又は国会議長としては,オーストラリア,インド,ベトナム,モンゴルがあり,王国からはトンガ,ブータン(注:王妹殿下),ルクセンブルク,デンマークからの賓客へのご接遇がありました。また,アメリカ合衆国から来日した旧知のヒラリー・クリントン国務長官,ダニエル・イノウエ連邦議会上院仮議長夫妻の接遇もありました。新任の外国大使夫妻を招かれてのお茶,日本滞在が3年を超える外国大使夫妻のための午餐,離任する大使夫妻のご引見は例年どおり行われました。一方,日本から外国に赴任する大使夫妻にもその都度,皇后陛下と共にお会いになっており,また,赴任先から帰国した大使夫妻も全員お茶に招かれ,任地の話をお聞きになりました。なお,11月にブータン国国王王妃両陛下が国賓として来日の折には,後述のとおり,陛下ご不例のため皇太子殿下がご名代として諸行事を執り行われました。
都内及び近郊へのお出ましとしては,陛下は国会開会式に臨まれ,また,両陛下にて全国戦没者追悼式を始め,毎年ご臨席になっている日本芸術院賞,日本学士院賞などの授賞式のほか,今年も数多く行われた各種周年記念式典などへのご臨席があり,節目の年の式典ではお言葉を述べられました。また,ご即位20年に当たり天皇陛下からのご下賜金を受けて創設された育志賞の第1回授賞式及び記念茶会が2月に開催され,ご臨席になりました。今年も5月のこどもの日,9月の敬老の日にちなんで,関連施設をご訪問になり,関係者を励まされました。なお,例年12月に行われている障害者週間のご訪問は,陛下ご不例のため来春に延期されました。また,11月29日,陛下ご退院後間もなく,ご体調も万全ではない中,東日本大震災消防殉職者等全国慰霊祭にご臨席になり,殉職者を追悼され,遺族に心を寄せられました。都内及び近郊へのお出ましは合計37回でした。
例年ご臨席になっている日本学術会議主催の国際会議としては,9月に北海道で行われた国際微生物学連合2011会議記念式典にご臨席になりました。(皇后陛下は頸椎(けいつい)症性神経根症の症状がお出になったため,ご同伴をお取りやめになりました。なお,皇后陛下が地方への公式行事でご同伴をお取りやめになったのは平成5年以来2度目,18年ぶりのことでした。)
今年の公的な地方行幸啓は先述の北海道を含め12道県(神奈川,埼玉,千葉,茨城,宮城,岩手,福島,和歌山,群馬,北海道,山口,鳥取)にわたりました。全国植樹祭(和歌山),国民体育大会(山口),全国豊かな海づくり大会(鳥取)などの式典にご臨席になり,併せて,地方の文化,福祉,産業の事情をご視察になり,ご訪問先や沿道,沿線でお迎えする大勢の人々の歓迎にお応えになりました。東日本大震災関係では避難者・被災者をお見舞いのため3月から5月にかけ,7週連続でお出ましになり,避難所としては東京武道館(3/30)及び埼玉県加須市(4/8)を,また被災地としては千葉県旭市(4/14),茨城県北茨城市(4/22),宮城県(4/27),岩手県(5/6),福島県(5/11)をご訪問になり被災者をお見舞いになりました。その後,8月,9月にも都内及び千葉県東金市に出向かれ,被災者やその世話に当たる人々を労われました。この1年に公的に地方行幸啓先でご訪問になった市町村数は24市,5町,1村になります。
今年は那須御用邸に7月下旬にお出ましになりましたが,その途次,御料牧場にお立ち寄りになり地震による被災状況をご視察になった後,那須町では東日本大震災に伴う福島県からの避難者をお見舞いになったほか,例年どおり農家をご訪問されました。また,那須御用邸用地から環境省に移管され,今年5月から一般公開された「那須平成の森」のフィールドセンターが開館し遊歩道が整備されたのでおいでになり,同所を訪れていた人々と共に自然を楽しまれました。
宮中祭祀は,陛下は恒例の祭典のほか,一條天皇千年式年祭など21回の祭典にお出ましになりました。なお,新嘗祭は,陛下はご不例のためご欠席になり,掌典長によるご代拝となりました。また,毎月一日の旬祭は5月と10月(今年は山口県へ行幸啓中につきご代拝)以外はご代拝により行われています。
「日本産魚類検索-全種の同定」には,陛下はその第一版(平成5年)からハゼ類の項目に関わってこられましたが,今年も昨年同様に,その第三版の改訂の作業が行われており,皇居内生物学研究所で,月に3回ほど編集者の中坊徹次京都大学教授と生物学研究所の職員らを交えて,ハゼの分類の検討を行っていらっしゃいます。月に1度の魚類分類研究会は今年4月までは国立科学博物館分館で行われておりましたが,5月からは上野にある同博物館本館に移り,今年は分館1回,本館3回計4回ご出席になりました。
陛下は今年も例年どおり,皇居内生物学研究所の田で種籾(たねもみ)のお手まき,お田植えをなさり,お手刈りをなさいました。また,陸稲と粟(あわ)をお子様及びお孫様方とご一緒に種をまかれ,刈り取られ,粟は新嘗祭の折,お手刈りになった水稲と共にその一部をお供えになりました。また,神嘗祭に際しては,お手植えになった根付きの稲を神宮にお供えになりました。
陛下は今年1月にお受けになった心機能検査の結果を踏まえ,2月に東大病院にて動脈カテーテルによる冠動脈造影検査をお受けになったところ,冠動脈全体にある程度の動脈硬化が確認され,冠動脈狭窄(きょうさく)も認められました。ご治療として薬物ご内服を続けていただき,無理のない範囲で運動をお続けいただきながら,従来どおりの日常生活をお過ごしいただいてきました。また,11月初めより気管支炎による発熱が見られたため,大事を取って11月6日夜から東大病院にご入院になりました。ご入院中に,お咳とお熱が悪化し,軽度の気管支肺炎と診断されました。この原因はマイコプラズマであったことが,後に確認されています。その後ご症状が回復したため,11月24日にご退院になりましたが,ご退院後もしばらくの間,御所にてご療養いただきました。病院・御所でご療養の間,11月7日から12月6日まで,皇太子殿下に国事行為臨時代行を委任され,また,国賓を始め幾つかの行事にご名代としてご差遣になりました。また,平成15年の前立腺がんのご手術以降,再発に対するご治療としてお続けいただいているホルモン療法の副作用として骨密度の低下による骨粗鬆症(こつそしょうしょう)発症の予防を始めご健康維持のため,ご運動に努めていらっしゃいます。早朝には御所の近くを,また日曜日の朝には東御苑をご散策になり,ご公務のない週末や休日にはテニスなどのご運動に努めていらっしゃいます。このところ,震災やご入院等でほとんどテニスはおできになっていらっしゃいませんが,早期にご健康を回復され,皇后陛下とご一緒のお元気なお姿をテニスコートで拝見するのを心待ちにしています。
天皇陛下は12月23日,78歳のお誕生日をお迎えになります。
当日は,午前は御所で侍従職職員から祝賀をお受けになった後,宮殿で皇族方を始めとし,5回にわたり祝賀をお受けになり,また皇族方とお祝酒を共にされます。なお,この間3回にわたり長和殿ベランダに立たれ国民の参賀にお応えになります。午後は三権の長,閣僚,各界の代表との祝宴に臨まれ,その後,外交団を招かれての茶会,次いで元側近奉仕者等との茶会に臨まれます。夕刻には,この日の最後の行事であるご進講者,ご関係者との茶会に臨まれた後,お孫様方のご挨拶を受けられ,皇后陛下,お子様方とのお祝御膳をおとりになります。
宮内庁:
〒100-8111 東京都千代田区千代田1-1[所在地]
電話:03-3213-1111(代表)
2011年12月22日木曜日
奉祝 天長節
皇紀二千六百七十一年十二月二十三日天皇陛下におかせられましては、七十八歳の御誕生日をお迎え遊ばされます。
謹んで奉祝の誠を申し上げますと共に、今後も天皇皇后両陛下がお健やかにまします事と、御皇室の弥益々の御繁栄を、衷心より御祈念申し上げます。
今日の吉(よ)き日は 大君(おほきみ)の。
うまれたひし 吉(よ)き日なり。
今日の吉き日は みひかりの。
さし出(で)たまひし 吉き日なり。
ひかり遍(あまね)き 君が代を。
いはへ諸人(もろびと) もろともに。
めぐみ遍(あまね)き 君が代を。
いはへ諸人(もろびと) もろともに。
天長節の歌を皆様と共に歌い「聖寿の弥栄」を、皆さんと共に、声高らかに御唱和致したいと存じます。
「天皇陛下 弥栄」
「弥栄」
「弥栄」
謹んで奉祝の誠を申し上げますと共に、今後も天皇皇后両陛下がお健やかにまします事と、御皇室の弥益々の御繁栄を、衷心より御祈念申し上げます。
今日の吉(よ)き日は 大君(おほきみ)の。
うまれたひし 吉(よ)き日なり。
今日の吉き日は みひかりの。
さし出(で)たまひし 吉き日なり。
ひかり遍(あまね)き 君が代を。
いはへ諸人(もろびと) もろともに。
めぐみ遍(あまね)き 君が代を。
いはへ諸人(もろびと) もろともに。
天長節の歌を皆様と共に歌い「聖寿の弥栄」を、皆さんと共に、声高らかに御唱和致したいと存じます。
「天皇陛下 弥栄」
「弥栄」
「弥栄」
2011年12月19日月曜日
kim jong il has died
人様に見せられるようなスーツではありませんが私の意気込みとして、普段着ることが無いので、これを着て祝辞を述べに北朝鮮大使館へ
突然といば突然なのですが、以前より考えられていたことではある。
共産圏諸国では以前より指導者の死は、中々一般にはその日に伝えられた例がない、北朝鮮も然り、既に死んでいたのではなかろうか、疑心暗鬼になり一先ず朝鮮人に聞きにこうと言う事で、在バンコク北朝鮮大使館に赴いた。
以前にもこの大使館に行ったことはあるが門番はいないし、門は何時も閉まったまま、日本では30年くらい前に見かけていたインターホーンは付いているが、これも応答なし、仕方なく「おーい」と叫んでみる、すると私服の2人組の男が出てくる、門を開けてくれというと、シカトされた、日本人とわかったのだろうか、相手が手を出して「シッシッ」という仕草、この位でブチ切れはしないが朝鮮人に舐められたと思うと無性に頭にくる、どうでもいけどよ「めぐみ」何処連れていったんだよ、返せと朝鮮語で言ってやった(もちろん私は朝鮮人ではありませんよ)
大使館の様子をみる限りでは金ショウニチの死を事前に知っていたというような事は見受けられなかった、これはあくまでも私の感じですが、普段と変わりがなかったという感じです、国旗だけは半旗になっておりました。
他力本願では考えたくありませんが、日本政府がだらしない中、これで拉致被害者も家族にも多少なりとも光さえ見えれば、先の展開に希望が見えてくるのですが。
このガラスに映っている車はいつ来てもここに止まってるんですよね、止まっているだけなら前の家の車と思うのだが、何時もエンジンをかけっぱなしなんですよネ!
突然といば突然なのですが、以前より考えられていたことではある。
共産圏諸国では以前より指導者の死は、中々一般にはその日に伝えられた例がない、北朝鮮も然り、既に死んでいたのではなかろうか、疑心暗鬼になり一先ず朝鮮人に聞きにこうと言う事で、在バンコク北朝鮮大使館に赴いた。
以前にもこの大使館に行ったことはあるが門番はいないし、門は何時も閉まったまま、日本では30年くらい前に見かけていたインターホーンは付いているが、これも応答なし、仕方なく「おーい」と叫んでみる、すると私服の2人組の男が出てくる、門を開けてくれというと、シカトされた、日本人とわかったのだろうか、相手が手を出して「シッシッ」という仕草、この位でブチ切れはしないが朝鮮人に舐められたと思うと無性に頭にくる、どうでもいけどよ「めぐみ」何処連れていったんだよ、返せと朝鮮語で言ってやった(もちろん私は朝鮮人ではありませんよ)
大使館の様子をみる限りでは金ショウニチの死を事前に知っていたというような事は見受けられなかった、これはあくまでも私の感じですが、普段と変わりがなかったという感じです、国旗だけは半旗になっておりました。
他力本願では考えたくありませんが、日本政府がだらしない中、これで拉致被害者も家族にも多少なりとも光さえ見えれば、先の展開に希望が見えてくるのですが。
このガラスに映っている車はいつ来てもここに止まってるんですよね、止まっているだけなら前の家の車と思うのだが、何時もエンジンをかけっぱなしなんですよネ!
2011年12月16日金曜日
よくもこんな嘘っぱちを
ロシアの声が伝えたところによると、樺太と大陸を橋で結び、そこから日本の高速鉄道で繋ぎ、シベリヤ、モスクワ、ヨーロッパへ日本の製品を運ぶと言う、日本の商人、鉄道会社その他諸々にとっては夢の様な話でしょうね、とぶちまけているのが、ロシア各地のデモや抗議集会で危機感を感じているプーチン・ロシア首相が国民との対話と銘打って15日に開いた討論会の中でぶちまけた嘘っぱちである。
ロシアの声
プーチン首相 日本との間で大規模鉄道プロジェクトを検討中
ロシアは日本との間で、直接の鉄道交通網組織に向けた大規模プロジェクトを検討中だ。
このプロジェクトは、ロシアの持つトランジット(中継輸送)力を本質的に高めるものとして注目されている。
第一段階でロシアは、サハリン島と本土を橋でつなぐ計画だ。 プロジェクト実現に向けてはさらに詳細な検討が必要だが、現実化すれば、幅広い可能性が広がる。
プーチン首相は、次のように指摘している―
「我々がもしそれを現実のものとすれば、シベリア横断鉄道やバム鉄道を本格的に十分利用できるようになる。日本からの荷の積み替えを組織できるし、トンネルを使っての物も含め、日本への直接輸送もできるからだ。 我々は日本側とこの件について討議している。 これは、わが国が持つ中継輸送力利用の可能性を本質的な形で高めるほどの、壮大なプロジェクトである。」
プーチン首相 サハリンと大陸部を結ぶ橋の建設は良いプロジェクト
プーチン首相は15日、国民との直接対話を行い、サハリンとロシア大陸部を結ぶ橋の建設に関して「重要かつ良いプロジェクトだ。(プロジェクトの収益性に関して)経済性計算する必要がある」と述べ、同プロジェクトは、ロシアの輸送ポテンシャルを考慮する限り、シベリア鉄道とバイカル・アムール鉄道で日本製品を輸送することを可能とすると指摘した。
首相は、日本へのトンネルを建設する可能性についても考えることができると伝えた。
以上ロシアの声
例え計画があるにせよ、日本の物品を運ぶものではなく大量に兵士を輸送したり、戦略物資の輸送に使うもので日本側のメリットは何もない、金と技術と品物だけ出させておいて後は知らんぷりされるのが落ちである、こういう事を日本語では「盗人或いは強盗詐欺」等という、そしてトンネルをも作るという、内国人のロシア人は騙せても、技術力が発展しテクノロジーを理解している日本人にはそれがどの程度大変なものかは素人でもわかる、大陸お呼びシベリアと聞いただけで私などは胸さわぎ血肉が躍る思いですが、こんなものに騙されてはいけない、本邦の商人も騙されないことを祈るばかりだ。
それと気になったことがひとつ、プーチン首相の顔が以前よりかなり変わっていると思うのは私だけなのか?
ロシアの声
プーチン首相 日本との間で大規模鉄道プロジェクトを検討中
ロシアは日本との間で、直接の鉄道交通網組織に向けた大規模プロジェクトを検討中だ。
このプロジェクトは、ロシアの持つトランジット(中継輸送)力を本質的に高めるものとして注目されている。
第一段階でロシアは、サハリン島と本土を橋でつなぐ計画だ。 プロジェクト実現に向けてはさらに詳細な検討が必要だが、現実化すれば、幅広い可能性が広がる。
プーチン首相は、次のように指摘している―
「我々がもしそれを現実のものとすれば、シベリア横断鉄道やバム鉄道を本格的に十分利用できるようになる。日本からの荷の積み替えを組織できるし、トンネルを使っての物も含め、日本への直接輸送もできるからだ。 我々は日本側とこの件について討議している。 これは、わが国が持つ中継輸送力利用の可能性を本質的な形で高めるほどの、壮大なプロジェクトである。」
プーチン首相 サハリンと大陸部を結ぶ橋の建設は良いプロジェクト
プーチン首相は15日、国民との直接対話を行い、サハリンとロシア大陸部を結ぶ橋の建設に関して「重要かつ良いプロジェクトだ。(プロジェクトの収益性に関して)経済性計算する必要がある」と述べ、同プロジェクトは、ロシアの輸送ポテンシャルを考慮する限り、シベリア鉄道とバイカル・アムール鉄道で日本製品を輸送することを可能とすると指摘した。
首相は、日本へのトンネルを建設する可能性についても考えることができると伝えた。
以上ロシアの声
例え計画があるにせよ、日本の物品を運ぶものではなく大量に兵士を輸送したり、戦略物資の輸送に使うもので日本側のメリットは何もない、金と技術と品物だけ出させておいて後は知らんぷりされるのが落ちである、こういう事を日本語では「盗人或いは強盗詐欺」等という、そしてトンネルをも作るという、内国人のロシア人は騙せても、技術力が発展しテクノロジーを理解している日本人にはそれがどの程度大変なものかは素人でもわかる、大陸お呼びシベリアと聞いただけで私などは胸さわぎ血肉が躍る思いですが、こんなものに騙されてはいけない、本邦の商人も騙されないことを祈るばかりだ。
それと気になったことがひとつ、プーチン首相の顔が以前よりかなり変わっていると思うのは私だけなのか?
2011年12月3日土曜日
LONG LIVE THE KING
2011年12月2日金曜日
ベトナムとよく似ている
米長官、民主化進展次第で制裁解除も
ミャンマーを訪問中のアメリカのクリントン国務長官は1日、テイン・セイン大統領と初めて会談し、今後、民主化の進展次第で経済制裁の解除を検討する用意があると表明しました。
1994年2月当時の米クリントン大統領はベトナムへの経済「制裁」解除を発表した。ベトナム戦争以来、30年にわたって実施されてきた経済封鎖、干渉に終止符がうたれた、日本のマスコミは「ベトナムへのでっかいプレゼント」などと大きく報道して、日本や欧州に後れをとっていた米企業の本格進出は急速に進展した。その後のベトナムの発展はご存知の通りである。ベトナムとの戦争もアメリカは間違った選択で戦争に突入したのである。
反共ならば何でも良かったのか?
背後に中国の影が有ると、どうも思っていた節がある、その後ベトナムが華僑追放という強制手段を選んで、戦争(中越紛争)に巻き込まれた、この様にベトナム人は中国人を可也嫌っている。
ビルマでも同じような事が起こっているのである、ネ・ウィンが鎖国政策をとったのも、ビルマ経済を停滞させて商売のうまみを消し、彼らが愛想を尽かして出ていくのを待つ、という意味があった。
だから生活は貧しく不便だったが、国民は我慢した。それが自分の国を取り戻すためだと知っていた。ベトナムの二の舞を踏むという事を知っていたのである。
しかし、中国人はビルマ乗っ取りにもう一つ、手段を講じた。共産ゲリラの侵入だ。彼らは社会不安をあおりながら南下し、七〇年代にはヤンゴンのすぐ北のペグーにまで進出した。これを掃討したのが前政権(本当に引退したのだろうか)のタンシュエ議長である。
長年の自宅軟禁はそれは辛かったであろうが、皆さんご存知だろうか女史の邸宅の横は、アメリカ大使館なのである、イギリス大使館もすぐ近くにある、テレビに映る貧しいビルマそのような事は女史とはかけ離れている、タイやビルマは階級意識が強い国でアウンサウンスーチー女史は特権階級中の特権階級、昨年アウンサンスーチーが自宅軟禁解除になったとき、自宅前の交通規制も解除しようとしたら、規制解除すると車が多く成りうるさいか らそのままにしておくようにと警察に申し入れがあったそうなのだ、これだけでガタガタ言うつもりは無いが、民主化が進むのは良い、しかし今から一波乱も二波乱もありそうな雰囲気ではある。
ミャンマーを訪問中のアメリカのクリントン国務長官は1日、テイン・セイン大統領と初めて会談し、今後、民主化の進展次第で経済制裁の解除を検討する用意があると表明しました。
1994年2月当時の米クリントン大統領はベトナムへの経済「制裁」解除を発表した。ベトナム戦争以来、30年にわたって実施されてきた経済封鎖、干渉に終止符がうたれた、日本のマスコミは「ベトナムへのでっかいプレゼント」などと大きく報道して、日本や欧州に後れをとっていた米企業の本格進出は急速に進展した。その後のベトナムの発展はご存知の通りである。ベトナムとの戦争もアメリカは間違った選択で戦争に突入したのである。
反共ならば何でも良かったのか?
背後に中国の影が有ると、どうも思っていた節がある、その後ベトナムが華僑追放という強制手段を選んで、戦争(中越紛争)に巻き込まれた、この様にベトナム人は中国人を可也嫌っている。
ビルマでも同じような事が起こっているのである、ネ・ウィンが鎖国政策をとったのも、ビルマ経済を停滞させて商売のうまみを消し、彼らが愛想を尽かして出ていくのを待つ、という意味があった。
だから生活は貧しく不便だったが、国民は我慢した。それが自分の国を取り戻すためだと知っていた。ベトナムの二の舞を踏むという事を知っていたのである。
しかし、中国人はビルマ乗っ取りにもう一つ、手段を講じた。共産ゲリラの侵入だ。彼らは社会不安をあおりながら南下し、七〇年代にはヤンゴンのすぐ北のペグーにまで進出した。これを掃討したのが前政権(本当に引退したのだろうか)のタンシュエ議長である。
長年の自宅軟禁はそれは辛かったであろうが、皆さんご存知だろうか女史の邸宅の横は、アメリカ大使館なのである、イギリス大使館もすぐ近くにある、テレビに映る貧しいビルマそのような事は女史とはかけ離れている、タイやビルマは階級意識が強い国でアウンサウンスーチー女史は特権階級中の特権階級、昨年アウンサンスーチーが自宅軟禁解除になったとき、自宅前の交通規制も解除しようとしたら、規制解除すると車が多く成りうるさいか らそのままにしておくようにと警察に申し入れがあったそうなのだ、これだけでガタガタ言うつもりは無いが、民主化が進むのは良い、しかし今から一波乱も二波乱もありそうな雰囲気ではある。
2011年12月1日木曜日
「ヒノデ」ハ「ヤマガタ」トス
南方軍の攻撃命令と第十五軍の作戦開始
南方軍の攻撃命令下達
南方軍総司令官寺内大将は、十一月二十五日東京発、宇品で諏訪丸に乗船、三十日台湾其隆着、この日大本営宛「各般の作戦準備は予定作戦計画の遂行に支障なし」との趣旨の軍機電報を発信した。十一月二十五日サイゴンから三亜に飛んだ山下第二十五軍司令官は、二十九日乗船龍城丸にその司令部を移した。
次いで十二月二日台北にあった寺内大将は、同日一五四六参謀総長から「日の出」は「山形」とする左記軍機電報を受領した。
参電第四号(十二月二日一四四〇発電)
一 大陸命第五六九号(鷲)発令アラセラル
二 「ヒノデ」ハ「ヤマガタ」トス
三 御稜威ノ下切ニ御成功ヲ祈ル
四 本電受領セハ第二項ノミ復唱アリ度
南方軍はただちに「鷲の大命(ヒノデ)ハ(ヤマガタ)謹ミテ拝受ス挙軍一体愈々志気ヲ旺盛ニシ御稜威ノ下誓ツテ任務ヲ完遂シ聖慮ヲ安シン秦ランコトヲ期ス」と打電(二日二〇〇〇発電)するとともに、さきにのべた密封命令(南総作命甲第五号)補足を隷下各軍に電報して、南方作戦の開始を命じた。
注 鷲は大本営、「ヒノデ」はX日、「ヤマガタ」は八日の隠語である。
対タイ侵入作戦開始
海南島の三亜に集合したマレー上陸部隊の主力船団十七隻は十二月四日〇七三〇三亜港発、じ後南シナ海をインドシナ南方海域を経て航行し、七日には既にタイ湾に入っていた。
他方、十一月二十六日千島の単冠湾を出て、ハワイ空襲の壮途についた海軍機動部隊は、十二月六日及び七日の両日、ハワイの真北六〇〇浬で最後の洋上補給を終わり、速力を二十四節にあげて一路南進、真珠湾に迫りつつあった。
また、台湾及びパラオでは、陸海軍両航空部隊はフィリピンに対する航空第一撃の準備を終わり、発進の時期を待っていた。
インドシナでは、第十五軍は十二月六日頃までに近衛師団の主力をタイ、インドシナ国境付近に推進して対タイ侵入作戦の準備を進め、この間駐タイ大使館にあっては、ピブン首相に対する平和進駐申し入れの時期およびその要領について最後の熟議に入っていた。
一方、海路から南部タイに上陸する宇野支隊の乗船は、その待機地点であるサンジャック沖及びフコク島泊地から発進して、既にそれぞれ第二十五軍主力船団に合流していた。
以上の間、北部インドシナに集結を終わった第五十五師団主力は、開戦と同時に、鉄道によりただちに南進を開始するため輸送その他の手はずを進めていた。
こうして、十二月八日未明、ついに開戦の幕は切って落とされた。
対タイ侵入作戦開始については、大本営はもとより、南方軍も、駐タイ大使館側も、万全の事前対策をつくし、慎重な準備を整えて進入の機会を待った。もとよりいずれも平和進駐を願っていた。
しかし、いよいよ開戦の期が迫り、タイ国側に対して外交交渉を始める時になって、ピブン首相の行方不明といった不測の事態が起こり、ここに平和進駐か、武力進駐かで南方軍以下の各当事者が重大な決心問題に当面することになった。
南方軍の攻撃命令下達
南方軍総司令官寺内大将は、十一月二十五日東京発、宇品で諏訪丸に乗船、三十日台湾其隆着、この日大本営宛「各般の作戦準備は予定作戦計画の遂行に支障なし」との趣旨の軍機電報を発信した。十一月二十五日サイゴンから三亜に飛んだ山下第二十五軍司令官は、二十九日乗船龍城丸にその司令部を移した。
次いで十二月二日台北にあった寺内大将は、同日一五四六参謀総長から「日の出」は「山形」とする左記軍機電報を受領した。
参電第四号(十二月二日一四四〇発電)
一 大陸命第五六九号(鷲)発令アラセラル
二 「ヒノデ」ハ「ヤマガタ」トス
三 御稜威ノ下切ニ御成功ヲ祈ル
四 本電受領セハ第二項ノミ復唱アリ度
南方軍はただちに「鷲の大命(ヒノデ)ハ(ヤマガタ)謹ミテ拝受ス挙軍一体愈々志気ヲ旺盛ニシ御稜威ノ下誓ツテ任務ヲ完遂シ聖慮ヲ安シン秦ランコトヲ期ス」と打電(二日二〇〇〇発電)するとともに、さきにのべた密封命令(南総作命甲第五号)補足を隷下各軍に電報して、南方作戦の開始を命じた。
注 鷲は大本営、「ヒノデ」はX日、「ヤマガタ」は八日の隠語である。
対タイ侵入作戦開始
海南島の三亜に集合したマレー上陸部隊の主力船団十七隻は十二月四日〇七三〇三亜港発、じ後南シナ海をインドシナ南方海域を経て航行し、七日には既にタイ湾に入っていた。
他方、十一月二十六日千島の単冠湾を出て、ハワイ空襲の壮途についた海軍機動部隊は、十二月六日及び七日の両日、ハワイの真北六〇〇浬で最後の洋上補給を終わり、速力を二十四節にあげて一路南進、真珠湾に迫りつつあった。
また、台湾及びパラオでは、陸海軍両航空部隊はフィリピンに対する航空第一撃の準備を終わり、発進の時期を待っていた。
インドシナでは、第十五軍は十二月六日頃までに近衛師団の主力をタイ、インドシナ国境付近に推進して対タイ侵入作戦の準備を進め、この間駐タイ大使館にあっては、ピブン首相に対する平和進駐申し入れの時期およびその要領について最後の熟議に入っていた。
一方、海路から南部タイに上陸する宇野支隊の乗船は、その待機地点であるサンジャック沖及びフコク島泊地から発進して、既にそれぞれ第二十五軍主力船団に合流していた。
以上の間、北部インドシナに集結を終わった第五十五師団主力は、開戦と同時に、鉄道によりただちに南進を開始するため輸送その他の手はずを進めていた。
こうして、十二月八日未明、ついに開戦の幕は切って落とされた。
対タイ侵入作戦開始については、大本営はもとより、南方軍も、駐タイ大使館側も、万全の事前対策をつくし、慎重な準備を整えて進入の機会を待った。もとよりいずれも平和進駐を願っていた。
しかし、いよいよ開戦の期が迫り、タイ国側に対して外交交渉を始める時になって、ピブン首相の行方不明といった不測の事態が起こり、ここに平和進駐か、武力進駐かで南方軍以下の各当事者が重大な決心問題に当面することになった。
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