2012年7月30日月曜日

南京の真実



之は是非全ての人に観てもらいたい、近頃は下らない反日映画ばかり観ていたので、目が覚める思いです。

本編を見たいのですがこの手の映画は日本でも入手困難でしょうね、ダイジェスト版でも十分楽しめますが、極東軍事裁判のフィルムもかなり観たつもりですが、アメリカの国立公文書館にかなり眠ってるんでしょうね、しかし其れを買い取って映画にする良いじゃないですか、どんどんやって欲しいです。




2012年7月29日日曜日

活発なタイ深南部


タイ深南部パタニ県メヨー地区で、土曜日朝710分ごろパトロール中であった6人の兵士を2台のピックアップトラックに武装した何者か16名が、爆弾等で襲撃し4名が死亡した。

ラマダンに入って之で4度目で、20日スンガイコロクで町に爆弾を積んだトラックが突っ込み大破、25日にはヤラー県で警官5名を殺害など。

通常この時期は鳴りを潜めるのであるが私が推測したところ、警官5名殺害は間違いなく麻薬利権争いである、今回のパタニの件は動画を見てみると武装グループはかなり訓練されている、イスラムグループで有ればムジャヒデインであるが、しかし麻薬にかかわっているグループもいるので、全て聖戦とは言い切れない。

物取りをしているのでムジャヒディンではないと思う、この地区のイスラム評議会は早々に声明を出しムスリムではないことを強調している。


Ambush in South kills four soldiers

Five anti-drug officers killed in Yala car bomb


パキスタンタリバン運動がビルマを攻撃か
 
ビルマ西部ラカイン州で起きている犯罪について、パキスタンタリバン運動のスポークスマンが木曜日次のように発表した。
イスラム教徒のロヒンギャに対する犯罪の復習としてビルマを攻撃する。

またスポークスマンはパキスタン政府に、ビルマ政府と全ての関係を停止しイスラマバードの大使館を閉鎖することを要求している、さもなければビルマだけではなく、パキスタン国内にいるビルマの庇護者にも攻撃が及ぶであろうと伝えた。


Taliban threatens Myanmar to take revenge of Burma Muslims

 以前私もこの地区に行った事がありますが、双方ともいがみ合い状態なのである。
 
確かにラカイン人にも問題があるミャンマー国内でもこんなことわざがある、

「森でラカイン人とコブラに出会ったら、先ずラカイン人を打て」

とこんな風に、尚且つミャンマーではロヒンギャは鼻摘み者になっている、其処に宗教対立と国境麻薬利権等が介在するので、かなり難しい問題となる。アウンサウンスーチーが木曜日の国会で始めてミャンマー国内のエスニックマイノリティーに付いて言及したが、その程度で解決する問題ではない、実際ミャンマー政府からしたら、その地域に蓋をして爆弾でも仕掛けて吹っ飛んで無くなって貰いたい様な問題なのである。

それよりも何よりもタリバン運動は東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)で起こっているジェイノサイドは目を瞑っているつもりなのか、何よりもムスリム同胞が断罪しなければならないのは中共の蛮行ではないか。


  

2012年7月24日火曜日

コタバル戦争博物館


1912年に銀行として立てられたこの建物は、1942年から45年の日本占領下では憲兵隊の本部として使われていた。戦後はずっと使用されていなかったが、1992年には大東亜戦争に関する展示を行う記念館として生まれ変わった。

実際は写真を撮ってはいけないのだが、職員のミズ君と結構話し込み彼はマレー語はもちろんのことタイ語英語を話す、タイにはよく行ってるんだよと行っていた。
「何処へ行ってるんだい」
「スンガイコロク」
分かる人はわかるだろうがマレー国境のタイ側の町でコタバルから1時間程度で行く、マレー人にとっては、卑猥な町なのである。彼はもちろんイスラム教徒である、こう言う奴もいてもいいか。

タイの最南部の町がスンガイコロクでこの町ではよく爆発やテロ等が起きている、タイ側の報道によるとイスラム教徒が遣っているという報道ばかりだ、其処で聞いてみた。
 イスラム教徒が遣っているとタイ側では言っているが、誰が遣ってるんだと?

「そんなことはない、イスラム教徒はそんなことはしない」
と返事

「じゃ誰が遣っているんだ」

「仏教とだ」

「俺も仏教とだが、何で仏教徒が遣っていると分かるのだ」と言うと。

「イスラム教徒はそんなことは遣らないからだと」言う。

「嘘を言うんじゃない、お前みたいに戒律を守らない奴が一杯いるじゃないか」と言うと

「実は、あれは麻薬中毒者がやっているんだ」と言う

結局其処か、どこかで聞いたフレーズである。

イラン人も確か同じ事を言っていた、あれはイラン人ではないレバノン人だと、最終的には麻薬中毒者でお茶を濁す。

まあそんな話で仲良くなり写真も撮り放題でした。

トーチカのレプリカが壊れたみたいで現在作成中。

副長!!、これ何なんでしょうね?レーダー観たいには見えますが、日本軍の物ではないでしょう、紹介文も何もなかったので分かりませんでした。




2012年7月22日日曜日

大東亜戦争時に於けるコタバル敵前上陸作戦



大東亜戦争が始まったのは、正確には「真珠湾攻撃」からではない。それ以前2時間以上も早く、陸軍の部隊が現在のマレーシア北部コタバルの海岸に上陸を開始していた。

正確には真珠湾攻撃に先立つ2時間前1941128に午前025分クランタン州コタバル市のケムミン地区パクアマット諸島(クアラ・パク・アマン・海岸)の浜で日本軍による最初の上陸により第二次世界大戦における大東亜戦争が開始された。

上陸を開始したのは18師団歩兵第56連隊を基幹とする佗美支隊5,300名は、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内基幹の第3水雷戦隊)に分乗し、128日未明(日本時間)にコタバルへ接近した。波高は2メートルを超え上陸用舟艇への移乗は困難を極めた。午前130分、コタバルの海岸線で英印軍第8旅団6,000名との交戦が始まった。
実際はこれより100メートルほど沖合い波により海岸が浸食されている、このいったいは当時やしの木が有り海岸だった。
上陸用舟艇、その後マルヨン金物震洋等にも応用されたのではないかと思う。

当時の様子は憂国ジャーナル

マレー戦記
三つの上陸

マレー攻略部隊の上陸地点と上陸日一体誰が知つてゐたのであらうか。 兵隊は勿論、部隊長の多くは知らなかつた。 敵将ポパムは最後の瞬間まで「日本軍の 上陸は絶対にない」と信じ切つてゐたし、英泰国境に出動した英兵の全部は泰国軍と戦ふ命令を受け日本軍と戦ふなどとは夢にも思つてゐなかつた。 従軍して ゐた新聞記者でさへ十二月八日の上陸は寝耳に水のことであつた。恐らく神様もご存知なかつたのかもしれない。

 その日は前夜来泰国海岸と しては珍しく波が高かつた。 シンゴラ海岸がまだ深い眠りに落ちてゐる午前一時半、一丈半の波にもまれつつ木の葉をばらまいたやうな小艇の群れが刻々と海 岸へ近ずいてゐた。 眠ってゐたのはシンゴラ海岸ばかりではない。 恐らく世界の耳目がまだ何も知らずに眠つてゐたであろう。我が軍は易々と上陸すること が出来た。 夜明けに至るまで上陸作業は難なく続けられ先遣上陸部隊の進撃は英領マレーへ向かつて破竹の勢いで進められた。

 日英戦争の 火蓋は泰領サダオにおいて切られた。慎重を期した我が軍は夜の来るのを待つて夜襲に出た。猛烈なスコールがやつて来た。 スコールは煙幕の役目を果たし た。 時には突破ることの出来ない壁のやうな厚さでやつてくることがある。 ゴム林の中に縦横に掘られてゐる排水は濁流となつて大小無数のクリークとなつ た。兵隊はこのクリークに身を埋めて一歩一歩敵に近ずいた。側面に、背後にサダオの英軍は瞬く間に取り囲まれてしまつた。 はい然たるスコールの中に壮烈 な夜襲殲滅戦が行はれた。 英軍の恐怖は絶頂に達した。 「見回す限りのあらゆる方向から敵があらはれた。雨の中に、闇の中に、林の中に、幽霊の如く自在 な敵の姿があつた。進むにも退くにも、生きるにも死ぬにも、すべての権力は我々が発砲しないうちに敵の手中にあつた、、、、、」 これは英軍捕虜の告白で ある。

 八日夜十一時五十七分サダオが占領されると全部隊は雪崩を打つて国境へ殺到(さつたう)した。十日未明アスファルトのシンゴラ街 道を上陸以来の疲れでトポトポと歩いてゐた列隊が踏み切りの前でふと立ち止まつた。 踏み切りと思つたのは税関の関所であつた。 英領マレーの国境がここ にあつた。時に午前三時四十分、英領への第一歩はこのとき踏まれた。 その頃OOに上陸した一部隊はOO河の要衛ヤラを通過して英泰国境べトン付近で山獄 戦を展開しつつあつた。

 マレーの雨季はこのころまだ上つてゐなかつた。山獄の道路は没する泥となつてしまふ。 戦車のキャタピラさへ哀 しい空転を繰返すのみであつたが、「一日にたつた二百米しか進めませんでした。私はこのときほんとに泣きださうかと思ひました。」と戦車隊長は告白した。  この部隊はその後マレー半島中央部隊としてベラ河上流に沿うて南下し、グリクを落としチャンデロ湖周辺を掃蕩してマレー西海岸本道でシンゴラ上陸部隊と 合した。

 ところで我々はここに當時の報道戦線から全く置き去りにされた東海岸部隊を銘記しなければならない。英領マレーの北端コタバル では凄壮(せいさう)なる血の上陸が行はれた。 丈擁の波を冒して上陸、舟艇がまさに敵地海岸へ向かつて放たれた瞬間、折柄の月明を利用して敵機の大群が 来襲してきた。一隻の小船に少なくとも一機がへばりついて来る。憎々しいほど明るい月の光は友軍の姿を完全に暴露してゐる。船はただ波に揉まれるのみで一 向に進まない。ぐっと腰を落ちつけて舞ひ下がつた敵機は進まぬ小船に向かって機銃掃射を開始した。上陸地点まで八百米、前進は中止されなかつた。やがて兵 隊たちは悲壮な決心をしなければならなかつた。「泳いで行け!」命令一下 銃と被甲を持った兵隊の思い身柄は逆まく波の中へ飛び込んで行つた。南国でもさ すがに冬だ。深夜の海は氷のやうに冷たい。銃をさし上げた黒い影は波の間に間に散らばつて行く。戦友を呼び交ふ声が波音に混じつて響いて来る。しかも無数 の黒点は一秒一秒敵地へ向かって流れて行つた。

 砂浜に泳ぎ着いて椰子の木陰に立つた一人の部隊長は闇を透かして「おーい」と低い声で叫 んでみた。済済たる椰子の葉すれが騒がしく聞こえてくるのみである。じっと腕を組んで瞑目した。疲れが浅い眠りを誘ひさうになると、それを揺り起こすやう に突然 「ヤマ」 といふ声が響いて来た。

 おお友軍の合言葉! 部隊長はガバッと跳ね起き「カワ」 と答へた。部下の一人が」にっこり 笑つて近ずいてきた。やがて一人、また一人、ずぶ濡れの部下たちが集まつてくる。全滅を覚悟してゐたのに何の奇跡か夜明けが近ずくにつれて、部隊は殆ど揃 つて来た。勇敢なるものの生命は限りなく強靭だつた。この部隊は言語に絶するジャングル突破を敢行して。ケランタン地域の進撃を続けクアラルンプールで本 体に合したのである。

 マレー作戦におけるジャングル戦はこの部隊によって一番多く試しみられた


これが有名な銀輪部隊の自転車、ここからシンガポールまで1100キロ55日間で戦闘を繰り返しながら駆け抜けた。

歩兵第56連隊

兵科 歩兵
所在地      熊本 - 久留米
通称号/略称       8903
上級単位    14師団 - 18師団 / 18師団
最終位置    英領ビルマ ラングーン東北
主な戦歴    日露 - 日中 大東亜戦争

    1905年(明治38年)

    4 - 動員下令
    613 - 軍旗拝受

    1907年(明治40年)10 - 14師団から第18師団へ所属変更、衛戍地は久留米となり転営
    1914年(大正3年) - 青島の戦いに参加
    1925年(大正14年)51 - 宇垣軍縮により本連隊は廃止
    1937年(昭和12年)

    9 - 軍旗拝受、第18師団隷下となる、以後は上陸訓練を重ねる
    108 - 門司港を出港
    杭州湾上陸作戦に参加、金山衛城、亭林鎮、嘉善、湖州での戦いの末杭州にいたり、占領後は同地の警備に就く

    1938年(昭和13年)10 - バイアス湾上陸作戦に参加、華南各地で戦う
    1941年(昭和16年)128 - コタバルに上陸、マレー作戦に参加
    1942年(昭和17年)4 - ビルマに移動、マンダレーやシャン州を経由してメイミョウに到着、同地の警備に就く
    1943年(昭和18年)

    3 - イギリス軍ウィンゲート空挺旅団の侵入に対処
    10 - ウ号作戦、九号作戦に参加

    1944年(昭和19年)

    6 - 第一次断作戦に参加

    1945年(昭和20 年)

    2 - フーコンやメイクテーラの戦いなどに参加、以後はシッタン方面へ移動しニャンカン付近で防戦に努める
    8 - 終戦


加藤隼戦闘隊も観たであろうクアラ・パク・アマン・海岸





 

2012年7月17日火曜日

クアラ・ルンプール日本人墓地


クアラルンプール日本人墓地


Japanese Cemetery in Kuara Lumpur
Jalan Lapangan Terbang Lama, Kuala Lumpur


古くは明治3年の墓もありかなり古い時代からクアラルンプールに日本人が住んでいらしたんだななどと思いました。
マレーシアには大東亜戦争の足跡が各地で見られる此処クアラルンプールでも、この日本人墓地の中に歩兵第十一連隊有志の皆様が建立した慰霊碑が立っている。





慰霊碑の裏面には次のようにある

われわれは太平洋戦争の戦火に倒れたわが仲間および各国軍人と住民の慰霊を弔うとともにマレーシア連邦国民の平和と反映を祈る

We Japanese mourn for the sprits of the citizens and soldiers of all countries who fell in WORLD WAR II and wish peace and prosperity to the Malasian Federation
September 1978

ここでも太平洋戦争とあるがこの当時はこれでも精一杯だったんだろうな、、、、

歩兵第11連隊は非常に由緒ある連隊で次のようにある。

歩兵第11連隊

1875年(明治8年)5 - 23大隊を基幹に改編
99 - 軍旗拝受
1876年(明治9年)10 - 萩の乱に出動
1877年(明治10年) - 西南戦争に従軍
1882年(明治15年) - 壬午事変に出動
1894年(明治27年) - 日清戦争に従軍
1900年(明治33年) - 北清事変に従軍
1904年(明治37年) - 日露戦争に従軍
大正期 - シベリア出兵に従軍
1937年(昭和12年) - 日中戦争勃発、北京から沙河にいたり万里の長城沿いに作戦する
1938年(昭和13年) - 徐州会戦後、周辺の警備に当たり、青島へ移動したのち広東作戦に参加
1939年(昭和14年) - 魯北にて治安戦、10月から華南に移動し南寧に向かう
1940年(昭和15年)9 - 仏印に進入、フランス植民地軍を追撃しつつランソンからハノイを経てハイフォンへ向かう
1941年(昭和16年) - マレー作戦に参加、同地を占領後はスレンバンに駐屯し警備に当たる
1945年(昭和20年)8 - 転進中に終戦。その過程において橘丸事件が発生する。病院船で軍隊輸送を行なう国際法違反行為だけでなく、航海中米軍に臨検拿捕されたため同連隊の第12大隊の全員が無傷でそっくり捕虜になるという帝国陸軍最大の恥辱の一つとなった。後にこの責めを負い上級部隊である第5師団師団長山田清一中将同参謀長浜島厳郎大佐は自刃し、南方軍総参謀長沼田多稼蔵、参謀副長(事件当時)和知鷹二、第2軍司令官豊嶋房太郎中将らが横浜法廷で有罪とされ刑に服した。

その横にはJA8051号機遭難者 慰霊碑

1977年にクアラルンプルで発生した飛行機事故の犠牲者のための慰霊碑あった。

日本航空クアラルンプール墜落事故

1977(昭和52)927日、日本航空715便DC-8-62(JA8051) 悪天候の中クアラルンプール空港に着陸進入中に墜落し大破。旅客26名及び乗組員8名死亡,旅客43名及び乗組員2名重軽傷。

吉隆寺

本尊は日本の物と言われていた、それはすばらしい仏壇でした螺鈿細工の仏壇であんな大きい物は始めて見ました。


クアラルンプール日本人墓地
Japanese Cemetery in Kuara Lumpur
Jalan Lapangan Terbang Lama, Kuala Lumpur
慰霊に行かれる方は前もって管理人のジェリーさんに電話をしていけば、親切に対応してくれるはずです。本当に親切な方でした。

ジェリーさんの電話番号

0166596989

まで







2012年7月13日金曜日

ramadan

UAE(アラブ首長国通信)の天文学者が、今年のラマダン(イスラム教での断食月)は7月21日土曜日に始まり、8月19日の日曜日に終わるだろうとの予測を発表した。

多くのムスリム(イスラム教信者)
にとって一大イベントであるラマダンは、イスラム暦における第9月に行われる。ただ、イスラム暦は太陽暦に基づいているためその実施時季は毎年異なる。また、第9月に入り三日月が見え始めた日から始め、一月後に再び三日月が見え始めた日に終えることになっており、最終的には長老が日程を決めている。ラマダン開始日を予測したシャールジャ首長国の天文学者、イブラヒム・アル・ジャルワン氏は「(今年の第9月は)7月19日木曜日の午前8時24分(UAE時間)から三日月になる」としたが、三日月が肉眼で見え始めるのは翌金曜の夜からだろうと語った。

ラマダン期間中は日中の飲食が禁じられるため、外食店などでは営業が控えられる。その一方で、日没から夜明けまでは飲食が可能で、友人や知人を招いて会食する人も増えるため家事代行サービスの需要が伸びる。また、ラマダン明けの祭りには帰省する人が増加し、交通機関が混み合うといった影響もみられる。

結局は21日からという事で、今年は私も挑戦してみよう、しかし夕方からいっきに飯を食べるので、結局は太るんだよね、と言うよりも、そもそもダイエットではないんですよと聞こえてきそうだ。







2012年7月7日土曜日

床屋


アメリカの独立記念日の催し物でアメリカ大使館主催の海兵隊による演奏が7月5日伊勢丹などが入っているワールドトレードセンタで開催された、参加するつもりも何もなかったのだが、音楽が聞こえてきたので、たまたま通っただけ、ドラムに沖縄海兵隊のマーク付いているので無性に話したくなり近ずいた次第です。
聞いてみると沖縄のキャンプフォスターから来た海兵隊楽団、演奏が終わり黒人の兵隊と話し沖縄の生活はどうだと聞いてみたら、沖縄は良いねと言っていた。そうだろうな貴方達は、、、


話は変わるが1年5ヶ月ぶりに床屋に行った、その間2回ほどは美容室と言う所には行きましたが、心境の変化があったり何か考えるところがあったわけでもないんですが、実は海兵隊の髪形を見てその夜に

「髪を切って男」が夢に出てきまして

「何時髪を切るんだと」言うわけです、

「それじゃー明日にでも切に行こうか」、

朝起きてどうしようか考えていましたら、昨日の海兵隊が頭に浮かぶわけです。思いついたら吉日と言うわけで早速切に行きました。久しぶりの床屋、顔剃りもしてくれる気持ちが良い、頭が涼しい。

長いところは肩近くまで伸びておりましたので女性が髪を切るという事がどんな心境か分かったような分からないような?何れにしてもスッキリはしました。

頭に浮かんだ海兵隊の髪型
























念のため言っておきますが私は親米ではありませんので。



2012年7月5日木曜日

ボモージョ伝説


アウンサウンスーチー女史の半生を描いた映画、リュックベンソン監督の映画The Lady ひき裂かれた愛』が21日から日本で公開される。
映画だけの話であるが観る前にぜひ此方を観ておいていただきたい。


映画でもこのシーンは出てくるがリアル1988年のアウンサウンスーチー女史が始めて民衆の前に出てくるシーンである、スピーチはビルマ語なので分からないと思うのですが、話し方そっくりです、取り巻き似も注目していただきたい、ミンコーナイン氏や、ガンビラ師、それにコメディアンのザッガーナ氏そっくりである。

ボモージョ伝説

ビルマには一つの民間伝承がありました。それは「イギリスに滅ぼされたアラウン・バヤー王朝の最後の王子が自ら「王ボモージョ、雷帝」と名乗って、白馬に跨がり太陽を背にして東方からやってきて、ビルマを救出して我々を開放する。王ボモージョの稲妻の進撃の前に、イギリス軍はビルマから追放される」という伝承です。

当時南機関の鈴木大佐が自ら王ボモージョと名乗って、金色の王冠に純白のロンジーを着用し、白馬に跨がって陣頭に立ちました。これをビルマの 民衆が歓呼の声で迎えた歴史的なシーンが起きたのです。信仰に厚く伝承を重んずるビルマの民衆は「東方から王ボモージョ来る」との情報を信じて勇気を奮い 立たせました。沿道の民衆は随喜して歓迎して老人は沿道に飛び出して額ずいてこれを迎えました。
青年たちは雷帝の部下となることを望んで敢然として義勇軍 に参加しました。ために独立義勇軍の勢力は急激に膨らんで行ったのです。

植民地としての長い期間を経験した国々は、自分たちの夜明けというものを一途に信じています。

88年のアウンサウンスーチーのスピーチから24年NLDの政治参加は認められて選挙にも大勝したが、ミャンマーにはお金がないしかしグローバルの名の下に薄汚れた拝金主義に塗れたな政策が果たしてビルマの夜明けとなるのだろうか。
 
また昨年からの政治犯釈放などの政策はテインセイン大統領、現政府がやっているのであってアウンサウンスーチー氏が遣っているのではないと言う事は覚えておいてもらいたい。